プロローグ
満員電車が開くと、沢山の人が一同に階段を下り改札を出る。そこに拓けるのは所謂オフィス街。
誰もが前を見ながら、時折携帯電話の画面に目を落としながら、カツカツコツコツ音をたてて歩いていく。そんな中男の足取りは大変重たいものだった。
彼の名前は明智。色の白い顔である彼はやや釣り上がった目をしているのにも関わらず、何故か気弱そうに見える。いや、気弱な性格と言ってもよい。
数日前、明智の勤める会社のオーナーである織田は、ある事を決意した。それは社会人野球界一強いチームを作るということ。その発端は、人をうまく憎めない明智でさえ距離を取りたくなる羽柴という男の発言からだった。
「最近の時代は野球チームですよ、オーナー。有名選手を集めグッズを売り、猛烈にアピールをすれば、我が社を更に名のある会社にできるはずです。我が社は誰もが認める、社会人野球を盛り上げた会社になるのでしょう。」
社会に勤める人間で知らない人間はいないと言っても過言ではない織田の会社。しかし羽柴は野球を始めることで、社会人だけでなく主婦や子供、老人、つまりは日本全体に知れ渡ることができると、甲高い声で熱弁する。ゆくゆくはプロ野球に進出するらしい。
「我が社は日本全体で愛されるべき会社なのです。日本の顔なのです。日本の顔は織田なのです。その実力があるのに勿体ない。」
どこからそんな言葉が出てくるのか、データを元にする明智からすれば落ち着かないお世辞を並べる羽柴に、織田オーナーも悪い気はしない様子。もっとも、猛烈にアピールすれば我が社が有名になれるといった根拠もない。
恐らく女好きである羽柴は、野球チームを作ることではなく、野球チームに欠かせない応援団や、彼らを取材するアナウンサーが目当てであることに、他の社員らは薄々気づいている。
それでも、税金対策の当てを探していた織田は低く響く声で羽柴の言うことに賛同したのだ。
「それは良い話だ。先走ってプロとはいかぬところも、面白い話ではないか。ではそのメンバーを集めるとすると。」
「それが良いですね。では明智さん。よろしくお願いします。」
無茶な話が本格的に始動したと内心ため息を吐いていた明智は、その息を丸々飲み込むほど息を飲んだ。思わず声も出ないどころか、飲み込んだため息が眼球を押し出しているように目を丸くする。
散々都合の良いことを言って、面倒なことは任せるというのか。
「え、ちょ、ちょっと。」
「そうだ。確か明智、お前野球したことがあったよな。わしは野球など興味がない。だから、お前が集めてこい。」
ニヤリと笑う織田の表情は、明智の就任を適材適所な判断をくだしたとは言い難く、むしろ困らせようとしているように見える。いや、そうとしか見えない。
だいたい野球に興味がないのならこの案は否決にすべきだと喉まで出た明智だったが、言葉にすることを躊躇ってしまった。理由は本人もわからない。
羽柴は羽柴で、一番面倒な仕事を押し付けられた事に安心し、歯を見せて笑っている。
野球をやったことがあるといえども、今でもツテがあるわけではない明智。やったことがあるのは高校の時までだ。
当時は遊撃手として周りの人間と楽しくグラウンドを守っていた。熱心に球を追いかけた良い思い出が、まさか裏目に出るとは。
「安心しろ。資金は出してやる。ま、全員集められたらの話だが。」
高らかに笑う織田の声に重ねるように、羽柴の甲高い笑い声が響いた。
織田は明智が嫌いなようだ。何をしたのか身に覚えはない。原因を何度も考えたが思いつかない。
思いつかないまま、毎日悪口を言われてきたのだ。ハゲとかデコとか髪の話もあれば、性格自体の話もある。それだけならまだ耐えられた。デコは広いが髪が薄い自覚はなかったから。
だが今回は別問題だ。
抗議しようとしたが、出る声はひ弱な声だけ。そんな蚊の鳴く声など解散と宣言した織田の言葉にかき消されてしまった。
上司命令なら仕方ない。今更クビを切られることだけは避けたい。
これが社会人の常なのだ。