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6.高速違反者



「よう直政。」


 声を変えられた直政が振り返ったとき、そこにいたのは仁科だった。


最悪なタイミングに現れたと口が閉じない直政。だがそこにいたのは仁科だけではなかった。彼の後ろからひょっこり見知らぬ顔が見えたため、直政は首を傾げた。


「おっさん誰。」


「どうも。私は明智と申します。あ、これ名刺です。」


 明智という男が手渡した名刺に書かれている社名は、企業研究など行ったことのない直政でもどこか聞いたことのある会社名。そんな大手企業に勤める人間が何の用だと渋い顔をする直政に、仁科が状況の説明を始める。


「明智さんは社会人野球の選手を募集しているんだ。だから直政も誘おうと思って。やってみないか。」


「社会人野球?俺まだ社会人じゃないけど。」


平然と説明をしていた仁科は直政の発言をやんわりと否定する。どうやら今から社会人野球チームに所属することを決め、これから伸び伸びと野球の練習をするらしい。

その隣で苦笑いをする明智の顔と交互に見る直政は追加説明を受け理解した。

 

「でもさすがに無条件ってわけにもいかないので、ちょっと実力が見たいと思いまして。」


 本当は今日仁科のバッティングを見る予定だったが、偶然日取りが重なったようだ。そんな都合のいい話があるのかと直政は間が抜けた顔で明智を睨んでいる。そして眉間にシワを寄せた。


「てか、俺野球やるって言った?」


「いや言ってない。言ってないが、バッドを握れば気持ちは変わるかと思って。ほら早く。」


 仁科は直政に受け付け用のボードを手渡す。どのみちバッティングセンターを利用するつもりだったから、記入は構わない。書き終えた直政は舌打ちをし、さっさとそれを受付に出した。


「見せていただくだけでいいので。」


 足の速さに自信がある直政は、そう言って聞かない明智を置いて逃げることもできるが、肝心の華が帰ってこない。


 どうやらこのバッティングセンターではスパイクも貸してくれるようで、それを仁科から手渡された直政は引くに引けなくなっていた。時間も勿体ないからと諦め、渋々バッターボックスに立つ。


 久しぶりに味わうボックス内の空気感。球が飛んでくることへの緊張を感じる。構えること自体は実は久しぶりではない。気が向いたときに素振りをしていたから。そう思うと本当は馬鹿みたいに野球好きなのだろう。


 仁科はバッド握れば変わると言った。その心情は共感できなくもない。明智の掛け声が聞こえたあと映像の投手が構え、ボールが飛んでくる。


「速え。」


 バン、という音と共に壁に当たったボールが転がる。思ったよりも速く見えた。しばらく目を使っていなければ、これ程まで衰えるのか。


 そのあとの二球は目を慣らすために見送る。段々と思い出してきた。そして四球目。今度はスイングしてみた。だが当たらない。はるか上を振っている。


「まだストレートだけだぞ。一番バッター。」


「黙れバカ。こっちはブランクあんだよ。いいから見とけ。」


 仁科の野次に反応するが目はしっかりと球を見ていた。一番センター井伊直政、背番号8の意地を見せてやる。五球目空振り。六球目空振り。そして七球目。球にバッドが当たった。


 カキンという音ともに、コロコロ転がる球。当たった感触が久しぶりで、思わず掌を見た。そう言えばこんな感じだった気がする。


「当たった!」


 そのあとすぐに高い声がした方向に振り返った。そこには直政と同じく振り返る明智と、口を開けている仁科。この二人の視線の先には、球避けのネットにしがみつく華の姿が。さっきの高い声は華の物だったのだ。


「ちょっと、お前……!聞いてない!デートならそう言えよ。」


「だから仁科うるさいって。今集中してんだから、話しかけるな。」


 華の姿を確認したが全く気にすることなくスクリーンの投手を睨む直政。これだから真面目な坊ちゃんはと呟き、一呼吸置いてバッドを握り直した。


八球目。ファーストゴロ。あと二球。


「そうだ仁科。俺さっき告白したから。」


「お前それ今言うか。」


「でもまだ返事もらってないんだよね。」


 九球目。バッドに当たった球は二遊間を抜けていく。これが初めてのヒット。しかし直政は満足していない。


「今の俺だったら二塁踏んでたな。でもこれじゃない。」


 高校からの直政のバッティングの持ち味は足と選球眼。バッティングセンターという場所ではそれを見せることは難しい。

 明智もそれは残念に思っていたが、約6年ぶりのバッティングでここまでやるとは衝撃だった。何故なら今の設定速度は148キロ。一般素人なら到底打てない速度だったのだ。


「これ持ってて。」


 最終打席直前、直政は華に床に置いていた自分の鞄を投げて渡す。

 終わったらすぐにでも帰りたいということだろうか。渡された華が疑問に思っていた矢先、快音がセンター内に響いたのだ。


 十球目、彼はツーベースヒットにあたるヒットを出した。たった十球であそこまで当てるとは。

 目を見張った仁科と明智は次の瞬間、更に目を疑った。バッドを投げ捨てる音がしたかと思うと、直政が華を連れて走り出したのだ。


 戸惑っていた華が咄嗟に走ることが出来るはずもなく、盗賊のように抱えることにした直政。驚いた二人が追いかけようとしたが、予想外の出来事だったことと、ひと一人を抱えているとは思えないほど彼の足は速く、気がつけば出口付近で靴を履き替えている。


「おい直政!」


 華を外に逃すと直政は怒鳴る仁科に向かって借りたスパイクを投げた。他の客から悲鳴が上がるが、スパイクは真っ直ぐな軌道で仁科まで届く。もう一足は慌てて追いかけてきた明智まで届いた。


「悪いな仁科とおっさん。あとの支払いはよろしく。あ、俺間違えて10球コース十回にしちゃったから。」


 じゃ、と手を振ると直政は再び華を抱えて走り出した。明智と仁科が状況を飲み込み、店の外に顔を出したときには遥か向こう。


「すごい速さですね。あと肩も送球も素晴らしい。」


「感心してる場合じゃないですよ。あいつ、なんて非人道的なことを!」


 怒りに燃える仁科。その横で頷く明智の肩を誰かが叩く。そこの店員と思われるような、そうでないような、店のエプロンを身につけた色の黒い大柄な男が、親指でバックヤードを指差していた。


「お兄さん達。ちょっと裏きてもらおうか。あと料金、一万二千円ね。」


「は、はい。」


 引きつった顔の明智の後ろで、永遠と思われるほど出続ける球の音が虚しく聞こえた。


「すみません。俺が受付に出す前に確認していれば。」


「誰もこんなことするなんて思わないから。それにしても、すごい度胸だ。」


 打ちもしない球数を申請したこと、店内で貸し出し用のスパイクを投げたこと、支払いをせずに店の外に出ようとしたことを、店の人間にこっぴどく叱られた二人。

二人が実行犯ではなく損害が発生していないため、厳重注意でその場は収束したが、きっちり一万二千円は取られた。


 仁科はこの時、明智を心からいい人だと思った反面少し不安になった。この男、少し他人に優し過ぎるのではないかと。


 一方逃げた直政は、流石に華を抱えた状態で走り続けることは難しく、しばらく走ったところで息切れし、近くの公園で休憩。


 華は何があったのか理解するのに時間が掛かったが、ベンチに腰掛け理解した瞬間に直政の頭を叩く。


「何してるの?!十回って書き間違えて、しかも払わずに逃げるってどういうこと?!馬鹿じゃない?!小学生でももっとマシよ!」


「だってあいつら急に来て、野球しろって煩いから、ちょっと懲らしめようと思って。」


 最初は肩で息をしていた直政だが、話しているうちに落ち着いたようだ。だが、言葉はむしろ途切れ途切れになる。


 先程まで元気に逃げていた直政だが、後半は足取りが重くゆっくり歩いていた。そして今ベンチに座ったとき、どこか肩を落としているように見えた彼に華はため息を吐く。


「ちょっと打ったらやりたくなったんでしょ。」


 二人に勧められ立ったバッターボックス。第七球目、球を打った瞬間心臓がドキッと一瞬止まり血が沸き立つ感覚がした。久しぶりに感じた感覚。それは一気に高揚感へと変わったのだ。


 だがそれと同時に思い出した。自分が悪戯で十回分、つまり一万二千円を請求されるように書いた事を。


 だから彼は最後の球は意地でも打とうと思った。そしてこれまでで一番大きな当たりを出したあと、彼は逃げる決意を固めたのだ。


「あとあんたのことだから、逃げるのがちょっと楽しかったとか。」


 華が野球をやりたいという気持ちがあった事を指摘したときは、叱られた子供みたいに小さく頷いていたくせに、走って逃げた話には薄っすら笑顔を浮かべる。


 この逃げるときの緊張感と逃げ切ったときの優越感が好きらしい。だから彼はよく盗塁をしていたのだ。


「私は楽しくないんだよ!」


「はいはい、すいやせん。もうしませんから。」


「絶対しないでよ、次したら……」


 次したらどうなるのか、聞く前に直政の電話が鳴る。相手はもうわかりきっている。きっと仁科だ。眉を上げた直政は渋々その電話を取った。


「おい、どういうつもりだ!お陰で明智さんが大金払うことになったんだぞ!」


 仁科の怒鳴り声にすかさず音量を下げる直政。落ち着くまでその音量で聴くことにした。

 彼の家はさぞ大きいのだろう。あの声の音量で苦情がこないのだから。


「悪いって。俺一万円も持ってねえからさ。」


「だったら最初から書くな!嫌がらせか!」


 ご名答。なんて言ったら学校で会った時に半殺しにされそうだから、そこは口を噤んでおく。


 しばらく怒りが収まるまで聞き役に徹していた直政だが、退屈した華が携帯を取り出したのを見て視線を移した。案の定SNSを開こうとしたので、彼女の携帯画面を手で隠す。あれほど見ない方が良いと言ったのに。


「まあ今回は明智さんが許すと言っているから良いとしよう。それとな……」


 落ち着いた途端仁科の声が聞こえにくくなった。慌てて音量を上げたが、どうやらなにかを話し終えた後のよう。もう一度聞き返すと、彼から驚きの言葉が聞こえた。


「だから、お前に是非入って欲しいって。その足と肩と、ボールを見抜く力、あと度胸に惚れたと。」


「マジで言ってる?お前のスカウトマン頭おかしいんじゃない?」


 この意見に関しては仁科も同感らしく、力なく肯定された。あんなことをされてもなお、更にスカウトする明智はどこかおかしいのかもしれない。不思議に思った仁科が聞くには、伸びる予感がしたとかどうとか。


 音を大きくしたことで聞こえたのか、自分の携帯画面から直政の手を振り払おうと苦戦していた華が顔を上げた。


「とりあえず、明智さんの連絡先教えるから、するならするで連絡しろよ。」


 それだけ言って電話が切れてしまった。すぐに電話番号とメールアドレスが届く。そして右手の指に痛みが走った。痺れを切らした華が指を曲がらない方向に曲げたのだ。


「ちょ、俺の黄金の右手が。名外野手だぞ。」


「それ使う日くるの?仲間に入れてもらえるって?」


 仲間に入れてもらえるという、まるで自分が寂しがっているような表現には不満がある直政だが、もう一度やってみても良いかもしれないと思っているのは事実だ。


 さっき感じたあの感触をもう一度味わいたい。


 仁科からの電話の内容を告げたとき、これで再び野球ができるとなぜか大いに喜んでいた華


「これからグローブ買って、バッド買って、それから靴買って、後は服?あれは貰えるのか。それから……何いる?」


「ちょっと早いって。ていうか全部お前が買う気かよ。」


「だって私、直政が野球するところ見るの、面白かったもん。面白いことをするよう言ったの、あんたでしょ。」


 口を尖らせたかと思うと、るんるん気分で必要なものを検索する姿はさすがお嬢様。きっとこれまで彼女が、会食や友人達との遊びと毎日使った金額に比べると、大した額ではないのかもしれない。


 だが流石に全部出してもらうのは違うと感じた直政は、また画面に手を置いて検索作業を阻止した。

「やっぱり物は自分で買う。てか明智に買わす。だから華は、選んで。」


「何を?色?素材とかはあんまりわかんないけど。」


「いや、試合のほう。友人として見にくるか、彼女として見にくるか。どっち?」


 再び質問された華にはもう逃げる場所がない。今恥ずかしさに負け、答えずに逃げてしまうと、その両方ともが叶わなくなるだろう。


 理想は夜景が見える綺麗な場所。だったが、夜の公園も悪くはない。それに直政の身勝手で起きた脱出劇も、盗賊のような抱え方も、脳内変換で工夫を凝らしに凝らせば、素敵なものに思えなくもないだろう。

いや、そんな馬鹿みたいな考えを持つ時点で答えは決まっていたのだ。


昔の自分なら恐らく、鼻で笑って貶していた。こんな子供染みた男なんて眼中にないと。でもそれが、今では楽しいのだから仕方ない。背伸びをせずに楽しいと思える方に生きると決めたのだから、何も悩むことはない。私はやんちゃなお姫様になるのだ。


「彼女として、かな。」


 その時初めて直政は目を輝かせた。野球をしている時とはまた違う輝かせかた。不覚にもそんな彼の表情を可愛いと思ってしまった華だった。

 誰かが言っていた。かっこいいは救いようがあるが、可愛いと思いだしたら重傷なのだと。


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