2.一年生レギュラー
井伊直政は近くの大学に通う、猫みたいな顔をした大学生だった。
真面目に勉学に励むタイプではなく、特別偏差値の高い大学に通っているわけでもない。身長は170センチに届かず、常々背を伸ばしたいと考えており、やり方を間違えているのか跳躍力だけは上がっている。
小さい頃から転勤族だった父に連れられ、全国を転々と回ってきた直政。
地域によって学力が異なることもあり、まだ教えられていない分野にぶち当たることが多くなってからは勉強に励むことが嫌になっていた。
そんな彼が高校一年生の時、父は事故で亡くなった。父の居眠り運転だった。
当時は関西に住居を構えていた井伊一家。父の収入も安定していたため、家賃がかかる大きなマンションの一室に住んでいたが、母は今後の生活を考え息子を連れて実家近くに引っ越すことに。その時から直政は関東で暮らすことになった。
数年間過ごした関西の言葉が抜けず、時折その言葉が混じり異端な目で見られることもあったが、そんなことは既に慣れており、気にも留めていなかった。
根っから勝気な性格だったのだ。
髪を金色に染め高校三年生の秋頃まで授業にもついていけない様子だったが、亡き父に残された母から大学にだけは言ってほしいと懇願され、渋々受験勉強をすることに。
高校に来てからできた唯一頭の良い友人、榊原康政に教えてもらいながら勉強を始めた結果、現在の大学に合格。
元々負けず嫌いだったこともあり、普段無口で聞き役に徹する榊原が、テストの点数だけは自慢してくることが悔しく、それがバネになったと言っても過言ではない。
全て終わってみると、あれも榊原の作戦だったのかもしれない。
そんな恩もあり、彼とは今も頻繁に連絡している。研究職を目指す榊原は迷惑に思っている可能性もあるが、それは直政の知ったことではない。
母の望みで入ったものの、父が残した遺産と母の稼ぎしかない事を知っている直政は、学費は自分で工面しようとアルバイトをしていた。
そして大学三年生の時。そのバイトの帰り道で華を拾ったのだ。その時にアドバイスをくれたのがあの榊原。
「お前のことだ。確実に怪しまれるから、この画面は残しておくように。」
初めはこの助言が癪に障ったが、彼の予言通り直政は疑われ、画面を見せることでその疑いは晴れた。持つべきものは、人を客観視できる友達である。
実はあの時、榊原以外の他の友人にも相談はしていた。
しかし他の人はラッキーやチャンスだと捉えた意見が多く、聞く気になれなかったのだ。合コンは好きだが、何故かそういうやり方は好きになれなかった。
結果としては、榊原の意見を尊重して正解だったらしい。今でも華との連絡は続いている。
かなりの醜態を晒した彼女が、礼をすると聞かずに押し切られたのが最初。
出会った時から泣きながら謝ったくせに、図々しく他人の家のシャワーを借りると言いつつ出し方を知らなかったり、コンビニの弁当など口にできないと言いつつ完食したり、異性の服など着て帰れないと言いつつ、しっかり直政のお気に入りのネズミのキャラクターTシャツを着て帰るなど、生き方を拗らせている節は見えていた。
だからお礼をしたいと聞かない彼女は、また何か拗らせているのだろうと思い、これ以上ややこしいことに巻き込まれたくない直政が折れて承諾。
よく話を聞いてみれば、それが常識だと後輩に言われたらしい。しかし華は、あたかも最初からそうするつもりでいたように振る舞ってしまったため、前言撤回する術を知らなかったらしい。
術も何もないのではと、心の中で呟いた直政は小さくため息をついた。
「あんたには、私史上最も恥さらしなところを見られたから、もういいのよ。」
そう言って華は、本当は行ってみたかったが人目が気になって行けなかったらしい、焼き鳥チェーン店へ。想像以上に美味しかったのか、お淑やかさなど微塵も見せず、もりもりと食べている。
華が仕事帰りだったこともあり、高そうなスーツを着てブランドのバッグを持った女性が、焼き鳥を頬張り感銘を受けている姿は言葉にできないものがあった。
何より自分へのお礼だったはずが、彼女の行きたかった店に連れてこられ首をかしげる直政。結局全額奢られたため、文句は言えなかったのだが。
それから何度も、華の未知への旅をするお供になるよう要請が来る。
自分が誘うからとか、年下のくせにとか、高くないからと、毎回華がカード一括で支払いを済ませるため、食費稼ぎぐらいにはと顔を出し、その分は貯金に回すか、ダーツで遊ぶか、夏に備えてサーフィンの遠出資金にしている。
本当に片意地を張って生きてきたようで、居酒屋にはボタンを押すだけで店員がくるシステムがあることや、ファーストフード店では食品を注文しに席を立たなければいけないなど、庶民からすれば常識であるようなことを知らない。
その度に彼女は、知っているフリをしては直政に指摘され、恥ずかしさ紛れに酒を飲む繰り返し。
「あのさ、もう世間知らずだってバレバレだから、訊けよ。大体ゲロ吐いた時点で意地張る意味ないだろ。」
しばらくしてから直接そう言われた華の心は完全に折れた。
それからはちゃんと尋ねるようになり、恥ずかしさ紛れの焼け酒もなくなった。
これはこれで悪酔した彼女に絡まれなくなったので、直政としては安心した毎日を送れている。
「最近やけに飲みに行くなって思ったら、そういうことか。」
同じ大学で同じゼミに所属している仁科盛信と昼食の時間帯が重なったため、食堂で一緒に食事を摂っているとき、ここ最近の出来事を報告。
同情されるかと思えば、彼には目を平たくされた。
大学の野球部に入る仁科担っているのは投手という花形。
真面目を絵に描いたような彼は、朝から晩まで野球のことを考え練習する青年で、色黒でキリッとした眉をしている。
夏になると黒く焼けるという点では直政も同じ。仁科は野球。直政はサーフィン。だがまだ夏というには早い季節。
「女性とは健全な付き合いをするべきだ。不特定多数と遊ぶなんて言語道断。あってはいけない。真っ直ぐ一人を愛すべきだろ。」
「馬鹿野郎!飲みに行くだけだろ。」
真面目だけではなかった。熱血漢でもある仁科は身振りを踏まえて熱心に人間としての生き方を説てくる。そのうち、顔が濃いような印象を与える要因である大きな目に火がともり、焦った直政は慌てて彼を黙らせた。
これではまるで自分が不特定多数の女性と遊んでいるようだ。
「……いいか、俺は至って健全な付き合いなの。不特定多数の女と遊んでなんかない。」
やや大きめの声で話す仁科を制止し、必要以上に小声で話す直政。そんな彼を仁科の目の火は沈下し、逆に冷めた目を向けてきた。
「先日はダーツバーに行ったって聞いたけど。」
「その時も酒飲んでタバコ吸ってダーツして遊んだだけ。」
「じゃあその前の、賭けに勝ったから自分はナイトクラブで一銭も支払わずに帰ってきたっていう話は。」
「それは、賭けに勝っただけだからいいだろ。賭博じゃない。」
まるで秘密の作戦会議をしているかのような面持ちの二人の間に沈黙が流れる。仁科は最終決断を下すような口調でその沈黙を破った。
「両日とも女子と遊んでいないと。」
「いや、そうとは……。」
本当に同い年の大学生なのか。中身は所謂お父さん世代の人間なのではないか。そんな疑問すら浮かぶ直政。
最近の暇な大学生なら、それくらいの遊びはしているだろう。ましてや自分で稼いだ金銭だから問題ないはず。とも言えず、再び沈黙が流れる。野球しかしない仁科本人は、反論もできないほど健全な生活をしているからだ。
「まあいいや。お前も程々にしておけよ。俺は午後から先客があるから、もう行くな。また。」
仁科はそう言うと、野球で鍛えられた太い腕で食器と鞄を持って立ち上がる。時間が迫っているのか、ちらりと腕時計を見ると、颯爽と歩き出した……かと思えばすぐに振り返った。
「そうだ。お前も野球やれよ。今もたまに走ってるし、ダーツは目を鍛えるため、サーフィンは肩を慣らすためにしてるんだろ。きっと健全な毎日になるぞ。」
「それはお前の解釈だろ。走るのはモテるため。あとはただの遊び。大きなお世話だよ、ばーか。」
机に伏したまま答える直政に爽やかな笑顔を向けた仁科は、何事もなかったかのように去っていった。
野球選手のどこが健全なのか。全員が全員とは言わない。だがすぐにインタビューに来たアナウンサーと結婚してしまう野球選手は、本当に健全な遊びばかりをしているのだろうか。
思えば全く性格が異なる仁科と仲が良くなったのは、直政も以前は野球をしていたと発言したことから。
高校一年生までは野球をしていた。それも今みたいに中途半端な生き方ではなく、のめり込んでいたと言っても過言ではない。
自分の身長が高くないことを自覚していたし、それを馬鹿にされることもあった。なにせ中学からがむしゃらにやってきた直政が転入したのは、強豪校と呼ばれる学校。
だが負けず嫌いなのか往生際が悪いのか、そんな理由でここまで続けていた野球を辞めたくなかった直政。
人一倍練習することで見返そうと決めたのだ。流石の強豪校。他の選手の練習量も凄まじいもの。しかしそれ以上に練習を重ね身長の関係がない分野を伸ばしていった。
だから勉強ができなくなったといえば、言い訳かもしれないが。
そして一年生の冬。彼は一軍を勝ち取ったのだ。
「お前がもし、うちのエースからヒットを撃てばレギュラーに入れてやる。」
毎日の練習を見ていた監督が情け半分、もう半分は冗談で持ちかけた話。絶対に打てるはずがないとタカを括った監督だったが、結果は大きく違った。
直政はストライクとボールを見極める力、選球眼があり厳しい球ではバッドを振らない。
そしてバットを短く持ち、あくまで塁に出ることを優先した彼は、コンパクトなスイングで投手が投げた球を打ち返した。難しい球はファールになるように当てる。
一年生のチビ坊主のくせに。
スリーボールになり痺れを切らした投手の放った球が、甘いところに入ったのを見逃さなかったのだ。
エースの掛け声と飛んだボールを見て守備が一斉に動く。二遊間に転がった球を飛び込んでまで取る彼らの守備の堅さは強豪校の凄さ。しかしそこから投げたところで間に合わない。もう既に彼はファーストの塁を踏んでいたのだ。
「ホームランは打てないけど、足には自信あるんだよな。」
そう言ってヘルメットを外す姿に、同じ一年生だった同期が歓声を上げる。一方でエースは悔しそうにグラブをマウンドに叩きつけた。
ボールギリギリの臭い球を投げれば勝てると思ったのに、一年生ごときに打たれたのは屈辱のほかない。
無事にレギュラーを勝ち取った直政。そして迎えた春の甲子園。初めて踏んだ土に彼は感動した。今自分は漫画で読んだ世界にいる。
「俺ってやればできる子。」
同学年で入っているのは自分だけ。おまけに一番初めにバッターボックスに立てる。誰もが一年生だと聞くと驚いた。
その時は優勝などできなかった。勝ったのはたったの一度だけ。それでも直政は愕然としていなかった。甲子園の本番は夏だと思っていたから。
しかし夏の甲子園。そこに彼の姿は無かった。
甲子園から帰宅して三週間後、二年生に上がる直前に、父が事故を起こし他界したのだ。