3.滝川慶次
鳥の声が響く昼間。
昨晩友人たちと遊び帰ってきた慶次の体には十分にアルコールが回っており、朝方に眠った。目が覚めても吐き気を催すほど視界が回り、瞼を閉じても天井が回っているのがよくわかる。
友人たちと酒を飲みながら遊び回る瞬間は楽しいのに、こうして自宅に戻ると虚しさが襲う。自分は何をしているのか。また無駄な自問自答をし始めてしまうのだ。
結局答えなど見つからないまま、気づけば夢の中にいる。そんな時に見る夢はいつも同じ。
英語での歓声が聞こえるグラウンドはツーアウト一、三塁。前回の自信打席はフォアボール。今ホームランを打てば、連続試合本塁打記録を塗り替えることができる。ヒットだと百打点を達成できる。どのみち打つしかない。
試合の残数的にもこれが最後の打席だろう。どうにか記録を残し、チームを勝利に導きたい。
高校の時から変わらぬ打席に立つ前のいつものルーティン。しっかりとバットの柄の端を握り、投手を見つめる。周りの祭りのような歓声や自分の名前が書かれたボードが胸を高鳴らせた。
一球目ボール。二球目ボール。三球目ボール。思わず一度打席を離れて素振りをする。
こんなのありかよ。あんまりだ。
四球目。ボールと分かっていたが敢えて振ってストライク。相手の捕手が慶次の方を見る。五球目。またしてもボールだったが再びバッドを振った。
これでフルカウント。ここまでくれば相手も勝負をするだろう。投手にもプライドというものがあるはず。四方からは声援が聞こえる。じっと投手を睨むと相手投手がボールを握り両腕を上げる。
次の瞬間、何故か目が合った。気のせいではない。確実に相手投手は捕手の構えるミットを見ていなかった。そして全力で球が投げられる。
猛スピードで球が自分に向かって飛んでくるところで飛び起きた。
じっとりとした汗で寝巻きが体にへばりついている。二日酔いなのか古傷が痛むのか、側頭部がやけに痛んだ。
嫌な夢を見た。もう見なくてもいいはずなのに、いつまで経ってもこの夢が付き纏ってくる。
肩で息をしている自分を落ち着かせるため、冷蔵庫から水を取り出して水分補給をする。
時刻はもうすぐ十時を回る。
野球道具一式は押し入れに入れたままにしてある。辞めてからは一切手をつけていない。
以前は練習に使っていた時間も、今ではバイトをしたりトレーニングをしたり、あとは趣味探索に当てていた。犬を飼うことも考えたが、最期まで面倒を見る信がなく遠慮している。
歯を磨きながら携帯を起動させた。何件かメッセージが届いている。そういえば昨日、何人かと連絡先を交換したことを思い出した。
男女問わず複数人いたが、彼らからのメッセージが溜まっていたのだ。中には今日から友人だとテキーラを飲み交わしたやつもいる。陽気な彼らの性格は心から最高だと思えた。
ここでの生活は楽しい。毎日新しいことが起きる。新しい仲間ができて、新しい遊び場所を知ることもある。だが何かが足りない。その正体が何か分かっているが、分かりたくない。
メッセージの中には風香から送られたものもあった。相変わらず体調を気にする内容のメッセージ。時間を計算してみると、今日本は夜の十一時。少し遅い気もしたが、ここ何件か返信をしていなかったので電話をかけてみた。国際電話になるため、それほど長くは話せないが。
「もしもし。俺、慶次。風香元気?」
繋がった電話の先の彼女はいつも通り小さな声で丁寧な話し方をしている。今から寝る準備をするところだったらしい。
控え目というか内気なところがある風香、はあまり率先して慶次に質問をしない。何をしているのか、どんな状態なのか、どこにいるのか尋ねることなく、今の自分の状況を彼の質問に沿って答えるだけ。
今は就職活動も終わり卒業レポートに勤しんでいるらしい。研究という名の文献を漁る日々を送り、それなりに楽しく過ごしているのだとか。
あまり酒の席には率先して参加しない風香。あの雰囲気が苦手なのだ。だが最後の学年ということで、今は誘われれば参加するようにしていると彼女は答えた。
そうなれば当然のように恋愛の話が始まり、彼氏の有無を尋ねられる。いくつになっても恋愛の話が好きな人間は多い。しかし風香はいつも彼氏がいるとは答えられない。
「そういう話が苦手だから。深く掘られるのが嫌で。」
慶次にとって風香に対して不満はない。むしろこれほどまで距離を開けているのに、よく離れない物だと感謝している。性格も穏やかな彼女は一時の安らぎをくれる存在でもある。が、この答えには不満があった。
深く詮索されたなら堂々と言ってのけて欲しい。あの滝川慶次だと。
そう言いたかった慶次だが、言葉が詰まった。風香は友人達になんて言えば良いのか。あの滝川慶次とは、どの滝川慶次なのか。答えが見つからなかったから。
アメリカで野球をやっている男と話すのか。それは嘘だ。今の自分は、単純にアメリカに逃げているだけの男なのだ。
「……そっか。」
そうとしか返せない自分が情けなかった。こんな事をしている場合ではない。風香には現状を話さなくてはいけない。日本に戻らなくてはいけない。
だが心のどこかで、まだ希望を持っている自分がいる。日本に戻ればまた野球ができるのではないか。その反面不安もある。今何も残っていない慶次に会った風香はどんな顔をするのだろうか。
「何も変わんないよ。いつも通り、元気にやってる。」
慶次の様子を尋ねる彼女に何も真実を答えることができない。元気に野球をやっているわけではない。ただ毎日を過ごしているだけだ。
おやすみ、と電話を切った後に唇を噛みしめた。今の自分は、仕事もアルバイトだけ。野球も何にも残っていない。ただの負け犬。
そんな自分を待つ彼女はこのままで良いのか。良いはずがない。未来のない自分を待つくらいなら、別の男を作った方が幸せなのかもしれない。想像すると、余計に悔しさが溢れてくるが、できることは携帯をベッドに投げつける事で怒りをぶつけることだけ。
慶次が今殴りたいのはあのときデッドボールを当てた投手ではない。自分自身だ。
頭に直撃した球が原因で二週間の怪我と診断された。命に損傷がなく、何の障害も出なかったことは不幸中の幸い。しかしその療養中、シーズンは終わってしまった。連続本塁打記録どころか、百打点も達成できなかったのだ。
慶次が球団に戻ったとき、彼はもう一軍ではなかった。二軍に格下げ。更に試合が始まってから、自分の症状に気がついたのだ。
打席に立つことはできる。今まで通りホームランも打てる。
だがボールが二回重なったときから足にゾワゾワとした感覚が昇ってくるのだ。次の球がストライクならまだ良い。
三回連続ボールになった瞬間、そのゾワゾワとした感覚が上まで到達し、腕が震える。息を飲み込み、訳の分からない恐怖が襲ってくる。それでも打席に立っている以上奥歯を噛みしめて耐えるしかない。
球を打とうと投手を見た時、相手と目が合った。その瞬間、あの時に走った痛みが頭を襲う、そんな気がした。
誤魔化すようにバッドを振るが、当然当たるはずがない。その時に慶次は気がついた。自分は完全におかしくなっている事に。打席が終わると不思議と手の震えが収まっていたのだ。
絶望した。今までどんな怪我をしても、屈しないつもりでリハビリに取り組んできた。ブランクがあり不利になる事を覚悟していたが、これは想定外。初めての感覚に日に日に恐怖心が増していく。
それから何度も試合に臨み、何度も打席に立ったが、ボールが重なるといつも同じことが起こる。毎回震えだし、あの時の痛みに襲われる。正体不明のゾワゾワが憎くてたまらない。それに負ける自分も。
「クソ!」
試合が終わったあと、どうにかしたい一心で素振りや友人に頼んで球を見る練習をした。練習の時は上手くいく。だが試合の打席になれば話が変わる。歯がゆい思いに周りが見えなくなっていく。
高校を卒業してから世間がいうメジャーリーグに上がるまで何年も掛かった。そこから漸く手に入れた景色をもう一度味わいたい。
その一心でかつてないほど練習し試行錯誤する毎日のなか、あの日と同じ球団と試合が組まれたとき、相手球団の選手が話している声を聞いた。その声を出して笑う姿に思わず足を止める。
「あのジャップ、すっかり落ちたな。」
「ケイジだろ。そりゃあんな球当てられたら、立ち直れないぜ。あいつの全速力のストレート。」
「まあ当然だろ。クソガキの分際で俺たちを蹴落とそうとしたからな。」
その会話を聞いたとき目の奥が熱くなった。今まで自分が戦っていた後遺症は、そんな理由のために残されたものだったのか。クソガキだから、自分は大好きな野球に恐れを抱かされたのか。
気がついた時には二人の前に立っていた。そして片方の男の胸倉を掴み持ち上げていたのだ。
「お前今何つった?」
「ケイジ……!俺は、俺たちは何もやってない!やったのはあの投手だろ!指示したのは監督だ!何もしてない!だから、怪我だけは!」
だから怪我だけは。それは以前の慶次も同じ気持ちだった。選手として一番生命を絶たれやすい要因は怪我。それを避けたいと思うのは当然のこと。
だからこそ腹が立った。いやそんな優しいものではない。何も考えられなくなった。頭の中では最早相手選手二人ではなく、弱い自分を殴っているつもりだった。そんな事で負けてしまう自分が情けなくて。立ち直れない自分が情けなくて。涙ながらに何度も二人を殴った。
すぐに止めが入ったため、相手は骨を折るくらいで済んだらしい。だが慶次はその後、問題を起こしたとして退団。
チームを抜けた日、どこか安心した自分がいた気がする。何もかも終わったのだ。恐怖に怯える必要のない毎日が。




