2.迷子の助け舟
一連の説明を、仁科と直政にした明智は再びベンチに寝転がり、天井を見上げる。
「風香さんが言うには、候補ではあるけど彼本人がもう野球しないかもしれないと。」
それに滞在場所がアメリカとなれば費用が嵩む。失敗したときの事を考えれば、リスクがあまりにも大きい。
明智がまた溜息を吐いたとき、急に誰かに足を引っ張られ思わず悲鳴をあげた。そのままベンチから落とされた明智はぐったりしている。
「ちょいおっさん。すげえのいるじゃん。行こうぜ。」
そう言い出したのは直政だった。いや空しか見えなかったが、直政だと思った明智。仁科は人をベンチから引きずり落とすようなことはしない。おまけに、ぐったりした人に対しお構いなしでおっさんとは言わない。
「行くってアメリカに?」
「当たり前だろ。お前だけアフリカ行く気か。もう野球してないんなら、尚更ラッキーだろ。」
思わず聞き返した仁科に、さも当然のように提案する直政。それを聞いていた明智は即座に否定した。自分はアメリカに行った事がないと。
「直政君、全員集められなかったら、それ全部僕の出費になんですよ。」
「知ってるよ。俺らの出費じゃねえんだから、行こうぜ。」
その言葉には明智は愕然とした。これほどの暴利があるか。このままでは直政から搾り取られる。助けを求めるように仁科の方を見たが、彼は腕を組みしばし考えた後、直政の意見に賛同した。
「明智さん行きましょう。あの滝川慶次ですよ。もし仲間に入ったら、大きいです。」
「仁科君まで。お金は?」
尋ねられた仁科は直政と顔を見合わせる。どうやら彼も金の無心らしい。考えても思いつかない仁科は拳を自分の顔の前で握った。
「そこは明智さん。費用で落ちるのを信じて行ってください。」
「そうだ。俺たちも連れてけ。」
「いや、俺たちは行かないので。」
前に出て意見を主張する直政を腕で阻止する仁科。そんな彼を恨めしそうに睨む直政は、オヤツを取り上げられた猫のようだった。
仁科の話では、交通費からホテル代、食費も込みで、切り詰めるとざっと二十万で行けることには行けるらしい。それも一週間滞在した計算で。
実は彼も大学を卒業したあと本場のメジャーリーグを観にいきたいと思い、以前計算したことがあるそう。
確かに、痛い額ではあるが出せない金額ではない。それにここ最近は会社員らしい仕事をさせてもらえず、まるで営業のように選手集めの日々を送っている。一週間抜けたところで、誰の目にも止まらずなんの非難も受けないだろう。
「自分で言うのも恥ずかしい話ですが、得点を上げられる選手は必要です。それに彼なら間違いなく人気者になります。後々採算は取れるんじゃないですか。」
野球が好きな仁科は当時の慶次の人気ぶりも腕も知っている。彼は心から慶次を推薦したがっていた。仁科の言う通り、慶次が入れば人気球団に近づけるだろう。今まだ注目度が薄い社会人野球の星になる可能性は十分ある。
もしかしたら社長との交渉の際強い引き立てになるかもしれない。それを思うと、行くべきなのは間違いない。
「わかった。行ってみるよ。」
熱心な説得に押された明智は渋々行く事を決めた。思ったより費用が掛からなかったこともある。それを聞いた仁科は直政と喜びを分かち合おうとしていたが、自分が行く機会を失われた彼はすっかり不貞腐れていた。
「本場の夢の国、行きたかったな。」
「そんな不純な動機だから通らないんだ。自分の出費でいけ、直政。」
「これだから真面目坊ちゃんは。」
肩を落としたまま再び練習に戻る直政は、全力でスイングの練習をする。腹が立つときは球を思いっきり打つのが良いという、彼の信条に従って。
後日決意を固めアメリカに渡った明智。飛行機に乗る前日緊張で眠ることもままならなかった。
まず慶次を見つけることから始めなくてはいけない。右も左もわからない、初めてのアメリカに戸惑いながら、風香に教えてもらった慶次宅の住所を探す。
映画の中ではよく見る街並みも、実際来てみれば雰囲気の違いに気が引けるもの。当然どこを見ても外国人しかおらず、道の名前や町の名前を読む事すら難しい。
明智のような小心者が来る場所ではなく、一人で来米した事を心から後悔した。これだったら、仁科と直政に同行を依頼すればよかった。
示された住所はまだ慶次が野球を続けていた時のもの。いつでも遊びに来てもいいと言われた風香は大学で語学を学ぶことにした。そこで外国人と触れ、少しでも英語が読めるようになれば、アメリカに行く覚悟ができると思ったからだ。
英語がそれなりに読めるようになり海外へ行く勇気は持てたものの、慶次が野球を辞めたと知ってからは行けずにいたようだが。
インターネットで道を尋ねる台詞を検索し、街の人ではなく交番で教えてもらいながら目的地へと向かう明智。電車やバスに乗ったことで、この空間に自然と慣れてきた。
問題は街に着いたあとの、慶次宅までの細かい道のり。地図を見てもどうも道順がわからず、何よりも陽が落ちて薄暗くなった道を一人で歩くことに恐怖を覚えている。
いつ拳銃を持った外国人に金銭を脅されるか、それを拒んで発砲されるか分からない状況に明智は焦っていた。焦ると余計にわからない。
辺りをキョロキョロと見渡していると、後ろから誰かに声をかけられた。流暢な英語だが、聞き覚えのある単語で漠然と意味がわかった明智は、思わずはい、と日本語で答え振り返る。
金髪の白人もしくはスキンヘッドの黒人を想像していたが、その予想は大きく外れ。身長は高いが黒髪で色白の男が立っていた。
訝し気な顔をして明智を見ている彼は、鼻は高いし目もはっきりとした二重だが、どうやら日本人のよう。小さいため息とともに肩を落とされる。
「やはり旅行者か。失礼ですが、地図片手に辺りを見渡すような事をしていると、そのうち犯罪に巻き込まれますよ。日本人旅行者は狙われやすい。」
ほんの十数時間前に日本語を聞いたのに、何年も前に聞いたような感覚がした明智は懐かしさで笑顔が溢れる。涙目になったのは不安が打ち消されたからかもしれない。
恐らく目の前の男性には淡々とした口調で叱咤をされている。しかし、そんなことよりも生きて帰れそうな状況が嬉しかったのだ。
「助かりました。道がわからなくて。」
歓喜のあまり握手を求めようとする明智の手をひょいと交わすと、そのまま明智が持っていた地図を奪い取る男。思わず体勢を崩した明智に、クリップで貼り付けられた住所を見た彼は、その行き方を示した。
「ここ住宅街ですけど、ご友人の家があるとか。」
「あ、えーと友人とかじゃなくて。僕、野球のスカウトをしてまして。プロじゃなくて、社会人野球の。それで話をしにここまで来たんです。」
明智の話を聞いた男性は珍獣を見るような目をしていた。それもそうだろう。一端の社会人野球チームのために、わざわざアメリカにまでスカウトに来る人間などいない。
「そうですか。お疲れ様です。で、友人宅でないのなら当然宿は予約していますよね。」
笑いながら頭を下げる明智だったが、彼の指摘を聞いて足が固まる。そういえば宿舎を予約してはいるものの、そこへの帰り道がわからない。ゆっくりと男性の方を振り向くと、彼は眉を上げる。
「すみません。すごく図々しいこと承知の上で、帰り道もわからないので、待っていてもらっていいですか?」
「拒否します。」
「あーどうしてー。」
踵を返して帰ろうとする彼のスーツケースを掴む明智。それを強引に引っ張ろうとする男性は細身のわりに力があるのか、明智が引きずられた。
しばらく攻防を続けているうちに、息が切れたようで、スーツケースを引く事をやめた男性。しつこすぎると吐き捨てて。
「俺には時間がないんだ。あんたを待っている暇はない。」
「そんな事言わないで。置いてかないで。」
ここまでくれば、異国の地に一人にされたくない明智は必死だった。
男はため息を吐くと渋々明智の方に向き直る。やっと待ってくれる気になったと思った明智だったが、彼が再び隙を見て逃走しそうになったのを必死に食い止めた。もうこの争いを何回しているだろうか。
「わかった。五分待ってやる。その間に決着をつけないと帰るからな。それと、付いていくのは駅までだ。そこからは自分でなんとかしろ。」
疲れてスーツケースの上に座る男性はそういうと、向きを変えて慶次宅がある方向へ歩いて行った。顔には出ていないが、どこか足取りに怒りを感じる。
五分で決着をつけられるかわからないが、一度慶次に会い、明日もう一度出直す事を考える明智。道だけでもわかればそれでいい。
心強い仲間が増えたと明るい気分で歩く明智は、慶次の家と思われるところに着くなり、インターホンを押した。野球を辞めたと聞いたから小さい家だと思っていたが、案外大きい。
アメリカンサイズだとしても、結構な値段がしそうな家。
少し待ったが、一向に慶次が出てこない。後ろを見ると、男性はスーツケースに座りながら携帯を見ている。もう一度インターホンを押してみた。それでも彼は出てこない。
これは不味い。出てきたら出てきたで緊張するが、不在は不在で彼になんと言えば良いのか。恐怖に怯えながら三度目の正直を押してみたが、やはり慶次は出てこず、恐る恐る振り返ると、男性に鬼のような目を向けられていた。
「おい。」
「不在でした。」
それを聞いた彼はすぐに立ち上がりスーツケースを引き始める。明智は慌てて彼の後ろにつき、何度も謝罪を繰り返した。時間を取らせたのに、結局成果がなかったのだ。
ポーカーフェイスの彼も流石に声を荒げるかと思ったが意外にも、もういいと一言だけ零し、急に足を止めると明智の方を振り返る。
「あんた名前は。」
そうだと思い直した明智は、自分の名刺を彼に渡した。身分を証明するためにも、最初に名刺を渡すべきだった。何かあったときに連絡を寄越すためにもなる。
その名刺を受け取り、携帯の画面を見ては文字を打つ男。それから明智の会社名を見て眉間にシワを寄せた。
「有名な会社も変な事するんだな。」
「ああ、それは僕も同感です。よく変なことさせられるもので。」
「意外とブラック企業か。生憎俺は名刺なんて持っていない。半ば学生のような者だ。」
それだけ言うと、彼は明智の名刺を専用のケースに保存しポケットに入れた。落ち着きがあり所作が大人びていたため、社会人だと思い込んでいた明智。
そう言われてみれば、見た目が自分よりも若い気がする。勉強の時間を割かせてしまった事を悪く思う明智だが、同時に感心した。こんなところにまで勉強に来るとは。だが彼は織田のグループにはこないだろう。ブラック企業扱いされてしまったのだから。
もう少し堪能な英語を話せるようになるべきだったと後悔しながら宿舎近くの駅に到着し、そこからの道順を教えてもらったところで、彼とは解散した。わざわざマーカーで線を引いてくれたあたり、親切な人だったのだろう。
おまけに彼はそのまま電車で引き返して行ったため、むしろ慶次の家の方が自宅に近かったようだ。あれが神様かと、もう見えない男性に頭を下げたところで携帯が鳴った。仁科からだ。
滝川慶次はどんな人間だったのか。仲間に入ってくれそうか。真面目な仁科のことだから、自分の野球チームのことが気になるのかもしれない。ましてや仁科本人が行く事を勧めた。それも責任に感じているに違いない。
何の成果も得られていない明智は何と返事をするか悩みながら、携帯の画面を開いた。しかしそのメールの内容は思ったものと違うもの。
<お疲れ様です。さっき聞きました。高坂さんに会ったんですね。道に迷っている明智さんに会ったと連絡があったので。>
「高坂さん?」
不思議に思ったが道に迷ったという文で理解した。先ほど助けてくれた男性が高坂だったのだ。彼が名刺を要求した理由に納得した明智。
慶次の家の前で携帯を見ていたのは、仁科と高坂は知り合いで連絡を取りあっていたから。
高坂は明智が社会人野球のスカウトをしていると聞き、どこかで聞いた話だと思ったらしい。そこで仁科にメッセージで確認をしてみたところ、見事に目の前の男に当てはまったということ。
見た目の特徴と共に会ったことを伝え、仁科にお礼を伝言してもらおうと返信したとき、彼から思わぬ言葉が返ってきた。
<あの人が祖父の社会人野球チームの元エースピッチャーで、俺の師にあたる人です。>
その文章を聞いて背筋が凍った。彼の祖父が経営する社会人野球チームは強豪が多い。その中の元エースピッチャーだったとは。
仁科は中学のときに彼を見て投手を続けようと決めた。今でも彼は目を輝かせて話す。球速150キロでコントロール抜群。キレのあるスライダーは誰にも打たれない自信があると。そして最後に悲しそうに付け足したのだ。
もう会社を辞めてしまったけれど、と。
彼は会社を辞めて、また学生として何かを研究しているのだ。今もなお仁科と交流を持っているようで、投球指導を行っているらしい。
明智は心の中で思った。彼が入ってくれれば、どれほど心強いかと。




