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常雨の君

作者: 彼我差日夜

 ある化学実験によって三十年近く雨が降りやまないこの街で、最近僕は一つの出会いをした。

 僕より少し年上の、最近この街に越してきたという彼女はなんというかちょっとミステリアスな人だ。変わった人という言い方でもいいんだけどそれだとまるで珍獣みたいじゃないなんて彼女に怒られそうだから僕はこの言い回しは使わないようにしている。

 それはそれとして不思議な人に変わりはない。前に一緒に引っ越しの荷物を開いたときだって明らかに洋服関連とかではないのに人に触らせたくない段ボールがあったり、普段から人を寄りつけないような空気を出してる癖にふと気づくとじっと人を観察してたり、妙な挙動が目立つ人だ。そもそも引っ越してくるタイミングもおかしかったような気がする。彼女がこの街に越してきたのは外の雨と混じって雨量が増える地元民でも嫌がる六月のことだ。よりによってこんな時期のこんな街に越してくることはないだろう。そう、余程急いで引っ越さねばならない事情がありでもしない限りは――


「……前住んでたとこで何かあったのかな」


 喫茶店で彼女のことを待ちながら、吐息交じりに呟く。

 彼女のことだからもし何かあったとしてもきっと加害者ではないだろうし、そのときのことを自ら話すこともないのだろうと思う。彼女は逃げるためにこの街へやってきたのだろうからそれでいいのだ。知り合って間もない僕が聞き出そうとするのは間違いで、そのあとに僕から吐かれる慰めもきっと彼女は必要としてはいない。

 彼女が求めているのは自分の過去を知らない人間なのだろうから。

 喫茶店で珈琲を啜ること一時間、彼女が喫茶店へやってきた。


「……あなたって私の熱烈なファンとかだったりしないよね? なんか気持ち悪いなぁ……」


 人の顔見るなり顔しかめて開口一番がこれだ。本当に変わっている。まあ、確かに僕は彼女と約束してたわけじゃないんだけど。


「そう言いながらも同じテーブルに来てくれる辺り、案外君も僕のことをそこまで嫌がってはいないんじゃないかと思ってみたり」

「今の一言で好き嫌いの嫌い寄りにシフトしたかも。やっぱり席変えようかな」

「冗談だって、僕だってナルシストになるつもりはないよ」

「何か用でもあるの」

「うん、大した用でもないんだけどね。連絡先でも聞いておこうと思って」

「そんなの教えなくても待ち伏せでもすればいいじゃん、今みたいに」

「君相手だと高確率で待ちぼうけになるし、待ち伏せだと前日までに買い物に誘ったりできないじゃないか」


 そう、この人、機嫌が悪いと街で僕を見かけても平気で無視したりするのだ。その上普段から機嫌悪いことの方が多いのである。


「ま、それぐらいだったらいいけどさ、あなたみたいな全身黒いのにランダムにエンカウントするよりは精神衛生上にもいいだろうし」


 ちょっと酷いことを言いながら、彼女は携帯電話を取り出す。ちなみに全身黒いは僕の服装が、ということだ。慣れてなさそうに操作した後にこちらに画面を提示してくる。


「……現代人なんだから赤外線通信くらい使いこなそうよ」

「別に、持ち始めたばかりで慣れてないだけだし」


 彼女の歳で携帯電話の操作に慣れていないとは、妙なことだ。

 が、敢えてそこには触れずに画面に表示されている数列を手帳にメモする。それを見て彼女は不思議そうな顔をした。


「あなた、自分のは?」

「今日はたまたま忘れてきちゃってね……そんな顔しなくても僕の方の番号も教えるからさ」


 まあ、つまりどちらにせよ、赤外線通信はできなかったというわけなんだけど。

 そして明らさまに訝しげな顔をされた。慌てて切り取った手帳の一ページに自分の携帯番号を書いて差し出す。表情を変えないままの彼女が受け取った。すぐに手に取った携帯を操作しだすも、その手が止まる。


「名前、何て登録すればいい?」

「え、好きにすればいいんじゃないの?」


 と言ったところで、そういえば自分たちがお互いの名前も知らなかったことに気づいた。知り合って間もないとはいえ、別に今日が初対面というわけじゃない。それでここまで一度も違和感を感じなかったというのだからおかしなこともあるものだと思う。

 さて、今この状態において僕らには二つの選択肢がある。そんなに難しい話でもない。自分の名を教えるか、教えないかだ。

 そんな話をしたら彼女は顔をしかめた。訝しげな顔だったりこれだったりさっきから渋い顔しかしてくれない。


「素直に教えればいいじゃない」


 それもそうなんだけど、僕らには名前のない関係が似合うような気がする。お互いを深く知らないがいいこともあると思う。


「……あなたって本当に変な人だよね。妙に達観してるし、言動に現実味がないというか。そう、まるで」

「小説の登場人物みたい?」


 言葉に迷ってるようだったので、セリフを先回りしてみた。よく言われる言葉でもあったからすぐ出てきたというのもある。それにしても変な人とは、こちらは気を遣ってミステリアスと言っているというのに。


「じゃあこうしよう。小説の人物を作るみたいに、お互いで今相手の名前を決めるんだ」

「偽名ってこと?」

「僕らだけで通じるあだ名と言い換えた方が聞こえがいいんじゃないかと思うけど」


 僕がそう言うと、彼女はふむといった具合に頷く。そのまま何も言わなくなった。机の端の辺りをじっと見つめている。どうしたのだろうとしばらく見ていると。


「なに?」


 と訊かれた。


「いや、急に黙りこんでどうしたのかな、と」

「は? お互いの呼び名を決めるって言ったのはあなたでしょ。考えてるだけだよ」


 あ、なんだすっかり乗り気だったんだ。

 という言葉が喉を通り過ぎて口の中で一度暴れたけど飲み込む。多分これを言うと彼女は一瞬でやる気を失くす。と、思うので、僕も考えてみることにした。とはいえ人につける名前なんて簡単には思い浮かばない。それこそ普段から小説でも書いてない限りは――


「紙」

「え?」

「さっきの紙ちょうだい。あなたの名前書くから」


 もう決まったのか。それにしても口頭で伝えればいいのにわざわざ紙とは。詩的な人だ。

 言われた通りに紙を渡す、多分ペンの類もないだろうからそれも渡す。すると彼女は早速名前を書いた。え、いや待て画数少なすぎじゃないか? 書き始めて終わるまで一回しか紙からペンを離さなかったような……。すると、二画? いやいくらなんでもそれは――


「なに? あ、言っとくけど、あなたが決めるまで見せないからね。早く決めてよ」

「え、あ、う、うん……」


 そう言われて考えるけど、さっき彼女が書いた名前が気になって全然集中できない。一体何を書いたんだ。ああ、もういいや。とりあえず適当に決めよう。SNSでハンドルネームを決めるようなものさ、名前っぽければなんでもいいじゃないか。

 さらさら、と紙に名前を書いた。彼女に紙を渡し、同時に自分の名前が書かれた紙を貰う。

 紙にはくろ、書かれていた。


「……これは、なんというか合理的な名前だね」


 見た目から判断して素早く名付けをするのは確かに合理的ではある。が、それはペットの名前を付けるときに発揮されるべき合理性だ。人の名前をつけるときはもっと深く考えられるべきだろう。僕ならもっと文学的で文明的に名前をつける。


「これは……」


 彼女の持つ紙にはこう書かれているだろう。

 ――常雨の君、と。

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