ガチョウ達
手紙を受け取った秘書官ハーヴィー=ワットが、ノックして執務室に入る。
「失礼します」
執務室には、スコッチ&ソーダを片手に、書類を読むウィンストン・チャーチルの姿があった。
「なんだ、今は忙しいぞ」
チャーチルは書類を見たまま不機嫌そうに答える。
「手紙を受け取りまして」
「誰からだ」
「GC&CS、ブレッチリーからです。差出人はアラン・チューリング他3名です。至急、首相に渡してくれと」
「開けろ」
ハーヴィー=ワットは、その手紙の封を切り、中身をチャーチルの机に置いた。
「自分たちは『邪悪なオジサン達』だと伝えてくれと言われました」
スチュアート達は、自分たちが不遜なことをしていると自覚していて、波風立てないようそう自称するようにしていた。そのため、スチュアートは手紙を渡す際、そう付け加えたのだった。ハーヴィー=ワットは、彼らの意図を読み取り、スチュアートが依頼した通り、そう伝えた。
「なんだ『邪悪なオジサン達』とは。ブレッチリーの差出人のことか」
そう言って、チャーチルは手紙を取り、
「彼らは邪悪なオジサン達じゃない。金の卵を産むガチョウだよ。
グゥワ、グゥワッ。グゥワ、グゥワッ。
いつもは鳴かない彼らがどうしたんだ?
グゥワ、グゥワッ。グゥワ、グゥワッ」
チャーチルはグラスを机の奥に置き、老眼鏡の位置を整え、手紙に目を通した。
チャーチルは、第一次世界大戦を経験した軍人出身の政治家である。暗号解読の重要性を深く理解していた。
【スコッチ&ソーダ(すこっちあんどそーだ)】
スコッチは、スコットランドで製造されるウィスキーで、それとソーダを混ぜたものです。ウィスキーとソーダを混ぜたものはハイボールですが、そのスコットランドバージョンでしょうか。チャーチルはこれが好きで、朝から飲んでいたそうです。
【邪悪なオジサン達(じゃあくなおじさんたち)】
アラン達4人は、自分たちのことを「Wicked Uncles」と自称していました。
小説では、「邪悪なオジサン達」と訳しましたが、「wicked」の訳し方に迷いました。「wicked」は、魔女を意味する古英語「wicca」からきています。そのため、「wicked」には、「邪悪な」という意味がメインになりますが、そのほかに「不道徳な」「不遜な」という意味があります。意味的には、こちらのほうが近いのでしょうか。意図的に悪いことをするニュアンスがあるようです。
他には、「いたずらな」という意味があります。Wicked Unclesで調べるとおもちゃ屋がでてきます。また、1920年代から「イケてる」というスラングがあるようです。語源の魔女といい、自分たちの業績を誇示している意味も含んでいるのでしょうか。
結局、わからなかったので、日常ではあまり使わない、なんとなく意味が不明瞭になる「邪悪な」を使いました。
【金の卵を産む鳴かないガチョウたち(きんのたまごをなかないうむがちょうたち)】
チャーチルはブレッチリー・パークのスタッフ達を「the geese that laid the golden eggs and never cackled(金の卵を産む鳴かないガチョウたち)」と、その重要性を表現していました。
金の卵を産むガチョウは、ご存じの通り、イソップ寓話の「ガチョウと黄金の卵(英:The goose and the golden egg)」から来ています。この物語は、「農夫が、一日一つ金の卵を産むガチョウを見つけ、金持ちになるものの、欲を出して、金塊があると思ったガチョウの腹を切り裂くが、なにもなく、ガチョウも死んでしまう」というものです。
この物語は、ガチョウを殺すほど「強欲になると結果的に損する」という子供向けの戒めの他に、「短期的利益を取ろうとしたため、長期的な利益がなくなる」ことや「利益そのものだけではなく、利益を生み出すリソース(資源)を大切する」というビジネス的な教訓にも使われることがあります。リソース(資源)は、人材、技術、人脈、教育、機械などが該当するでしょうか。これらはすぐに利益を生み出さない、もしくは、利益への直接的な要因に見えないことがあります。しかし、それがなければ、長期的な利益は生み出せません。
暗号解読は、それ自体で相手の軍隊に損害を与えることはできません。チャーチルは元従軍記者であり、後にノーベル文学賞を受賞するほど文才があります。印象的な言葉を残します。これもその一つではないかと思います。彼は、兵器、軍の規模、戦術などとは異なり、直接的な効果ではなく長期的な利益を生み出す暗号解読者を「金のガチョウ」に例えました。