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ナンバー10

 参考資料は、ウィキペディアがほとんどになります。


「……果たしてうまくいくかどうか……」



 雨が降るロンドンの10月の午後。

 肌寒さを感じる中、ユーストン駅に着いたチェス選手スチュアート・ミルナー=バリーは大きな不安を抱えていた。

 形式の上では、彼は休暇でここロンドンに来ていたのだが、今から時の首相ウィンストン・チャーチルがいるであろうホワイトホールに向かわなければならなかった。


 ホワイトホールへは、ここから歩くには遠く、タクシーで行くことになる。雨のため、タクシーを待つ行列は長い。

 待つのが嫌いなスチュアートは、やや駅から離れてタクシーを探す。傘を持ってないため、鞄を抱え、僅かに屋根のある建物を小走りに渡り、周りを見回していた。なかなか見つからない。


「行列に並んでおいた方が良かったのか」


 と後悔すると共に、


「このままホワイトホールに行かなかったら、結果を知らずに済むか」


 というあり得ない希望も頭の中に浮かんでいた。なぜなら、今からやることは最終手段であり、失敗するともう手の打ちようがないからである。


 残念ながら、タクシーは見つかった。雨が降る中、前かがみで、着ていたスーツの上着で鞄を覆い、その黒塗りの車の後部座席へ乗り込む。



「ダウニング街10番地へ」



 白髪交じりの運転手は後ろを振り向いてスチュアートを一瞥した後、何も言わずに車を前に進めた。


 時は第二次世界大戦の最中の1941年10月。バトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍の猛攻を防いだものの、ナチスドイツの潜水艦Uボートの攻撃は続いていた。まだ参戦していないアメリカからの、多くの支援を積んだ船は次々と沈められており、ナチスドイツとの激しい攻防は海上で続いていた。

 そんな中、運転手は、『ダウニング街10番地』、つまり、『首相官邸』に行く客に対して、自ら世間話をする様な野暮なことはせずに、場をわきまえていた。


 エンジン音が響き、ワイパーが左右にせわしなく動く音が聞こえる中、スチュアートは、チェス・プロブレムを解くが如く、首相官邸についたときのあらゆる可能性について思案していた。


 そもそも、この訪問の約束は取り付けていない。首相官邸で門前払いされてしまうかもしれない。その場合、どのような代替策をとるか。一方で、うまくいき、首相と直接話すことになるかもしれない。その場合、どのように、話を進めるか。


 スチュアートは、目をつぶり、チェス・オリンピアードのイギリス代表の頭脳で起こりうる様々な状況をシミュレーションしていた。


 ダウニング街10番地につくと、そこには、とてもイギリスの首相官邸のとは思えない、粗末な門があった。牧場に設置されるような色も塗られていない木製の門のようである。イギリスの首相官邸の玄関口は、ロンドンのよくある数階建ての住まいのように道路に面しているが、その道路は封鎖されており、関係者しか立ち入りできない。木製の門は、その道を封鎖しているものである。おそらく車で突入すれば、簡単に壊れるであろう。

 その想定外の簡素さに面喰っていたところ、レインコートを来た一人の警官が近づいてきた。


「身分証の提示と要件を」


 スチュアートは身分証を警官に見せ、


「要件は緊急だが、ここでは言うことができない」


 と言うと、警官は事務所に向かった。

 暫くして警官は事務所から出てきた。そして、門を開き、タクシー運転手に入るよう促しているのが、ワイパー越しに見えた。


 スチュアートは、そのチェスの能力を見込まれ、ナチスドイツの暗号解読を担う政府暗号学校(GC&CS)に採用された暗号解読者コードブレーカーの一人である。そのため、要件が機密であることは何ら不自然なことではなかった。


 目的のダウニング街10番地の官邸、通称『ナンバー10』のドアの前で、タクシーは止まった。


「少し待ってくれ」


 スチュアートはそう言うと、鞄の中から一通の手紙を取り出した。そして、折り曲がらないように丁寧に内側の胸元のポケットに差し込む。

 タクシーの料金を払い、車から出ると、雨が降る中、小走りで、屋根のある『ナンバー10』のドアの前に向かう。


――ミャァウ


 スチュアートは足元に一匹の猫がいるのに気づいた。


【ユーストン駅(ゆーすとんえき)】

 イギリスの長距離鉄道のウェスト・コースト本線の南側の終着駅であり、政府暗号学校があるブレッチリー駅からロンドンに向かう場合の終着駅です。



【ホワイトホール(ほわいとほーる)】

 綴りは、Whitehallです。ロンドンの「シティ・オブ・ウェストミンスター」地区のテムズ川東側を指します。この周辺には官公庁施設が多く、暗に政府機関を指すことがあります。日本でいう「霞が関」のような感じでしょうか。



【ロンドンタクシー(ろんどんたくしー)】

 ロンドンの黒塗りのタクシーです。ニューヨークは、黄色いタクシー「イエローキャブ」で有名ですが、ロンドンは黒塗りタクシー「ブラックキャブ」です。ロンドンタクシーはその起源を辻馬車(※1)に持ちます。そのため、イギリスではタクシーのことを「ハックニーキャリッジ(Hackney carriage)」といいます。ハックニーは乗用馬という意味です。

 当時のロンドンタクシーは、オースチン社(※2)が製造した「Austin LL(Low Loader)」です。その車体は、典型的なビンテージカー(※3)のように、長細いエンジンルームに特徴的なライトとフロントフェンダー(※4)を持つものです。また、馬車を起源に持つためか、タクシー用に作られたその車内は、運転手は吹き曝しで、その隣は荷物置き場であり、後部座席の客室のみ室内になっています。ワイパーは上付きであり、上半分しかフロントウインドウを磨きません。



――――――――――

※1:客を希望の場所に送り届ける、つまり、タクシーサービスを行う馬車です。

※2:ハーバート・オースチンが1905年に設立した自動車会社です。

 イギリス生まれのオースチンは、17歳のころ、伯父と共に、オーストラリアに移住します。鋳物会社や機械工房に勤めた後、ウーズレー羊毛刈取機械会社に入社します。彼は自身が考案した羊毛刈取機械の改良特許を取得し、それをウーズレー社に売り、株を取得します。そして、工場長になった彼は、車に興味をもち、自身で作成します。ウーズレー社はそれをもとに自動車部門を作ります。その自動車部門は1901年ビッカーズ・エンジニアリングに買収され、 新会社ウーズレー・ツール&モーターカー・カンパニーとなります。

 オースチン自身もそこで勤めていましたが、1905年、39歳の時、弟と有能な部下数人とともにオースチン・モーター・カンパニーを設立します。第1次世界大戦前には、先のウーズレー・モーターズに継ぐ業界5位になります。第1次世界大戦では、政府調達により、飛行機・トラック・大砲などを製造し、おおよそ10倍に成長します。しかし、戦後、なくなった政府調達の需要の代わりに、トラクターなど様々な分野に進出しますが、経営が悪化し、破綻寸前までに追い込まれます。

 1921年、55歳のオースチンは、この危機的状況のなか、役員に反対されながらも、自分の資産を使うという条件のもと小型車の開発を行います。入社4年目で18歳のスタンレー・エッジとともに、8か月で設計し、その3か月後に試作品をオースチン社が作成します。この車は1922年、「オースチン・7」として売り出され、第2次世界大戦前まで累計29万台売れる大ヒットとなります。これにより、オースティン社は持ち直します。

 世界恐慌も乗り切り、第2次世界大戦でもトラックや飛行機を製造しました。オースティンは、1941年戦時中に心臓発作により74歳で亡くなります。

 オースチン社は、1952年にナッフィールド・オーガニゼーション(先のウーズレー社を傘下に含む)と合併し、ブリティッシュ・モーター・コーポレーションとなり、イギリス最大の自動車会社となります。その後は、イギリス病と呼ばれる高福祉や国による産業保護政策による国際競争力の低下もあり、アメリカ・ドイツ・日本の自動車会社に押されていきます。1968年、レイランド・モーターズと合併し、ブリティッシュ・レイランドとなりますが、停滞が続き、1975年、半国営化されます。1986年、完全国営化され、社名は、ローバー・グループとなります。そして、1995年、BMWに買収されます。その後、2000年、BMWはローバー・グループの大半をわずか10ポンドで投資会社に売却し、それをもとにMGローバーが設立されます。そして、2005年MGローバーが倒産し、イギリス資本の自動車メーカー・ブランドは消滅しました。その後、オースチン・ブランドは、中国の南京汽車が所有しています。

※3:1919年から1930年までの車を指します。

※4:タイヤの泥はねを防ぐものです。



【イギリス首相官邸(いぎりすしゅしょうかんてい)】

 時のイギリス首相が居住し執務する官邸であり、ロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスターのダウニング街10番地(10 Downing Street)にあります。ナンバー10と言われることもあります。その入口の有名な黒いドアは、道路に面しており、よく海外映画などで見られる、ニューヨークなどの地価が高いところのアパートのような感じです。また、ドアがある正面口は、庭などほとんどない、シンプルで、ある意味殺風景なものです。サッチャー政権以前では、その前の道路は、一般車両も通行できましたが、今は鉄の門で封鎖されています。戦時中は、木製の簡易な門で封鎖されていたようです。ちなみに、11番地は財務大臣公邸、12番地は院内幹事長公邸です。



【バトル・オブ・ブリテン(ばとる・おぶ・ぶりてん)】

 1940年7月10日から1940年10月31日の間に行われた、イギリス上空でのイギリス空軍とナチスドイツ空軍の空中戦です。最終的に、イギリスが勝利し、ナチスドイツはイギリス本土上陸作戦を断念せざるを得ませんでした。



【ワイパー(わいぱー)】

 主に車のフロントガラスに設置され、ご存じの通り、フロントガラスについた雨や汚れなどを取り除く装置です。


 歴史は古く、1903年にワイパーの特許が3つ認められています。その一つは、米国の女性実業家メアリー・アンダーソンが発案し、彼女に雇われた技術者が設計したものです。ただ、当時は車そのものが少なく、広く普及したものではありませんでした。

 1917年、ジョン・オイシェイがトリコ(TRICO:Tri-Continental)社を設立し、自身が発明した手動で動かすワイパーブレード(Rain Rubber)の生産を開始しました。これが、最初の大量生産されたワイパーになります。1919年、フォルバース兄弟が自動ワイパーの特許を申請し、1921年に認められます。その後、トリコ社は、特許紛争の末、フォルバース兄弟の会社を買収し、エンジンの動力による自動真空式ワイパーを提供します。1926年、ボッシュ社が不安定だった自動真空式ワイパーの代わり電動式ワイパーを開発します。1936年トリコ社がウインドシールドウォッシャーシステムを開発します。トリコ社は、創業から100年以上経った今でもワイパー専門の企業として続いています。


 1963年、ロバート・カーンズにより、間欠ワイパーが発明されます。間欠ワイパーとは、小雨時など動作間隔を調整するワイパーです。カーンズは、自身の結婚式の時、シャンパンのコルクが左目にあたりほぼ失明します。彼は、視力に問題を抱えたまま、雨の中を運転しているとき、その見づらさにイラつき、ワイパーがなぜ瞬きと同じ動きをしないのかと考えます。そこから、間欠ワイパーの閃きを得たと話します。が、後に、本人は、この逸話をでたらめだと否定、つまり、作り話で、発明は冷血なビジネス的なものだと話したそうです。

 カーンズは、トランジスタなどを使った間欠ワイパーのアイデアをフォード・モーター社を始め大手の自動車会社に売り込みますが、すべて拒絶されます。一方、フォード・モーター社は、間欠ワイパーを採用した車を販売します。カーンズは、1978年、フォード・モーター社を訴えますが、フォード・モーター社はカーンズの特許には新規性はないとして反論します。しかし、1990年、約4億ドルを求めたカーンズは、裁判に勝ち、1020万ドルで和解します。また、クライスラーに対しても訴訟を起こし、弁護士費用に1000万ドル以上費やし、最終的に3000万ドル勝ち取ります。

 この話は、「Flash of Genius(直訳:天才の閃き、邦題:幸せのきずな)」として映画化されました。「天才の閃き」とは、1941年米国特許訴訟の判決において、特許の必要要件として出された条件です。ざっくり言うと「特許は既知のものの組み合わせではなく、創造的な天才の閃きが必要」という条件になります。裁判の一つの争点は、間欠ワイパーが「天才の閃き」であるかどうかでした。筆者の勝手な推測ですが、カーンズが自分の目の障害が間欠ワイパーの閃きをもたらしたと話を盛ったのは、「天才の閃き」を意識したからでしょうか。


 ワイパーは発明されて既に100年以上経ちますが、その形は昔と比べてあまり大きく変わっていません。小説の第二次世界大戦中は、既に電動式ワイパーがありましたが、真空式ワイパーが主流でした。



【チェス・オリンピアード(ちぇす・おりんぴあーど)】

 1924年に始まった、国際チェス連盟 (FIDE)により2年1回開催されるチェスの国別対抗戦です。第2次世界大戦中はオリンピック同様中止されました。第2次世界大戦以前は、ハンガリーやアメリカが強かったですが、それ以降では、ソ連が12連覇するなど、ソ連やロシアが金メダルを多く取っています。ちなみに、「オリンピアード」は、オリンピックの間の4年の期間を指し、夏季オリンピックの正式名称は「オリンピアード競技大会(Games of the Olympiad)」です。



【政府暗号学校(せいふあんごうがっこう)】

 学校とついていますが、暗号解読及び通信保護を行うイギリスの情報機関です。英語名は「GC&CS: Government Code and Cipher School」です。1919年に、第1次世界大戦で活躍した英国海軍の暗号解読部門「Room 40」と、英国陸軍情報部門の傍受や解読を担当していた「MI1b」が統合してつくられた組織です。第2次世界大戦前に、ロンドンから80km離れたブレッチリー・パーク(元邸宅)に移設されました。


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