不文律
会社の同僚と赤提灯でビールの後、この店で一度飲んだ事があった角がなく飲み心地も良い北陸地方の地酒を、グラスになみなみと溢れさせながらつがれる枡酒で飲んだ。
今日は幾らでも飲めそうだ。太一が枡酒に残った日本酒を飲み干そうかと枡酒に手を添えた時だった。そう言う時に限って同僚はこれでお開きにしよう。と赤ら顔で帰ってしまう。元々、お酒の強い奴ではないが、同期のよしみで毎回こうして付き合ってくれているので仕方がなかった。
飲み足りない時は大抵、カウンター席のみの落ち着いたバーに立ち寄り『いつもの』でも通じるウイスキーをロックでチビチビと飲むのがお決まりとなっていた。
いつものように、何の気なしに店長が斜向かい辺りにいる席に腰を下ろした。店長に『いつもの』と頼むと視野の先に違和感を感じた。店長ともう一人男性の店員がいたはずだが見当たらなかった。その代わりに、二十代半ばと覚しき女性がグラスを拭きながら接客をしていた。
『マスター、あの男性はどうしたの』
『あっ、急な欠勤が多かったもので先週で辞めて貰ったんです』
それ以上はお店の問題なので深くは掘り下げず話しを終わらそうかと思った。すると、店長が話しを続けた。
『あの子、綺麗でしょ。私が最初に働いたお店の師匠のお孫さんで、修行がてら預けられたんですよ。ちょうど、あの彼には辞めて貰おうと思っていたタイミングだったのでちょうど良かった』
『そう』
素っ気ない返事にも構わず店長は話し続けた。太一の様子とは関係なく話したくて仕方がない様子だった。
『師匠のもとで働いていたから教える事は何もないですし、何よりあの容姿だからここ最近はあの子目当てのお客さんが多いんですよ』
それを聞いた太一は、視線で気づかれぬよう目線だけを彼女の方へと送った。
幼さも残る顔立ちだが大人の女性の綺麗さも垣間見れる。パンツスタイルのバーテンダーの出で立ちで余計に強調されるウエストの細さ。そのウエストの細さで更に強調される胸の膨らみ。太一と変わらないのではないかと思う程のスラリと伸びた長い脚。
モデルあがりでバラエティー番組にも出演していたが、ドラマにシフトチェンジした人気の女優さんのような容姿だった。
お店に来る前から多少酔っていたとは言え、次第に目線だけでなく顔を彼女の方へ向け品定めでもするかのような視線を送っていた。
傍から見てもそうだが、あれだけマジマジと見られていては当の本人である彼女の方が一番怖がっていたかも知れない。
太一の視線を感じた彼女は、一瞬戸惑った表情を見せたがすぐに笑顔で会釈してくれた。酔いが回っているのか、その会釈が自分にしてくれている事に気づくのすら時間がかかっていた。
『もう一杯いかがですか』
店長が太一に声をかけた。店長の声で漸く我に返った。身体を向けジッと彼女の事を見ていたことが恥ずかしくなり店長に『もう帰ります』と言うと、まだ飲み足りない気持ちもあったが、酔っているとは言え羞恥心の方が上回り店を後にした。
一週間と経たず太一はあのバーへと脚を運んだ。羞恥心よりも彼女に会いたい気持ちの方が上回ったからだ。お店に入ると、マスターではなくあの彼女が立つ斜向かいの席に伏し目がちに腰を下ろした。この前の恥ずかしさと言い知れぬ高揚感から、彼女と目線を合わせる事が出来ず、目線を下げた状態でオーダーを出した。
『いつもの』
『いつもの・・・あっ、はい畏まりました』
『いつもの』と言った後に気持ちが昂ぶっていたせいか太一は自分のミスに気づいた。
いつもは、飲んだ後に飲み足りずこの店に来るので素面で来るのは初めてだった。
彼女に会いたいがために来た高揚感で、思わず『いつもの』と言ってしまったが『いつもの』で通じる店員が、店長以外にいなかったことに頼んだ後から気づいた。
だが、彼女はすぐに返事を返しお酒の用意していた。
『お待たせしました。いつもの』
太一は、目線を下げながら凝視した。彼女がいつもの決まった銘柄のウイスキー瓶を手に取りグラスに注ぐと、慣れた手つきでコースターに乗せ太一に前に滑らすように置いた。ウイスキーの入ったグラスを眺め暫く考え込むように動きが止まってしまった。
それを見た彼女が動揺した表情で聞いてきた。
『えっ、間違えましたか。お取りかえしますが』
『いやっ、これでいいんだ。でも、なぜ俺の『いつもの』を知ってるの。俺を接客するの初めてだよね』
『以前、来られた時にマスターから常連さんだと聞いていたもので』
間違えましたか。と聞いてきた時の顔は強張っていたが、間違っていなかったと分かった時の安堵した笑顔。幼さが消えた大人の女性へと移り変わる狭間に色気と艶も感じさせるしっとりとした笑顔は格別だった。
太一は時折、気づかれぬよう目線を上げ彼女を肴に酒が進んだ。
『もう一杯いかが致しますか』
太一がグラスに目線を落とすとお酒が残り僅かとなっていた。いつもなら、飲み足りずに脚を運ぶ店であったため、素面でグラス一杯目ならなんて事ない量だった。迷わずもう一杯頼んだ。
今度は手早くグラスが太一の前に運ばれた。彼女はコースターに乗せられたグラスとともに、誰にも気づかれぬようもう一枚のコースターを滑らすように太一の前へ置いた。番号が書かれたコースターを前に、太一は再び暫く固まったように動かなくなった。『090』から始まる携帯電話の番号だった。彼女の方へとゆっくり目線を上げた。すると、笑顔の彼女と目が合った。
それからだったふみとは。二人ともが望んだ事であり、ふみと深い仲になるのもさほど時間はかからなかった。
ふみと付き合い初めて数ヶ月が経とうとしていた。週末、仕事終わりにふみの家で会う度に交わっていた二人だが、最近では専ら繁華街などに出歩くデートが多くなっていた。
ふみとのデートで街中を歩くと太一はすれ違う人達の視線を感じていた。最初は気にするでもなく、ふみとの会話を楽しみながら街中を歩いた。あまりにもすれ違う人達の視線を感じるので、スタイルの良いふみに露出の少ない服を着るようにも話した。
しかし皆、視線はふみにではなくふみと楽しそうに会話している太一に視線が向けられている事が分かった。
モデルのように容姿端麗なふみと、身長はあるがどちらかと言うと大人し目な冴えない風貌の太一が一緒に並んで歩いたら不釣り合いなのは分かっていた。
ふみと楽しく会話をしながら歩いているだけで、こんなにもすれ違う人達の視線が集中するものなのだろうか。太一はこの違和感が不思議で仕方がなかった。
そんな視線の一人に、太一と学生時代に同じサークルに所属していた和也の彼女瞳がいた。学生時代の和也とバイト先で知り合い付き合い始めた瞳は、友達と当てもなく街中を彷徨していた。
すると、前から歩いてくる太一に気づいた。和也と付き添っていた場で何度か合った事があり、和也に紹介された事もあるが最後にあったのは一年ほど前。面識はあるが、挨拶したとしても特に取り繕える話しもなかった。しかも、太一が瞳に気づいている様子もない。
人ごみの中で徐々に瞳がいる方向に近づいてきた太一が横を向いて喋っている様子が伺えた。
瞳は、太一が私に気づくようだったら声をかけよう。そう思っていた。しかし、太一の横には友達らしき人もおらず、ただ只管楽しそうに一人で喋っている。
太一の近くにいた人が自分に話し掛けられたと思い振り向いているが、違うと分かると小首を傾げ不機嫌な表情で離れていく。
瞳は、太一に声をかけようと思ったが、ひとり言を言う太一の異様な雰囲気を感じとり思いとどまった。
明くる日、瞳は和也の携帯電話に電話を入れると、要件を言う前に『何かあっただろう』と問われた。
昨日、太一と街中で遭遇した事を瞳は告げた。久しぶりに会うので挨拶をすべきか迷っていると、目の前を歩いてくる太一が誰もいない横を向いて話していた。
太一独りのようだが、あまりにも自然に違和感なく誰かと話していたので、ある種異様な雰囲気も感じ取れたので連絡をした事を告げた。
『分かった』そう告げると太一に連絡して会ってみる方向で話してみると告げた。それと、この案件を引っ張って来たのはお前だからな。と言われ、和也の言葉に断る事も出来ず何かを悟った瞳は観念するように返事をした。
数日後には個室でお酒も飲める所で会う約束をした。約束の時間よりも早くお店へと着いた。落ち着かない瞳を見て和也はお酒でも飲んで少し落ち着かせろ。と促すも、既に緊張で嘔吐いていた。
そうこう話していると太一がやって来た。
和也も半年以上会っていなかった事もあり、太一に向かって緊張の面持ちで右手を上げ挨拶すると、太一も応えるように右手を上げ、瞳にも会釈で挨拶をした。
『ふみはこっちに座りなよ』
太一ひとりしかいないはずだが、エスコートするように和也と瞳がいる向かいの席に腰を下ろした。
『あっ、紹介す・・・・』
太一が喋り始めた所で店員がオーダーを取りに来た。
『俺はビール。ふみは何にする?』
個室内に少しの沈黙が走った。和也もそうだが、瞳は既に下を向いてテーブルの下で手を合わせ合掌している。
『じゃあ、ビール二つお願いします』
『ビールお二つですか?』
店員も一瞬戸惑った表情を見せたが、先に来たお客を合わせて個室に三人いるので素直にオーダーを取り終えると厨房の方へと下がった。
太一は終始緩みきった顔で横を見てから切り出した。
『あっ、紹介するよ。彼女のふみ。バーテンダーやってるんだよ』
そう切り出した太一を見て、瞳はこの事象に耐えきれず席を立ちトイレへと向かった。
突然、席を立ちトイレへと走る瞳を見て戸惑いの表情を見せた太一だったが、先にお店に来ていて飲みすぎたのかも知れないと和也に告げられると、心配そうな表情を見せたが納得したようだった。
太一は、和也との再会よりもふみとの惚気話しに徹して話した。和也も頷くばかりだが、構わず太一はふみとの仲を終始緩みきった顔で惚気話しを続けた。
途中、強張った表情の和也を見て勘づいた太一は、あまりにもふみとの惚気話しをし過ぎたせいでつまらないのかと思い、和也に気づかい瞳との仲を聞いてきた。すると、ちょうどそこに瞳が帰ってきた。しかし、まだ顔は疲弊し怯えた表情のまま。
やむを得ず、和也は瞳に耳打ちするように『大丈夫なのかよ?』と問いかけた。すると、思いがけない言葉が帰ってきた。
『さっきから太一君の隣に黒い影みたいのが見えるんだけど』
『えっ』
耳打ちしながら話していたのに和也は思わず個室中に響くように声を発してしまった。
霊感がある和也には個室に入ってきた時点でふみと言う幽霊の事は見えていた。その前に瞳の電話がかかってきた時点で既に何かを感じ心の準備は出来ていた。実際、太一が個室に入って来た時には『やっぱり』と思っていた。
耳打ちしながら話す和也と瞳の姿を見て、太一は瞳の具合の悪さを察して今日はこれで。と告げた。
店を出て和也の肩に寄りかかるように瞳は歩いた。駅の近くになると、太一はもう少しこの辺をふみと歩いてから帰ると告げ、瞳に気づかいつつ和也に手を振って別れた。
改札を通り抜け席も疎らな電車が到着した。瞳と並んで席に座った。二人とも暫く無言だった。
一駅、二駅、あの場から離れ落ち着いてきたのか瞳から切り出した。
『太一君の隣に黒い影みたいのが見えたんだけど、あれって絶対そうでしょ。私、初めて見ちゃったわよ』
和也は軽く頷いた。太一の隣にいたのは間違いなく女性の幽霊だった。
太一の第一印象では、ふみと言う女性がこの世の者ではない事に気づいていないようにも見えた。寧ろ、彼氏が出来て浮かれている風にも見えた。
黒い影のような者だったが初めて幽霊を見たことで気が動転しているかと思っていたが、いつの間にか瞳は顔の血色が戻り元気を取り戻していた。
瞳は、太一にふみと言う女性がこの世の者ではない事を知らせるべきだと提案してきた。更に、あの幽霊が太一君と一緒にいると言う事は単純に取り憑かれているのではないかとも聞いてきた。
しかし、瞳の思いを一掃するように、太一は顎に手を添えながら深々と考える様子を見せた後にゆっくり話し始めた。
太一と話してみて分かったが、取り憑いた経緯は分からないが、ふみと言う幽霊が生きている時から太一とは知り合っていた。現時点では決して悪い幽霊ではない。太一を貶めるような悪い事もしない。寧ろ、太一とふみは愛し合っている。
『太一君と幽霊が愛し合ってるって。ハリウッド映画でもあるまいし。でも、太一君のあのひとり言は街中で会社の人とかに見られたら変な奴だと思われるでしょ』
会社の人間でなくとも他の人間が見ても、ひとり言に見えてしまうあの喋りは異様な光景に映るだろう。
瞳の言う事もご尤もだが、和也にはふみと言う幽霊がそういう場面に遭遇したら太一に違和感を感じさせず回避させるように思えた。
例えば、太一と関係性がある人間と遭遇する事を察知したら、太一が無言になるようにし、ふみの事を紹介してしまう事を避けるために、少しの間、思考からふみの事を削除させたり、上手いことタイミングを見計らい太一から離れ、太一が都合悪くなる場面を回避する優しさのようなものを感じ取れた。
それともう一つ。
もしかしたらだが、ふみと言う幽霊が亡くなっている事を理解している可能性もある。
それとは逆に、ふみと言う幽霊がまだ人間である感覚と亡くなっている自覚が混ざり合い、都合良くどちらかに偏った感情で混在しているようにも思う。
落ち着いて深々と考え始め、和也には色々と感じ取れる部分が見えてきた様子だった。
両者ともに今の状態が心地良いがために有耶無耶にしている可能性があるとも瞳に伝えた。
それでは何故、私達の前にふみと言う幽霊が現れたのか。と瞳に問われたが、二人ともに見える人間だとふみと言う幽霊が判断したからだろ。と答えた。幽霊が見えない人間だと思っていた瞳は、再び顔色が悪くなった。
数日後、先日の会合で太一がお店に来た頃には既に瞳の具合が悪くなっていた事を詫びた。それと同時にさしで飲まないかと誘った。勿論、飲み代は俺が払うと見栄を切った。
太一は、和也が気を使っている事を察してか、この前のでは話し足りていなかったから今週末にまた会おう。勿論、割り勘でな。と言うと声を出して笑った。すると、電話越しの和也からも安堵したような笑い声が微かに聞こえてきた。
和也は緊張で前回と同じく早めにお店に着いた。
間もなく太一が時間よりも早くお店に到着した。
冗談めかして、お前にしてはお店に到着するのが早い事を太一に問うと、お前こそいつからお店に来ているんだ。と嘲笑うように追求された。
こんな冗談が言えるのも、今日は隣にふみと言う幽霊が憑いていなかったから言えたのかも知れない。
お互い、最初のビールを飲み終えると各々で好きなお酒を頼んだ。
和也は、酔ってしまう前に太一に問い質せねばならない事があり見計らっていた。
それを察していた太一が、前回もそうだが何か言いたい事があって呼び出したのではないかと和也に問いた質した。
観念した表情の和也を見て、太一も身構える表情になった。
勘の良い太一に遠回しに言っても無駄な事を理解していた和也は率直に聞くしかなかった。
そして、この前紹介されたふみの名前を出した。
身構えていた太一は予想していた通りの名前を出されたことで、足を崩し平静を装うようにゆっくりと鼻から息を吸い、その吸った息を吐きながら目線を落とした。
『分かっているかと思うが、ふみさんは既に亡くなっているんだよ』
和也の霊感の強さは学生時代から周知の事実だった。和也は、和也の言葉に太一がとり乱し発狂する事も想定していた。
しかし、誰にでも当て嵌まる事を言う占い師の統計学的な発言ではない事は太一にも分かっていた。寧ろ、予想していた通りの質問に、やや緊張の面持ちであった太一の顔も何か達観した人のような冷静な面持ちへと変わっていた。
『俺とふみは付き合っていたんだ』
『付き合っていた?』
和也は思わず復唱した。この前まではふみと付き合っていると発言していたが、今は付き合っていると思っていた。過去形になっている事に戸惑った。
『俺とふみは、俺が殺してしまう前に付き合っていたんだ』
和也はひと呼吸置いて唾を飲み込んだ。太一は和也に構わず話しを続けた。
最初は、こんな綺麗な人と一度でも良いから。と、俺の一目惚れかと思っていた。でも、先に連絡先を渡してきたのはふみの方からだった。
ある日、いつものようにふみが働くカウンター席のみのバーに行った時の事だった。
最初に携帯電話の番号をコースターに書いて渡してきたように、痺れをきらしたふみはバーの近くにあるファミレスで待つようコースターに書いて見せてきた。太一がファミレスで待っているとバーが終わった後にふみはやってきた。一緒に飲もうと誘われふみのマンションに行ったのが最初だった。
それから会う度にふみとは交わった。
それと、どちらからも交際の確認をする事となく付き合い始めた。
最初は積極的な子だとしか思っていなかった。
次第に電話の着信やメールが頻繁に来るようになり、昼間に働く太一と夜に働くふみとの時間のズレが原因かと思っていた。
だが違っていた。
ふみの見た目なら男性から寄ってきそうなものだが、逆にあの容姿で誘いをかける前に諦める男のが多かったのだ。
唯一、誘われた男が誰にでも声をかける遊び人の男だった。一度ふみと遊ぶとふみの前から姿を消した。
それを教訓に、色気もある遊び人風の男に魅力を感じる癖があったが、そう言う男は避けるようになった。
ふみは、あの遊び人とは真逆で身なりも確りした人の良さそうな人を見ると、逃すまいと自ら積極的に声をかけるようになっていたのだと言う。
決して貞操がない訳でもなく、誰にでも声をかけている訳でもなかった。良く言えば一途、悪く言えば束縛が過ぎる女性だったのかも知れない。
ある日、いつものようにふみのマンションに行くと、ふみが電話やメールを返さない事を追求してきた。『またか』と太一は半ば厭気がさしていた。
幾らふみが好きだとは言え、毎日ふみが働くバーに行くわけにもいかない。
行かないからと言って浮気をしている訳でもない。
一日に何件も来る着信やメールに送り返さないからと言って嫌いになった訳でもない。
ただただ、ふみの束縛に厭気がさしていた。
『殺す気はなかったんだ』
あの日、返信しない太一への追求が特に激しかった。太一も、これまでの鬱積したものが爆発してふみを突き飛ばしてしまった。
ふみはそのまま後方にあったテーブルの角に後頭部を強く打ちつけた。苦しむ様子もなくふみは動かなかった。肩を揺らして何度もふみの名前を呼んだが、ふみは既に息をしている様子もなかった。
そこで、直ぐにでも救急車を呼ぶべきだったが、仮にこれでふみの死が断定されてしまったら俺はどうなってしまうのか。そちらの方が先に思い浮かんでしまった。
そこで、ある男の事が頭を過ぎったんだ。
『ある男?』
和也が再び復唱した。
つい先日、太一がふみのマンションの前に着いた時だった。誰かが来た事を察してマンションのポストの辺りから逃げるように走り去る男がいた。見覚えのある男の顔だった。
その日、合鍵を使いふみのマンションで先に寛いでいると、最近、下のポストに虫の死骸や動物の糞を入れる悪戯が増えてきたのだと言う。マンションの管理人に話したが、他の住人に被害者がいないことからすぐにふみがピンポイントで狙われている事が分かった。
それを聞いた太一はピンと来た。ふみに内緒で確かめるべく、翌日ふみのマンションの近くで張っていたら案の定あの男が現れた。
太一は、あの男がポストの中に何かを入れた事を確認してから声をかけた。すると、男は驚いていた様子で逃げ出したので捕まえた。最初は、激しく動揺し抵抗していた。太一が『久しぶりですね』と声をかけると、太一の顔に焦点を合わせ『何故』と言った表情を見せた。
落ち着いてきた男の様子を見て太一は、喫茶店も閉まっている時間帯であったため近くのファミレスに男を誘った。
太一と男は向かい合うように座った。頼んだコーヒーが運ばれてきて、一口啜るように飲むと男は落ち着いてきたのか表情を緩めた。
その様子を見て太一は、ふみのマンションのポストに何故あんな事をしたのかと問い質した。すると、男はゆっくりと話し始めた。
一度、太一が立ち寄るバーのマスターの師匠であるお店に勉強がてら脚を運んでいたのだと言う。そこで、働いていたのがふみだった。すると、コースターに書かれた携帯電話の番号を渡された。こんな綺麗な人に誘われたら妻もいたが断る事が出来なかった。
マスターのお店を突然欠勤する事が多くなった理由もふみだった。マスターに悪いと思いながらも男は突然の欠勤を繰り返した。
そこで、ふみは男が働くマスターのお店がお爺ちゃんと師弟関係にあることを知り、修行の名目であの店に来たのだ。
その頃にはマスターも突然の欠勤が続き怒り心頭で男をクビにしていた。入れ替わりにふみがあの店に暫く残る事になったのだと言う。
ある日、男は妻がいることと家を内緒にしていた事がバレてしまっていた。男の家に行きたがっていたふみは、あまりにも家の場所を教えない事を怪しんだようだった。
迂闊だった。男とのベッドの上でのツーショット写真。それと、付き合っている事を綴った文章を添えて家に送っていたらしい。おそらく、男がシャワーを浴びている間に免許証で住所を調べ、妻帯者であることも調べ上げたようだった。
あれから、妻とは慰謝料とともに別れを告げられマスターのお店もクビになり、当然ふみとの関係も続けられる訳もなく別れたのだと言う。
あの女が憎くて仕方がない。あの女のために自らの手を汚すのも馬鹿らしいとは言っていたが、言わずとも男はふみの死を望んでいた。
そこで頭を過ぎったのが、太一が立ち寄るバーの元バーテンダーの男だった。
太一が偶然とは言えふみを殺してしまった旨を電話越しで話した。少しの間があった後、すぐに向かうとだけ告げられ車で向かっている男を待った。マンションの住人に気づかれぬように毛布でふみを包んだ後、男が持ってきていた段ボール箱に入れると、下に用意された男の車のトランクに投げ込んだ。
男は、太一に車に乗るよう促した。
何処へ行くのか、この死体をどうするのか、俺はどうなるのか、何もかも分からぬまま全てを男に委ねた。そして、男は無言で車を走らせた。
やがて、ひとけもない電灯の光も疎らな山中へ向かっている事が分かった。太一には、ここがどこの山なのかも分からぬまま無言のドライブは続いた。
徐に男は車を停めた。
『着いた』
男は、ボソッと呟いた。そして、俺が毛布に包まれたふみを運ぶからシャベルを持って着いてきてくれと言ってきた。
木で囲まれた山中。鬱蒼と生い茂る木々の中を暫く歩き山奥へと入って行った。男は徐に、既に死んでいるふみを邪険に地面に降ろした。
『ここを掘ろう。そして、ふみを埋めるんだ』
そう言うと、男は運転してきた時のように無言で黙々と掘り始めた。太一もいわれるがまま後に続いた。
ある程度掘ると『よしっ』と言って手を停めた。男は、毛布に包まれロール状になったふみの死体を靴の裏で蹴るように転がしながら穴へと入れた。
埋め終わると、シャベルで土の表面を必要以上に何度も何度も叩きつけた。
大凡、話し終えた太一に和也は、あまりにもかけ離れた世界過ぎて返す言葉が見つからずにいた。ドラマや映画の世界でしかあり得ないと思っていた人の死が関わる事件。それを友人である太一が起こしていた。
しかも、家の近くのコンビニにサンダルで買い物でも行くかのような面持ちで途中から淡々と話していた。
仮に、この話が本当なら由々しい事件である。
おそらく太一は殺人、元バーテンダーの男は殺人幇助にされてしまうかも知れない。
途中、太一が誤魔化すような素振りを見せたら糾弾し自白を促す所だが、嘘を言っているようにも見えず、あまりにもあっさりと白状した事で聞き終えた和也は煩悶するように項垂れた。
項垂れる和也に向かって更に太一は話しを続けた。
『見えたのは最近だよ。最初は驚いた。お前みたいに霊感があるわけでもないのに、死んだはずのふみが見えるんだから』
あまりにも鮮明に見えるものだからふみと対峙した時に恐怖心もなかったし、亡くなっている事さえ忘れさせた。
亡くなる以前はふみに会う時は身体ばかりを求める欲求が働いた。でも、最近のふみにはフラットに接する事が出来る。今の彼女と付き合ったら、もしかしたら良い関係を築けたのかも知れない。ふみが束縛するようになったのも恋に不器用なだけだったんだ。
太一の身勝手とも思える穿った主張に和也は困惑した。
ふと、太一の隣を見ると太一の主張を優越感に浸りながら、愛を噛み締める恍惚とした悦に浸るふみが座っていた。
それと同時に、死んでも尚、太一をコントロールする欲が果てないふみの言い知れぬ愛の執着にも恐怖を感じていた。
太一の深い愛の主張もふみの幽霊が意識を誘導しコントロールしているに過ぎない。
現時点でふみは太一に対し悪い感情もなく悪い取り憑き方もしていないだけであり、コントロールされた太一も暫く人間に恋愛感情を抱くこともないだろう。
ただ、これが何かの弾みで、何かの衝撃で歪み始めた時。もしかしたら、ふみの愛をも打ち砕く強い愛を抱く女性が太一の前に現れた時かも知れない。
不文律でありながら、ふみの幽霊がいつ太一に殺された怨念へと翻るかもふみの匙加減。綱渡りな状態にいることは間違いない。
いつ来るとも分からないふみの琴線に触れた時、それが太一のふみに対する罪を償う時になるのかも知れない。