1.井伊直政
すっかり暗くなったオフィス街。街の灯りがキラキラと輝き、華やかな金曜日を彩るように光っている。
今日は決戦の日。そんな歌もあった気がして、鼻歌を歌いながら街を闊歩した。
仕事を終えた松平華は興奮と緊張を抱えながら、ヒールを鳴らして歩いている。
有名私立大学を卒業し今は社長秘書を務めている彼女は、スタイル抜群の黒髪ロングの美女。おまけに仕事も完璧にこなし、実家は会社経営のお金持ち。SNSのフォロワーは芸能人並、とは言わないが、それなりにいる。
名前の通り、絵に描いたような華やかな自分の人生に誇りを持っていた華は、歩くときも胸を張って歩いていた。私はお姫様だと言わんばかりに。
昔から姫のように扱われてきたのだから、普通のこと。周りの人間は自分のことを蝶よ花よと扱うべきなのだ。そうとすら思っている。
そして今日はそんな彼女の決戦の時。
自分のことを完璧だと誇る華だが、たった一つだけ人生に不満があった。それは未だに彼氏という存在を持ったことがないこと。二十代前半最後の歳となった彼女だが、まだ一度も誰かと交際したことがない。
「私に見合った男がいないからよ。」
そうやって鼻を鳴らし、同じくお嬢様育ちの友人に説明していた華だったが、実際のところは自分でも不思議なのだ。才色兼備である自分に何故恋人ができないのか。
「声は掛けられるでしょ?」
友人の質問に、愚問であるかのように髪を靡かせながら肯定するが、それはただの見栄。
男性に声を掛けられないわけではない。初見の男性には。ナンパとかいうやつは経験したことがある。
しかし長い付き合いになる大学のクラスやゼミの人間、果ては会社の人間にまで、真っ先に候補から外されてしまう。華は一人で楽しそうだからと。
そんな華に見限った学生時代からの知り合いが彼女のために設けた今日の決戦場。それが合同コンパ。
そんな下品な集まりになんか参加しないと言っていた華だったが、結婚する友人も現れ始め、勢いで決めた。今回は参加すると。後悔は、多分ない。
「私ばっかり人気になっちゃうかもしれないけど、ごめんねえ。」
戦場に立つ決意表明をした電話で高らかに笑った華は、電話を切ったあと理想の男性に出会えることを夢見ていた。そしてその後、早速服を購入し、ネイルも施し、エステにも行った。
だから今、華は新品のブラウスに新品のワンピース、キラキラしたネイルをつけ、戦闘準備が完了している。鞄はもちろんブランドバッグ。今日の私に勝てる人間はいない。そう思っていた。
三時間後、彼女は撃沈した。誰とも連絡先を交換できなかったのだ。
最初の当たりは良かった。男性陣から歓声も上がった。それに気を良くした華はその合同コンパを名いっぱい楽しんだ。
その結果は散々だった。あとで知人達にメッセージ上で確認してみると、どうやら華だけ連絡先を手に入れることが出来なかったよう。
何故自分だけ。この哀れな状況は華の中で困惑を生み、次第に悲しみに変わり、最後には怒りへと変貌。人生で初めてコンビニで酒とアテを購入し、公園のベンチで一人二次会を行ったのだ。
怒りに任せながら酒を飲みつつ、友人達の惚気メッセージを見ては、今度は泣きながら酒を飲む。
馬鹿にされた気分だ。やってられるか。悔しい。悲しい。この私が。の繰り返しをしているうちに、彼女は夢の中に落ちていった。そこから記憶がないのだ。あるのは頭痛のみ。
次に華が目覚めたとき、目に入った場所が何処なのか理解できなかった。見覚えのない古びた木製の天井が見える。
自分の右側には見慣れぬポスターに、傍には有名アニメーション映画のシンボル的キャラクターのネズミのぬいぐるみ。そして知らない掛け布団。
ここは知らない場所。そう認知したとき、彼女は慌てて飛び起きた。昨日の焼け酒が残っているのか酷く頭痛がする。
辺りを見渡すと、なんとも落ち着きのない部屋。ダーツボードにサーフボード。昔流行ったハリウッド映画のポスターに散らばった漫画と干しっぱなしの洗濯物。真っ赤なソファに誰かの丸まった後ろ姿。
「後ろすが…た?!」
思わず無言で壁際により、誰なのか確かめようとベッドから足を下ろしたときに目を疑った。自分の素足が見えたのだ。昨日は確か、お気に入りの新品のワンピースを着ていて、それは割と丈が長かったはず。
恐る恐る掛け布団をめくると、そのワンピースがない。上のブラウスと下着のパンツはある。ブラウスに関しては、寝転んでいたせいでシワが付いたが、それはもういい。それどころではない。
大きな声を出し叫びたかったが声が出なかった。アワアワと口を動かす事しかできない。
近場にワンピースがなかったため、掛け布団を腰に巻いてベッドから静かに降りた。そしてコツンと何かがあたる。自分の鞄だ。
慌てて携帯を探り出し電源を入れると、すぐに知人とのメッセージ画面が現れた。そのうちの一人、まだ仲が良いと言ってもよい後輩に電話をする。震えた声で。
「えー!本当ですか!男性ですか?女性ですか?」
状況説明をしたとき返ってきた元気溌剌な言葉に、大事なのはそこだと思いだし、電話を繋げたまま、そっと丸まった背中を転がそうとした。揺らしても揺らしてしても、なかなか転がらないため、痺れを切らした華は力を込める。
寝起きが悪いのか起きる素振りが微塵もないそいつは、赤い髪をした眉が細い男。
男。
「お、お、男!」
その事実に一番困惑したのは華本人だった。まるで怪人に出会ったかのような悲鳴を上げたが、彼は依然として丸まっている。
触った時に柔らかい感触ではなかったため怪しいと思ったが、僅かな希望をかけてひっくり返したのに、それは無残にも打ち砕かれた。華は今まで男性の部屋に泊まったことがなかったというのに、今時分は知らない男の家にいる。
華の回答に感激した後輩は意気揚々と写真を送るようにせがんでくる。先輩の一大事を楽しんでいるように見える彼女が、友人なのか疑いたくなった瞬間だった。
混乱に混乱を重ねた彼女は後輩に言われるがまま、自分の携帯電話で彼の写真を撮った。が誤ってフラッシュを焚いて撮影したため、眉間にシワを寄せている。
やってしまったと固まっているうちに、彼が起き上がってしまった。
「いい感じじゃないですかあ。先輩、そういう時は、お礼にってご飯に誘うんですよ。」
そんな彼女の助言を頭に入れながらも、体を起こし開けっ放しのカーテンから見える窓の外を呆然と見る男を眺めることしかできない。
次第に男は何かを探すように、手探りで自分の眠っていたソファを触ったあと、ふと華のほうを見た。そして目があった。それに驚いた華は誤って頼り綱としていた電話を切ってしまう。
「……あんた誰だっけ。」
「ひいいい!この変態!なんで冷静なのよ!こんな事してただで済むと思ってんの?!ひいいい!!」
ベッドわきにあったくネズミのキャラクターのぬいぐるみを、男に何度も叩きつけているうちに、華は後輩の言葉を思い出して手を止めた。
小慣れた女性は、お礼と言ってご飯に誘うらしい。
「お礼って何よ!何のお礼なのよ!」
「は?!なに?!あ、思い出した。ちょっと落ち着けって!」
ネズミのぬいぐるみを取り上げられた華は慌てて近くにあった漫画で頭を守る。
そのままの体勢で待っていたが何もない。そっと漫画を除けて様子を伺うと、眉間にシワを寄せて怪訝な顔をしている。よく見ると猫に似ている気もする。
「あのな、俺は何もしてねえから。話を聞けよバカ。」
この場に及んでそんな事を言うのかと思ったが、彼が言う話を聞けば、どうやら違うらしい。段々落ち着いてくると、華は二日酔いに気がついたように頭が痛くなってきた。
急に喚いたのも、いけなかったかもしれない。
立ち上がった男は怠そうに冷蔵庫を開け、ペットボトルに入ったままの水を華に放り投げて渡す。
無理な体勢にならずとも、引き込まれるように華の元へペットボトルが来た時は、少し感動した。以前動画で見たミラクルチャレンジのようだ。
そのボトルも栓は固く未開封のようで、二日酔いの華には少々固い。持って帰ってもよいと言われたので、懸命に開け遠慮なく口を付けることにした。水がこれほど美味しいとは知らなかった。
水を飲み落ち着いた頭でまとめると、彼の話はこうだ。
昨夜、彼が居酒屋のアルバイトから帰宅するため自転車に乗っていると、酒に溺れた華が記憶をなくしたままベンチの上で転がっていたらしい。
ワンピースを着てヒールを片方履いて片方転がした状態の彼女は、焼酎缶をその辺に置き、足を開いた状態で爆睡していたのだとか。
あまりに衝撃的だった彼は関わるべきではないと判断して、一度はそのまま素通りした。
「でもさ、なんか若そうだし、このまま放っておいていいのかって思って引き返したの。」
しばらく自転車を走らせたはずなのに、引き返してもなお彼女はそのまま放置されていた。
その時の、助けた方がいいか友人と相談したメッセージのやり取りが彼の携帯に残っているらしく、華にそれを見せてくれた。男はどうやら井伊直政というらしい。
恥ずかしくなるほど、鮮明に状況説明がされてあるそのやり取りに、手が震える。文章で読んでいる限り、自分は完全ただの痴女だ。
「じゃあ私のワンピースは?返してよ!」
華が声をあげると直政は携帯を取り返し、画面をスライドさせた。そこにもちゃんとメッセージが残っている。
何度起こしても起きない華をずっと起こしているうちに、周りの目が気になってきた直政は、迷いに迷った末、一旦彼女を連れて帰ることにした。
何故なら起こしている最中、華が酔いすぎて嘔吐したから。先ほどまで介抱していた男が逃げて帰ったと思われそうで、段々放置しにくくなったらしい。
バイト帰りに華を抱え、自転車を押して帰る作業はなかなかの力仕事だった為、帰宅した時には直政は疲れ果てていた。
だが吐物が付いた服のままベッドに寝かせることもできず、渋々ワンピースだけを脱がし、それを水で軽く洗い、洗濯機に入れるだけ入れ、自分の寝る準備をして就寝。
「んで起きたら、あんたにぬいぐるみで殴られたと。散々だぜ。こんなんだったら、あそこに置いときゃ良かった。」
直政は水を飲むと既に止まった洗濯機から華のワンピースを取り出した。まだ乾いていないため干す作業が必要だが、汚れは落ちている。
「疑うんだったら自分の鞄の中見ろよ。ゲロ臭えストッキング、ビニール袋に入れて、中に入れたから。そんな臭いやつに、なんかしようと思うわけねえだろ。」
そのままベランダに出てタバコを蒸す直政に言われた通り、華は自分の鞄の中を探ってみた。そこには確かに吐物のついたストッキングがあったのだ。
何故そんなに酔い潰れていたのか、尋ねられれば答えられないような理由、かつそれほどまでの醜態を晒してしまったことへの絶望が華を襲う。とりあえず、彼に礼を言わなくてはいけない。謝らなくてはいけない。
「有難うございました。ご迷惑をお掛けしてごめんなさい。」
今まで仕事以外で人に謝る事をしてこなかった華。その照れ臭さと恥ずかしさと悔しさと切なさと、あらゆる感情が入り混じった結果、彼女の声は涙声になり、涙があふれてくる。
まさか泣きながら謝られると思っていなかった直政は目を丸くした。一体どの言葉に関して涙を流しているのか、理解できない。
「おう。いいけど。何で泣いてんの?」
「ごめんなさい。お礼に、ご飯、行きましょ。」
「いや、その前に帰る方法考えろよ。これ乾くまで待つか?」
完全に涙を流す華に引いてしまった直政の提案に涙しながら頷き、ペットボトルに直接口をつけて水を飲む華。
髪もボサボサでヨレヨレの服のままの姿は、もうどう見てもお嬢様には見えなかった。