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ネズミ捕獲長

 猫は、やや大きい身体にダークグレーの毛色をもち、少し雨に濡れていた。おそらく、室内に入りそびれたのであろう。近くに知らない人間が居ても動じず逃げなかった。そのふてぶてしい態度と表情は、スチュアートに飼い主であろうチャーチル卿を思い起こさせるものであった。


――ミャァァウ


 ドアを早く開けろと言わんばかりの猫は、スチュアートの足に雨粒が付いた身体をこすりつける。それを見て、スチュアートはアランのことを思い出した。


 今、胸元にあるポケットの手紙の差出人は、4人である。


 一人目は、この手紙のほとんどを書いた、アラン・チューリングである。アランは、新進気鋭の数学者であり、GC&CSのドイツ海軍の暗号解読を担当する「Hut8」のリーダーである。年齢は、4人の中で一番若い29歳である。

 彼は、ケンブリッジ大学キングスカレッジ卒業後の5年ほど前、ヒルベルトの第10問題に関わる論文「計算可能数とその決定問題への応用」を発表した。そして、アメリカのプリンストン大学に留学し、博士号を取得後、帰国し、GC&CSの長官アラステア・デニストンに声を掛けられ、開戦前から暗号解読に携わっている。


 二人目は、数学者のゴードン・ウェルチマンである。ゴードンは、ケンブリッジ大学のシドニー・サセックスカレッジの学部長であり、GC&CSのドイツ陸軍及び空軍の暗号解読を担当する「Hut6」のリーダーである。4人の中では一番年長で、35歳である。チューリング同様、デニストン長官にGC&CSに誘われた。


 三人目は、イギリスチェスチャンピオンであり、ケンブリッジ大学キングスカレッジを主席卒業したヒュー・アレグザンダーである。歳は32歳。ヒューは、同じくチェス選手で親友のスチュアートから誘われ、チェスのキャリアを中断し、GC&CSに参加。今は、Hut8の副リーダーである。


 四人目は、今、ナンバー10のドアの前に立つスチュアート・ミルナー=バリーで、ゴードンと同い年の35歳。Hut6の副リーダーを務める。チェス選手として、ヒューと一緒にイギリス代表を務め、ケンブリッジ大学トリニティカレッジの同級生ゴードンの誘いを受け、GC&CSに参加した。


 彼らは、部門が分かれてはいたが、仕事内容が近いこと、ヒューとスチュアートが親友だったこともあり、協業で解読に取り組んでいた。



 なぜ、スチュアートは猫を見てアランのことを思い出したかというと、アランが『ナンバー10』に行くことを拒否した理由の一つがわかったからである。

 もし、チャーチル卿と会うならば、手紙のほとんどを書いたアランが行ったほうが良いとの意見が出た。しかし、アランは遠回しに一番代わりが効くスチュアートが行くべきだという意見を出してきた。実際そうであったが、スチュアートは内心、癇に障っていた。そして、この猫である。アランは、重度の花粉症であり猫アレルギーでもあった。チャーチルは猫好きであり、今の『ナンバー10』には歴代最多の3匹の猫が『首相官邸ネズミ捕獲長』としてネズミ退治の責務を負っている。


「フハハハ」


 スチュアートはアランが花粉症の時に使ったガスマスクでチャーチルと面会するのを想像し、乾いた笑い声を出した。


「確かに、猫がいるところに、アランは行けないな」


 そうでも考えないと、彼の無遠慮な性格に付き合いきれないのである。


――ジリジリジリジリッ


 スチュアートは、玄関のベルを鳴らした。


【Hut(はっと)】

 Hutは仮兵舎を意味します。GC&CSがあるブレッチリ―・パークは、邸宅でしたが、1938年5月、英国秘密情報部のトップであったヒュー・シンクレアが、予算がなかったGC&CSの代わりに、私費で建物と23ヘクタールの土地を購入しました。そして、GC&CSのスタッフが働くため、多くの仮兵舎が、プレハブ工法(事前に工場で製作した建築部材を使用して、建物として組み立てる建築工法)によって作られました。そして、部門名は基本「Hut」が付く建物名と同じものになりました。



【ヒルベルトの第10問題(ひるべるとのだい10もんだい)】

 1900年、国際数学者会議でドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトにより発表された23の数学問題の中の10番目の問題です。問題は「任意の数の未知数と整数係数を持つディオファントス方程式が与えられた場合、方程式が整数解をもつかどうかを有限回の操作で決定できるプロセスを考案せよ」で、23の中で最も短い問題です。ロシア人の学生ユーリ・マチャセビッチ氏が1970年22歳の時に否定的に解決しました。



【計算可能数とその決定問題への応用(けいさんかのうすうとそのけっていもんだいへのおううよう)】

 1936年、アラン・チューリングが23歳の時に発表した論文で、原題は「On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem」です。この中で、チューリングは、のちに「チューリングマシーン」と呼ばれる抽象機械を使用して、数学の『計算』というものの仕組み及び限界を説明しました。これが後のコンピューターに繋がり、チューリングはこの論文によりコンピューター科学の父と呼ばれています。



【首相官邸ネズミ捕獲長(しゅしょうかんていねずみほかくちょう)】

 英名は、「Chief Mouser to the Cabinet Office」です。1500年代から、英国の行政施設にネズミ捕りのために猫を飼う習慣がありましたが、1924年から、正式に公務員として雇用されました。それから現職のラリー(元野良猫)まで12のネズミ捕獲長が任命されました。働きが悪いと、解雇されることもあるそうです。

 

 チャーチルは、猫好きであり、彼が居た頃は、3ネズミ捕獲長が居ました。古参の黒猫「ピーター」(1929年から17年勤務)、先代の首相ネヴィル・チェンバレンの時代からいる「ミュンヘン・マウザー」、チャーチルの飼い猫「ネルソン」です。

 ネルソンは、灰色(もしくは黒)の雑種で、首相になる前、チャーチルが海軍卿(海軍大臣)の時に、飼われ始めました。当時、野良猫だったネルソンは、海軍本部庁舎で、大型犬を追っ払いました。それを見たチャーチルが気に入り、誉れ高い隻腕隻眼の海軍提督ホレーショ・ネルソン(1758ー1805)の名を付け、自分の飼い猫にして、首相官邸に連れてきます。

 既に居た「ミュンヘン・マウザー」ですが、この変わった名前は、首相になったチャーチルが付けました。意味は「ミュンヘンのネズミ捕り」です。これは、先代のチェンバレンが「ミュンヘン会談」で締結した「ミュンヘン協定」を揶揄するものでした。「ミュンヘン協定」は、ヒトラー率いるナチスドイツに対し宥和政策を取り、ズデーテン地方(チェコ北西部)の併合を認めるもので、ヒトラーの増長を招いたものとして悪名高い協定です。ただ、チェンバレンの時代にいたという理由だけで、このように扱われるのは可哀想ですね。

 この「ミュンヘン・マウザー」と「ネルソン」は仲が悪く、よくネルソンは、ミュンヘン・マウザーを追いかけていたようです。その光景を見て、チャーチルは笑みを浮かべていたのでしょうか……


 それから、途切れることもありましたが、2022年現在、キジ白のラリーが、解雇危機もありつつも、2012年から首相官邸ネズミ捕獲長を務めています。最近では、リズ・トラス新首相にも認められ、続投が決まりました。



【チューリングのガスマスク(ちゅーりんぐのがすますく)】

 天才アラン・チューリングの変人ぶりの逸話の一つであり、6月第1週に毎年ひどい花粉症に悩まされるチューリングは、ガスマスクを装着して自転車通勤していました。

 また、その自転車はよくチェーンが外れていたため、修理すればいいものの、彼はペダルを漕いだ数を数えて、ある回数になると、降りてチェーンの調整を行っていたそうです。修理に出すほうがチェーン調整よりめんどくさかったのでしょうか。

 他は、盗まれないように、マグカップをラジエーターパイプにチェーンで繋げていました。また、身だしなみは髭を剃らず、みすぼらしい恰好をしていたそうです。

 あと、チューリングは、戦時中、自分の貯金が失われるのを恐れ、250ポンド分(現在に換算すると200万円ほど)の銀のインゴット(のべ棒)を購入します。チューリングは、それを手元に持っておいたり銀行に預けたりするのではなく、ブレッチリー・パークの近くの林に埋めました。戦後、予想通り銀は値上がりし、場所を記した自分の暗号を復号し、掘り出そうとしましたが、目印が変わっていたため、見つけることができませんでした。その後も、金属探知機を使い探しますが、結局見つからなかったそうです。


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