3.野球を辞めた理由
いつも通り大学の授業が終わったあと、バイトに出かけた直政。深夜に終わると真っ先に自転車で帰宅し、壁に掛かったサーフボードを取り出す。
車を持っていない彼は友人に乗せてもらってサーフィンに出かける。一人で行きたいが、今はそんな金銭の余裕はない。いっそのこと海辺に住もうかとも思うが、今度は通学が苦難になる。そうして仕方なく仲間と一緒に出かけるのだ。
一晩中遊んだ帰り道、車に揺られながらふと仁科の言葉が浮かんだ。
自分は肩を動かすためにサーフィンを続けているのか。そんなわけがない。肩を動かしたいだけなら体操をしているほうが効率的に違いないのだ。
稀代の選手として一軍を勝ち取ったというのに、父が他界してから母に持ちかけられた話は転校。
「お母さん、あんたに大学まで行ってもらいたいの。だからここじゃなくて、実家に帰って貯金しようと思って。」
涙ながらにそう言われたとき、自分が一軍を勝ち取ったことが小さいことに思えた。それよりも、父が亡くなり心傷している母に迷惑を掛けるべきではないのではと。
母に連れられて行った先は平凡な高校。野球部はあるが名前も知らない。ただみんなで野球をしているだけのチーム。その姿を見た時、彼はユニフォームを脱いだ。
所詮それくらいの思い入れだったのだと自分に言い聞かせたが、どうしても捨てられなかった野球のポスターやグラブ、バット、ボール。甲子園の土。捨てようと思うと手が震え、涙が出る。
本当は悔しかった。あの高校を辞めなければいけないことが。正直にいうと、皆でする野球が楽しかったから。
あれほど練習した結果が、これほどまでに理不尽な理由で断たれてしまうとは。
それからはもう、野球をすることは無くなった。
そこから彼は大学に進学し、投手を務める仁科と仲良くなった。彼も野球が大好きだったから話が合ったのだ。だがその友人を羨ましく思わないかと言うと嘘になる。
仁科の祖父は会社の社長。武田という苗字を聞けば誰もが思い浮かぶ社名の会社を経営している。彼は背景が強く、家庭の都合など気にすることなく順調に野球を人生歩めているのだから。
「なら始めたら?」
サーフィンから帰った三日後、華から連絡があった。今回は宅飲みとか言うものをしたいようだ。
そんなもの女性同士でしろと言ったが、彼女は女性同士なら尚更気を使うらしい。失敗するわけにはいかないため、予行練習をしたいのだとか。SNSにあげるとき、酷い姿を見せるわけにはいかないと意気込んでいた。
「お前簡単に言うなあ。」
部屋にきて真っ先に提案した言葉に、直政は眉を寄せた表情で返答する。またやりたいから、もう一度始める。そんな簡単な心情ではない。
華の予行練習をするという判断は正解だったようだ。彼女がやってきた時の服装は、高級レストランにでも行くのかと疑いたくなるような華やかなもの。
床にベタ座りするとシワがつきそうなタイトスカートに真っ白なシャツ。リラックスできることが利点である宅飲みに相応しいのか疑問が浮かぶ。
「あと、どんだけ頼むんだよ。二人だぞ。ピザ6枚って。」
「えー沢山食べると思ったのに。それに安いし、全部食べて見たかったんだもん。」
華が到着したかと思うとすぐにインターホンが鳴った。玄関に出てみると、そこには顔が隠れるほど山積みにされたピザを持つ配達員。
それを手渡され目を丸くしていると、嬉しそうにやってきた華が領収書を受け取った。
ここに来る前に配達を依頼していたようだ。なんの相談もされなかった直政はその量に驚愕している。
いざ並べてみれば六枚。おまけに戻ってきた彼女はプライドポテトまで抱えていた。
「いや食えるか!酒まであんなに買ってきて!」
「そう怒るでない。ほれほれ飲みたまえ井伊君。」
ビール瓶とグラスを直政の目の前に出し6枚全部のピザの蓋を開け、早速ビールを注ぎ飲み干す華。
やっぱりビールだと白い髭を作る彼女は、普段友人たちと飲む時は細いグラスにシャンパンしか飲まないらしい。あとはお洒落なカクテル。だが本当はビールが好物なようで、初めて居酒屋で飲んだとき感動し、そればかり飲んでいたことを直政は覚えている。
「あのさ、さっきの話。」
特に何もすることがなく、テレビに流れている昨年放送された映画を眺めているとき、既にビール瓶を一本空けた華が呟いた。
「なに映画の主人公の父親が、華の親戚のおっさんに似てるってやつ?」
「違うわよ。しかも主人公の兄ね。頭悪いんじゃない?その話改めて掘ってどうするの。野球の話よ。」
そんな話をしたなとテレビを見ながら直政は生返事をする。華は華でピザを少しずつ食べながらテレビの画面から目を離さない。ちょうど映画の主人公も真剣な話をしている。
「やればいいじゃん。そのために走ってるんでしょ?」
「そのためってか……ほら、細い方がモテるし……だから。」
歯切れ悪く返す直政をちらちらと見る華。丸まった背中がまるで猫のようだ。確か少し前、足の短い猫がおっさんのように座ると話題になっていた。それに似ている。
華はこの部屋でビールを飲みながら思っていたのだ。
最初に来た、というか助けられたときは気が付かなったが、彼はサーフボードやダーツボード裏に野球のポスターを貼っているし、バスケットボールを題材にした漫画の後ろに野球を題材にした漫画がある。
それに加え、連絡がすぐにつかないかと思えば、夜中にランニングをしているらしい。
散々直政に世間知らず扱いされている華だってわかる。何故なら彼女は四歳も年上のお姉さんだから。
「本当は続けたいんでしょ。そんな簡単じゃないとか、そのためじゃないとか言ってるけど、やりたくないとは言わないじゃん。」
酔い潰れて彼に拾われた時から徐々に知り、確信を持った。彼は生意気で負けず嫌いで人一倍口が悪いが、面倒見が良くて素直なのだ。
友人が介抱すべきだというと、一人の人間を連れて帰ってしまうほど。
「諦めたらそこで試合終了ってなんかで読んだよ。」
野球のことなんて一切わからない華だが言えることはある。
好きなものを諦めることは辛いし、誰かに格好悪いところを見せることは避けたいものだ。負けず嫌いは、負けたままでいたくないものだ。そして勝てるか不安な勝負は避けたがるものだ。
本当は野球が好きなのではと言われてから、直政はずっとテレビの画面を見ている。やっと動いたかと思えば、ビールをグラスに注いで飲み干し、机に置いた。
「それ、俺の漫画な。しかもバスケ漫画。おもんなくて、途中で読むのやめたけど。」
先程の台詞は、少年漫画に関心を持った華に直政が貸した漫画に出てくる台詞。
どの世代にも受け入れられる超有名バスケットボール漫画。名作中の名作とされ低身長の選手も描かれており、数多くのファンを残した漫画を読めば好きになれると思った。だが、一向に興味が湧かなかった。
手でボールを放り投げてカゴの中に入れる遊びを真剣にしようと思えなかったのだ。
「いいよ、おもんなかったら、やめちゃって。面白いと思う事したら。」
ビールに飽きたのかハイボールを作りながら言った華の言葉に、直政は目の前で手品を見せられた猫のような顔をした。それを見た華は不思議そうに頬を緩める。自分は何か言ったかと。
「おもんないとか、俺言ったっけ。たまに出るんだよな、あっちの言葉。」
少し遠い昔。野球をやっていた時は向こうの方言で会話を交わした。その言葉で指示を出し、その言葉で野次を言った。その言葉で喧嘩をし、その言葉で冗談を言いながら帰った。
そんな毎日が楽しくて、口悪く聞こえる言葉で罵られた事が悔しくて、練習に励めた。
もういいやと諦めてから離さなくなったが、久しぶりに出た言葉のような気がする。いや、たまに出ているのだろうが、真似をされた事はなかったような。
「そう言うお前も面白くないことは止めて、いい加減まともな友達作ったら。背伸びしなくても、伸び伸びビール飲める友達。」
タバコを咥え、火をつけた直政が煙をふかす。
痛いところを突かれた華は軽くプライドを傷つけられたようで、むくれているのか不機嫌になったのか分からない顔で直政を睨んでいた。出来上がったウーロンハイを飲みながら。
そして勢いよくグラスの中を飲み干すと、ガンと大きな音をたてて机に置いた。
「そうだ、バッティングセンターに行こう。私一回も行ったことないの。女の子がバットなんて振り回すものじゃないって。」
「……俺の話聞いてなかったろ。」
聞いてたよ、と答える華は真顔でポテトを摘んでいる。だから考えるのを止めたのだ。
自分の友人に自信がないことも、何の見栄を張って生きてきたのか、分からなくなったことも。今のこの一瞬で解決できそうになかったから。
「猫みたいな生活送るあんたに言われて凹むなんて、馬鹿みたいなこと止めたの。さあいつにしようかな。」
手帳を鞄から取り出した彼女は指で日にちをなぞっていく。ほぼ毎日仕事か遊びの予定が入った手帳。SNSを更新するために入れた、写真に映える場所に訪れる予定。
直政のバイトと用事が入っている日を聞いて、彼女はその日を避けてある日にちを伝えた。
直政がその日取りで良いと答えると、そこに予定を書き込もうと某有名ブランドの可愛らしいボールペンを取り出す。
「ねえ、修正テープない?私二重線で消すの、嫌いなの。見た目が汚くって。」
華に言われて直政は引き出しから修正テープを取りだした。それを渡すと、彼女は自分の予定を消す。
その予定は、現在予行練習をしている友人とのホームパーティー。もう行くことをやめた。だってそのメンバーと会っていても楽しくないから。
「スッキリした。」
そう言って背伸びをする彼女はゆっくりと手を下ろすと、にっこりとした笑顔でポテトを口に放り込む。その様子を見た直政も頬を緩め、ポテトを口に放り込んだ。
「なあ、なんで彼氏できなかったの?」
「え?できなかった?何のこと?私そんなこと言った?」
「見ればわかるよ。いなさそうって思ってた。」
声を出し、指をさして笑う直政に、華はこの猫野郎と濡れた布巾を投げる。それを受けると、彼は遠く離れた台所に投げ入れた。
投げられた布巾は下降放物線を描くことなく真っ直ぐ伸びる。あれがホームならきっと、走者は悔しい顔をしただろう。