ウイルスの呼ぶ声(Called by the Virus)
昔深い仲だった女-ユリ-大変だったある大規模プロジェクトを共に遂行し、今でも付き合いのある仲間の一人でもある-から助けを求めるメールが届いた。
ユリは進捗が遅れ、締切が迫って殺伐としていたプロジェクトルームに咲く才色兼備の華やかな一輪の花。私服で休日出勤してきた際には、素足で履いてきた木のサンダルの、猫の額より狭い板の上で滑って転ぶというちょっと抜けたところもあって、皆に愛されていた。
短い文面のメールだし、そもそも彼女が今、どこで何をしているかは今の僕は知らなかっので、昔の仲間を頼ることにする。新幹線に乗って本当に久しぶりに上京する。
荒川を渡ってアカバで停車、乗客は全員、アカバ駅で下車。アカバ駅構内でトーキョに入る為の検疫を受ける。
検疫では、駅のプラットフォームにずらりと並んだクリーンルームの入口にあるエアシャワーのような小部屋に一人一人順番に入り、頭の天辺からつま先まで全身を上から下にレーザー光に似た高輝度の光線で走査される。失明の恐れがあるため、顔面付近を走査される際には事前に渡された黒いアイマスクをするか、目を閉じている必要がある。ウイルス定義情報を元に、全身の細胞が走査され、有害細菌やウイルス等の保有を発見された場合は、体表は深紫外線を、体内は透過力が優れた放射線を、照射位置をnm単位で連続的に調整しながら、自分自身がバーコードになってしまったかのように照射され滅菌される。チャンバーは、環境破壊や地球温暖化の影響により伝染病の世界的大流行が累次発生した末に開発された、一定期間の隔離を必要とする大航海時代からの旧来型の検疫システムを過去の歴史の中に追いやった人類期待のシステムである。
今回は国内移動なので簡易版であるが、国際移動の場合は重検査される。国際移動の場合、入国審査の際にチャンバーを通過しないと当該国内で電子認証が有効化されないので、密入国しても何も出来ない。しかし、全身上から下まで眩しい走査線で検査し体内に潜むウイルス等を発見次第、滅却する機能が脳内のニューロン・ネットワークを走査し、反社会的な思想を滅却し、思想改造する手段として、特に独裁国家で悪用されているという風評が立ち、世界的に渡航数が激減している。さらには特許等の機密情報も結局、人に付随している為、走査時に機密情報が窃取されている疑いも出てきている。しかし、テレワークの進展で必ずしも物理的に直接顔を合わせて仕事をする必要がなくなった為、移動の必要性が減っていることも幸いし、問題があるもののチャンバーは定着しつつある。その副作用として国外とはモノの取引のみになりつつある。
チャンバーを出るとプラットフォームの反対側に停車していた新幹線に乗り換える。要は対面乗換形式になっているのだが、チャンバーを通らないとプラットフォームの反対側に出ることが出来ないよう隔壁がある点が異なる。乗り換えた新幹線をトーキョ駅で降り、待ち合わせ場所のシンバに向かう。ネオンサインに溢れ、小汚い。細分化された土地に高さばかりか建築材料、築年数や様式が異なるビルが密集している。街灯の明かりが途切れがちな薄暗い街を、人混みを避けながら待ち合わせ場所に向かって、僕は歩いてゆく。と「密です。密です」ギョイギョイギョイとスマートフォンが異様な音と共にブルブル振動し、人と密集していることを警告される。
下水のマンホールから水蒸気が上がって足元を漂っている。トーキョは、昔は世界最先端の都市だったが、少子高齢化が進む中、累次の伝染病の世界的大流行により国内経済及び国家財政に壊滅的な打撃を受けたことにより、かつての輝きを失い、衰退し荒廃、半スラム化している。黄昏れた世紀末的風情のトーキョを観ていると、そもそも人の欲望を際限なく刺激し、過剰開発、過剰生産、過剰廃棄を続けてきた近代物質文明社会そのものが、未知のウイルスによる世界的大流行を誘発したのではないかとも思う。
待ち合わせ場所のちょっと格の高い小洒落たバーで、次にユリと深い仲になったはずの男に会うと、今深い仲であるはずの男を紹介される。
「まだ、あの女に気があるのか?」
それはないとは言い切れないのが男の悲しい性だが。今回はユリが助けを求めているというところが大きい。
次の男-オミト自身は関係が終わったせいかサバサバしたものだ。彼には助けを求めるメールが来なかったので、僕のことを少し妬いているのかもしれない。
「お前は昔からお人好しだからな。」
相変わらずズバズバ切り込んでくる。
「俺の会社の業務委託で出張扱いにしておいてやる。ビザの手配もこちらでやっておく。ビジネスの方が入国審査も楽になるからな。」
えっ、と驚く僕にオミトは続けた。
「俺もユリのことは気に掛かる。彼氏を飛び越して女に会う訳にもいかないだろうから、オウコクではアーロンに会えるよう手配しておく。」
-オウコク。
僕は思った。急速な経済成長により世界第一位の経済力を持つに至った国だ。反面、社会体制は旧来の風習を維持しており、閉鎖的で外から伺い難いところもある。加えて最近、ネット上では、支配層の何人かが消息を絶っているという真偽不明の不穏な情報もちらほら出ている。ユリがオウコクに居るのなら、オウコクで何かしらのトラブルに巻き込まれている可能性も考えられる。
自分も心配なものの、自分で行くのが嫌なのでオミトは僕に押し付けたのだろう。僕は相変わらず損な役割だ。
オウコクでアーロンに会うならそれなりの格好をしてゆく必要がある。オウコク往復についてはオミトが手配してくれていた(特に飛行機はビジネスクラスを手配してくれていた。やはり仕事で成功した出来る男は違う。)が、その他は自分で用意する必要がある。ビジネス・プロトコルに従ってナショナル・ブランドからグローバル・ブランドに改め、頭髪を整え、衣装を上から下まで黒色の革靴も含めて、すべて用意する。
オミトが用意したエアポート・リムジンでハネタ空港に向かい、出国手続きの一環でチャンバーに入る。出入国手続きは元々人の動線を分け、要所にチェックポイントを設けた設計になっているのでチャンバーとは相性が良い。チャンバー導入前後で手続き、それに伴う移動に大きな変更はない。出国手続きはスムーズに終了し、機上の人となる。機内で一睡した後、飛行機でオウコクに降り立ち、空港の入国手続きの一環で再びチャンバーに入る。
RPGでステージが変わる際にデータセーブの為に画面がフリーズするように、場所が変わる度にチャンバーに入り、一時的に動きが止まる。エアシャワーのような小部屋で全身を中も外も滅菌されると共にブレインスキャンで危険思想がないか確認される。2週間の隔離の代替措置だったはずが、(各国のニーズに合わせた)様々な機能が付加されている。某国でブレインスキャンされた場合は洗脳されている可能性がある為、帰国時に精密検査が必要という裏情報もある。
僕も一度、知らないうちに洗脳された経験があるので解るが、洗脳されると脳が薄い膜で覆われたゼリーの様に感じられる状態となり、考えがうまくまとまらなくなる。ぼーっと麻痺して正常な思考が難しく、段取ったはずの作業が、実は段取りし忘れていたり、普段なら絶対しないような間違いを色々としでかす。今回は、頭ははっきりしたままなので洗脳の心配は(とりあえずは)なさそうだ。
オウコクは、外部からの見立てと異なり急速な経済成長を背景に国民の日常生活に関する満足度や幸福度が高く、これらをもたらした政府に対する信頼も厚い。
が、以前訪れた時と少し趣が異なる。前回訪れたとき、人々は自信に満ち溢れ、活気に満ちていたが、今回は街行く人の数が少なくどこか余所余所しい。気も漫ろで何か目に見えないものを恐れている、もしくは待っているかのようだ。
一つ一つがトーキョより格段に大きい街区に立ち並ぶ、ガラス張りの外観が太陽の光を反射して煌めくビル群の中にあるアーロンの会社が保有するビルに向かう。アーロンの会社のビルもやっぱり陽光にキラキラと銀色に輝いている。アーロンは成長途上にあるオウコクに渡って会社を興して成功。位人臣を極めた。母国語の英語は自信たっぷりの高飛車だが、日本語は学生の頃、ホームステイ先の女の子に習ったせいか、なよっとした感じがあり、彼が日本語を話すとおかまっぽく感じる。
非対面が一般化しているので、秘書等を介さず事前のアポイントを元に社長室に通される。彼の趣味で誂えたであろうマホガニーの無垢板で出来た大きく堅牢なデスクの向かい側で、牛革で出来た大きな黒色の社長椅子に深々と座って待っていたアーロンは目が充血して、焦点が合っていない。肌もてらてらと光り微熱もあるようだ。
-麻薬でもやっているのか?
僕が疑うとアーロンが笑ってかぶりを振った。
俺は、物質文明ではない精神文明たる上位世界に移行するんだ。とアーロンが真顔で言う。
選ばれたものだけが行ける世界。人類、いや生命進化の極限。世界最先端の街のその先に、選ばれた者だけにその入り口が開かれると聞いている。
会社を興して成功し、財を築き上げた自分が次に進む道に相応しい。
アーロンが右腕を上げる。仕立ての良いスーツの袖ボタンを外し、Yシャツの袖も捲り上げると、露になった彼の右腕の肘から先が半透明になり2本の細長い骨-橈骨と尺骨が透けて見える。透き通った肌は、内面から間接照明で照られているように暖かく光っている。
-実はもう9割方移行している。完全移行ももうすぐだ。微熱があるせいか頭が少しぼーっとして、考えがまとまらなくなることがある。だが、そんなときに目を閉じると遠い先に光に溢れる白い世界が見え、先に行った人達が俺を呼ぶ声が聞こえる。それに得も言われぬ多幸感がある。
ユリが君に会いたがっているとアーロンは続ける。
俺より後だと思うが、彼女ももうすぐ上位世界に移行する。早めに会ってやってくれ。
僕はびっくりしてアーロンに、ユリと一緒に居なくて良いのかと聞く。
アーロンは上位世界に移行すればいつでも一緒に居れるから現世で一緒に居る必要はもはやないと語る。
-最後に君に会えて良かったよ。
アーロンは、やがて薄くなって僕の目の前で掻き消すように消えた。
-ユリを頼む。アーロンが最後に言い残す。
デスクの向かい側の社長椅子の上には優雅な深いドレープを描く濃紺のスーツと真っ白なYシャツ、深紅のネクタイだけが抜け殻のように残された。
どの位時間が経っただろう。目の前で人一人が消えるという、自分が見たもののあまりの衝撃に茫然自失となっていた状態から、ふと我に返ると社長椅子の背後の窓から夕日が差し込み、社長室はオレンジ色に染まっていた。その後、いくら待っても部屋には社員はおろか、警備も警察もやってくる気配がなかった。やがて、こうなることが判っていたアーロンが事前に手配を済ませていたのだろうということに、ようやく思い至った僕は夕闇が迫る中、社長室を辞した。誰もやって来ず、そして何事も起こらなかった。
アーロンが残したメモに従って彼の家に向かう。閑静な住宅街に建つ鬱蒼とした木立に囲まれたセキュリティーのしっかりした大きな邸宅だ。そこにはユリが居た。
やあ。君のメールを見て、飛んできたけど、途中色々大変だったよ。実はアーロンが、と言いかける僕にユリは「知っているわ。」と微笑んだ。
「君を助けに来たんだ。一体何が・・・」
質問を続けようとする僕に、ふふふと含み笑いを漏らしながら、
「・・・もう遅いわ。」
そう言って彼女は僕の唇に彼女の右手の人差し指を軽く押し当て、僕の更なる質問を封じた。元々色白だった、その彼女の右掌は骨が透けて見えた。
「最後にあなたに会いたかった。」
ユリに何で僕なんだ?と我ながら間の抜けた質問だと苦く思いながら聞く。
あなただけが、違うタイプの人だったから。
-確かに奔放な彼女の相手は、彼女に似合う派手な男が多かった。
潤んだ瞳でユリが僕を見つめてくる。昔のように-。
熱い抱擁。甘いキス。かつてのように一夜を共に過ごした。所々身体が透けて、内側から柔らかく光って見える彼女は、それはそれで美しかった。それに普段目にすることが出来ない部位が見えて、とても刺激的で、様々な体位で、お互いを、味わい尽くした。
「・・・少し怖くなる時があるの。」
数度の行為の後、彼女は言った。
「大丈夫。僕がずっとそばにいるよ。」
僕は彼女を愛しさで抱きしめながら言った。
その後、次第に上位世界に移行してゆく彼女に一晩中、寄り添った。完全に消える前に消えたり、現れたりする。新たな部位が消えるときには少しの痛みや発熱を伴うようだ。そういう時は汗ばんだ彼女の額をタオルでそっと拭ってあげる。何だか看取っているみたいだ。
翌日、朝焼けの中に彼女は消えた。アーロンのように。衣服だけを残して。
-最後にあなたに会えて良かった。
上位世界に行く前のお別れ。実はユリは止めて欲しかったのか?それに本当にあれは上位世界に移行しているんだろうか?あまりの出来事の連続に、僕はおそらく少し混乱しているのだろう。
僕自身が抜け殻になったような気分でオウコクを去る。出国時と帰国時にやっぱりチャンバーに入る。場所を変わる度にチャンバーに入り、一時的に動きが止まる。
僕がオウコクから帰国してほどなく、人が消える現象は新種のウイルスの仕業と判明した。新種のウイルスは今では世界に伝播し、新たな世界的大流行を引き起こしている。新種のウイルスは当初、定期的に更新されるチャンバーのウイルス定義情報に含まれていなかった為、人類期待のチャンバーでも感染拡大を食い止められなかった。
人類は累次、ウイルスに惑わされてきた。黒死病やコレラ、スペイン風邪と言った疫病としてだけではなく。最初のバブルと言われているオランダのチューリップバブルで最高値となった複雑な線や斑の入った多色の花が咲くチューリップ-Semper Augustusも球根がチューリップモザイクウイルスに感染した結果であり、再現できない為、高値となったものだった。今回も初期罹患者が過去の疫病と異なり、生活環境が清潔な(はずの)富裕層中心であり、かつ罹患者自身が上位世界へ移行しているという誤った認識を持っていたこと。罹患者が物理的に消滅することによる追跡の困難性に加え、オウコクの閉鎖性(尤もオウコクだけではなく、今ではチャンバー普及に伴い世界各国は半鎖国状態になっているが、)も世界保健機関(WHO)の初動を遅らせた。
ウイルスの毒性と感染力は逆相関の関係にある。今回のウイルスは毒性-致死率は高いが感染力はそれ程高くない。感染力が高くないのに何故、世界的大流行になったのかは今、世界保健機関(WHO)を中心に究明が続けられている。何はともあれ、僕がオウコクで感染しなかったのは僥倖とすべきだろう。
世界的大流行宣言からひと月経った頃、世界保健機関(WHO)が新たな事実を公表した。
-多くの人が罹患者に呼び出されオウコクを訪れ、感染者となって世界に散り世界的大流行を引き起こしていた。感染者の移動、接触に伴い感染が広がるのではなく、非感染者が自ら罹患者に近づき、感染することによって伝染病が広まってゆくという、従来と異なる感染拡大パターンに然しもの世界保健機関(WHO)も当惑を隠せない。おまけに今度のウイルスは正常細胞と癒着、融合した後、消滅してゆくため、チャンバー等でウイルスのみを分離、滅却することに多大な困難が伴うという。
セミを宿主とするマッソスポラ菌はセミの生殖器を始め体のほぼ3分の1を菌の胞子と入れ替えた後もセミを生かし続け、セミを操って飛行等で胞子をまき散らさせるばかりか、交尾を誘い、寄ってきたセミを感染させるという。今回の新種のウイルスはセミではなく人を操る-。
僕は保健所の訪問を受け、今は隔離施設に収監されている。微熱があるせいか時折、気持ちが高揚し、かつて過ごした日々が懐かしく思い起こされ、最近疎遠になっていた両親に会いたい気持ちが強くなる。
今では、右手人差し指の先の骨が少し透けて見えるようになってきている。
-僕をオウコクに呼んだのはユリだったのか、それともウイルスだったのか。
了