7.最初の一歩
後日、直政は明智に連絡を入れた。直接会いたいという彼の要望に従い、今度は駅前の喫茶店で顔を合わせて話し合うことに。
この前の一件について謝罪すると、彼は全く気にしていない様子でにこにこと笑う。必要経費として予算から落としてもらうよう、仲の良い経理担当と交渉したらしく、明智本人には被害がないそうだ。
「仁科君入れて十人いや、代打とか守備要員とか入れて十二人ほど集まれば、落としてくれると思うんですけどね。」
直政を許した時と違い哀愁ある笑顔を見せた明智は、心底今の立場に疲れているようだった。どこか悲壮感が漂っている。だから直政はもう一度謝罪しておいた。まるで自分がおやじ狩りをしたような罪悪感が押し寄せてきたから。
「ところで、練習の件ですが。」
急にコロッと表情を変える明智。野球の話をするのは辛くないらしい。いやむしろ今の表情はまさしく一流企業に勤めるビジネスマン。
仁科は以前通り野球部のグラウンドを使用するらしい。しかし野球部ではない直政は使用することができず、まだ社会人野球部も設立されていないため専用の球場もない。
「なんせ、君が初のバッターで仁科君が初のピッチャーだからね。」
まるで名誉があるような言い方だが何も嬉しくない。むしろ帰らせて欲しい直政は無表情で鞄に手をかける。球場が整っていないどころか、存在しないとは何事だろうか。直政の行動に慌てた明智は、テーブルの上に置いてあった彼の携帯にすかさず手を当てる。
「手どけろよ、おっさん。」
「そこでですね、僕は仁科君に土下座して頼み込みました。」
眉間に皺を寄せる直政に、どどん、と明るい声色で計画案を出す明智だが、その前に土下座というかなりのマイナスワードがあるため明るい話に聞こえない。大の大人に懇願され困惑した仁科の顔が目に浮かぶ。
「僕たちなんと、違う会社、つまり武田さんの会社で練習することになりました。拍手。」
「武田って仁科んちのジジイの会社だろ。拍手していいの、それ?織田さん怒らない?」
喜んでいる明智もこれは苦肉の策で背に腹は変えられないらしい。一番整った環境があるのは、仁科の祖父の会社。あとはバレなければいいと笑う明智だが、この男が隠し通せるとは思えない直政。何かの勢いで言ってしまいそうだ。
「でもまだ君一人だから、メニューとかもできていません。なので、伸び伸び練習していただけますよ。」
「だから、いただけますよじゃないの!つまり勝手にしろってこと?武田の人間どんなかもわからないのに、そこに混じって?」
いかにも良い話であるかのように立てられた明智の人差し指を、曲がらない方向に曲げながら直政は叫んだ。笑顔で痛いという明智はさっと手を引く。
「大丈夫です。言ってくれたら僕も行きますから、心細くないでしょう。君は強い。」
「てめえがいても心細いわ、ハゲ。何が強いだ。」
明智がいても武田の人間と特別接点があるわけではなく、心強いはずがない。小学生がするお使いとはわけが違うのだ。痛みと暴言で眉をハの字にする明智が挙句は不満気にこう言ったのだ。
「だったら仲間を増やすの、手伝ってくださいよ。」
このスカウトマンについて行って本当に良いのか。そう思った直政だが、確かに一人でそれだけの人数を集める苦労は容易に想像できるため、同情の余地はある。明智の哀愁に負け出来るだけ協力するとは言った。
そして直政の中で気が付いたのだ。仁科が野球部で練習するからいけないのだ。武田に接点がありつつ、直政を巻き込んだ本人が何故今まで通り大学の土地で練習しようとしているのか。
「まずそこを説得しろよ。」
「なるほど。それもそうですね。」
直政の指摘に明智は手を叩く。二十歳の大学生に指摘されるなど心許ない明智の様子に思わずため息が出る。それでも彼は仲間が増えて嬉しそうに笑っていた。
一応丸く収まり話し合いの解散直前、喫茶店の前で明智はもう一度直政を呼び止める。まだ何かあるのかと不機嫌に振り返ると、彼は一礼した。
「期待してますよ、直政君。」
今までニコニコというかヘラヘラした顔で話していた明智が、こんな顔もするのかと思うほど眼光鋭い目つき。本気でこの仕事に取り組んでいるのだと理解できた直政は、思わず親指を立て笑顔で返す。
「余裕だな。」
ずっと仁科が野球を続けられる理由は彼の背景が大きいからだと思っていた直政。しかし先ほどの明智との話し合いで、プロを目指していた仁科がしがない社会人野球チームに希望を託したのか知ることができた。
今はもう、直政は仁科の事を羨ましく思わない。彼の人生を知ったことも大きいが、背景の大きさだけではないと分かったから。彼は野球への情熱があったから続けられたのだ。
そしてその情熱は、見事に鎮火していた直政にも移った。挫折の要因はあるが、続ける要因もある。仁科は続ける要因を見つけることが上手いのだ。
今回の契約で野球を再び始められることは勿論、有名企業に内定をもらえたことも有り難い。これで伸び伸びと野球ができる。
ただし全員集まればという話だが。もし集まらなかったら、就職浪人になる可能性が高いだろう。元々周りの目を気にせずに生きていた直政には、少しの浪人など痛くも痒くもない。
一応このことを実家の母に伝えると、彼女は泣いて喜んだ。自分が引っ越しを促してから野球を辞めた息子の気持ちを少なからず気にしていたから。
榊原にも報告したが、彼は興味がないようで特に会話が進むことなく終わってしまった。榊原もまた就職活動をせず研究職に進む人間。いつでも選択肢を考えてくれた彼は、お互いどんな道だろうとずっと友人だろう。
社長秘書を務める華は、その後も華やかな人生を生きることに懸けている。だがメッセージアプリのIDを一新しSNSも一新した彼女は、日々の出来事を好きなように綴るだけ。フォロワーも一桁になったが気にしないように努めている。
もう背伸びした生活をやめたのだ。今の彼女の幸せは、直政に教えてもらいながら野球を見ることと、たまにカフェに行って甘いものを食べること。そして空いた時間に猫カフェに立ち寄ること。
SNSや私生活で虚勢を張らなくなった彼女、性格が丸くなったと職場の人から言われた。それでも、度々彼女に助け舟を出していた後輩は、今でも軽い発言をしながら華と変わらず接している。
「ダーツバーやめたの?最近行かないけど。」
「球投げた後になんでダーツも投げなきゃなんねえの。」
ある日の夜、野球を見ながら華に質問され、直政は寝転びながら答えた。転々と住まいを変えてきた直政に好きな球団など無いため、いつもどっちが勝つか華と勝負している。赤色が好きな直政は主に広島カープを応援。傍にはもちろん、あのネズミのキャラクターのぬいぐるみ。
ダーツバーもナイトクラブも行くことを止めた直政。いや行く時間がなくなったと言った方が正しいかもしれない。サーフィンだけは止めておらず、状況が落ち着いたら始めたいと思っている。
「偉いねえニャン。夜遊びやめたの。タバコもやめたし偉い。」
「てめえ馬鹿にした言い方するな。あとニャンもやめろ。俺の名前は直政だ。」
撫でられる頭を弾こうとする手つきが最早猫パンチ。猫カフェに通った成果として、ここ数日で発見した華。彼は顔だけでなく動きも猫に近いと。その日からニャンと呼ぶが、直政には受け入れられていない。
「なんで、ニャン可愛くない?」
「全く可愛くねえよ、クソババア。」
その瞬間、華は手を止めた。これは殴られると思った直政は起き上がり構えたが、殴られない。むしろ部屋の隅でいじけている。思わず言いすぎたと謝ると、彼女は何かに気がついたように姿勢を伸ばした。
「……そういえば、私一回も好きって言われたことない。」
「え。」
今そんな話をしていただろうか。唐突な言葉に固まる直政。そして華が顎に手を置き真剣に考え始め、雲行きが怪しさ察知し彼はテレビに向き直る。
「ちょっと、一回言ってみて。言われてみたいから。」
「いやそのやりたい事はやる習慣やめない?」
ずっと行ってみたい所には行ってみたし、食べてみたい物は食べてきた。だからといって、言われてみたいから言わせるというのは違う気がする。そんな説明も虚しく、直政は肩を掴まれ揺さぶられ始めた。
「なんでよ。いいじゃん。ほら。」
「無理。」
「ほーら。」
絶対に言いたくない直政がピンチの時、テレビの方から歓声が上がった。どちらかのチームの選手が打った球が、声援と実況の声と共に観客席に吸い込まれていく。
それを目にした直政は真っ先にテレビにかじりついた。それに続いて華もテレビに向かう。
ホームランを打った選手は、直政が応援しているチームの選手。これで逆転スリーランホームラン。
歓声を上げる直政の後ろで、何故か華も歓声を上げていた。
「え、お前負けそうなんだよ。」
「ホームランって気持ちいいよね。」
結局彼女はあまり試合の内容がまだ分かっていないようだ。頑張って学ぼうとはしているが、一気には覚えられないのだろう。だから華は直政が喜ぶ姿を見て喜び、熱心に説明する姿を見て楽しんでいる。それに気がつくと何故かすごく愛おしさ感じた。
「ちょっと、こっち来て。」
「なによ。」
なんて伝えれば良いかわからなかった直政は自分が座る足元に座るように言い、後ろからひっつきながらテレビを見る。
そんな事をしたことない華は、恥ずかしさに負けてすぐに飛んで逃げていこうとするが、ずっと捕まえておく事にした。
せめて野球の試合が終わるまで。
『赤い髪のスピードスター』終わり