第五歌 金木犀の香り
その店は、とても狭い路地を幾度も潜り抜けた先にあった。
「隠れ家みたいだな」
颯二の言葉に楓は同意を示す。
からん、とドアを開けると、カウンターに居た桃が微笑んだ。
「ようこそ」
「お? 他には誰も居ないのか?」
「うん。ほんとに身内だけだからね」
どうぞ、とカウンター席を勧められて二人は並んで座った。
「静かだな」
楓が呟く。
柱時計のかちこち、という音しかしない。
静かな室内。
「静かすぎるかな? 何か弾こうか?」
「弾く、って?」
カウンター席から出てきた桃はすたすたと店の中央の方に歩いていく。
それを視線で追うと、そこには古びたピアノがひとつ置いてあった。
「何がいい?」
「弾けるの?」
楓は少し驚いたように問う。
「まぁね」
えへへ、と桃は笑う。
「エリック・サティの『ジムノぺディ』とかは?」
「また、そういう淋しい曲を」
颯二がしかめっ面をしたので、桃は少し笑って、鍵盤を鳴らした。
「あんまりれぱーとりーないんだよ」
「楓、弾けば?」
「え?」
「楓、弾けるの?」
桃が瞳をきらきらさせながら聞くので、楓は少し照れたようにはにかんだ笑みを浮かべて見せた。
「少しだよ」
「え~、でも少しでもすごいよ。いいなぁ、いいなぁ」
ほのぼのとした空気が流れる。
楓はなんとなく、こんな時間が続けばいいのに、と思っていた。
「あ」
「え?」
からん、とドアに付けられたカウベルが鳴る。
(あれって、町田先輩)
(あ、ほんとだ)
店内に入ってきた男について、こそこそっと颯二と楓が内緒話をする。
桃はちょこん、と首を傾げる。
「どしたの?」
「いや、なんであの人がここに来てるのかなぁ、って」
「ああ、菫が呼んだんでしょ」
あっさりそう言われて二人は顔を見合わせた。
「桃、ごめんっ」
ばたばたと慌しく、その少女は現れた。
白いシャツから、白い肌が覗く。
「菫、襟がよれてる」
「え、嘘」
「しょうがないなぁ、もう」
くすくす笑いながら桃が菫の襟を直す。
「はい。でもどうしたの? いつもはちゃんとしてる菫らしくないじゃん」
「いや、ちょっと緊張してて」
それから、てくてくと歩いて葵の座ってる席の目の前に立った。
「来てくれてありがとう」
「いや、別にいいけど」
「すっごい嬉しい」
にこにこと菫が微笑むので、葵もつられて笑った。
「あんな表情のあの人見るの初めてかも」
「ほんとだ」
出された紅茶を楽しみつつ、楓と颯二の二人は思わず傍観者になる。
「知り合いなの?」
桃はお茶菓子を用意しながら問う。
「ああ、有名だよ」
「歌に対する情熱にかけては右に出る人居ないんじゃないのかな、うちの構内で」
「へぇ、そなんだ」
切り分けたケーキを皿に乗せて、生クリームを添える。
「はい。菫の手作り」
「うわ、美味そ」
「ありがたくご賞味させていただきましょうか」
フォークを使って、口に運ぶ。
楓は、ふと、桃の視線に気付いた。
「何?」
「甘いもの好きなのかなぁって」
「ああ、うん」
「すごく幸せそうなんだもん」
くすくすと笑う。
花の馨りがする。
(何処かで嗅いだことがあるよなぁ)
でもそれが何か、決定打は未だにない。
「菫、今日は何歌う?」
「何にしようかぁ」
二人、顔を付き合わせて相談する。
「……仲いいなぁ、あのふたり」
「うん」
「知り合いみたいなことを言ってたけど、どういう関係性なんだろうな」
「そう、だね」
くすくすと笑いあっているふたりを見ていると、何故だか、楓の胸が痛みだす。
(なんだろう、これ)
それから、菫はいくつかの歌を歌ってみせた。
その傍らで桃は簡単な伴奏を弾いてみせる。
ただそれだけだというのに、何処か、現実味がない。
客がほとんどいない喫茶店の店内で流れる不思議な時間。
「そこまで送ってくよ」
「ああ」
菫は葵にくっついて外に出ていった。
「俺もお暇するか」
颯二が席を立つ。
「あ、じゃあ、私も」
「あ、楓ちょっと待って」
「え?」
「じゃあ、ごゆっくり」
ウィンクをひとつして、水沢は去っていく。
「面白い人だよね」
くすくすと桃が笑う。
「ああ、そう、かも」
「あのねぇ、楓にどうしても飲んでもらいたいお茶があったんだぁ」
足もとの戸棚の中から小さな茶器を取り出す。
「? 何、それ」
「このお茶を楽しむのに必要なもの」
人差し指を唇にあてて、桃が微笑む。
目の前に置かれたのは、ぐい飲みくらいの大きさの茶杯。
「中国茶なんだよ」
手際良く、作法に乗っ取った入れ方をする。
「はい」
白い杯に注ぎこまれたお茶は黄金色。
「綺麗な色」
「まぁ、飲んでみて」
杯を口元まで持っていってその馨りに気付いた。
「これ」
「黄金桂っていうの。桂花茶の一種なんだけど、金木犀の馨りと金色のお茶の色が特徴なの」
いい匂いでしょ、と桃は笑う。
桃から漂う馨りの謎が解ける。
(同じ、馨りだ)
あたたかなお茶が、喉を潤す。
何処か、不思議な感覚。
「あの人」
「え?」
「菫さん、だっけ」
「うん」
「桃にとって、菫さんは、何?」
じっと見つめられて、桃は苦笑する。
「何、って何が?」
「どんな、存在なの?」
「……大切なひとだよ。代わりは、居ないから」
少しだけ困ったように桃は微笑んだ。
「そう、か」
ぽとん、と杯の中に液体が零れ落ちた。
「え?」
楓は自分の頬に手を当てる。
涙が、溢れていた。
「なん、で」
自分でもわからない。
何故だか、涙が溢れてきて。
「楓?」
桃は不思議そうに首を傾げる。
「ご、ごめ、私、どした、んだろ」
涙は止まらない。
金木犀の馨りの湯気が、涙の零れるのを促しているかのようだった。
桃の指先が、ふいに、楓の頬に触れた。
「え?」
優しく、頬に別の何かが触れる。
それが桃の唇だと気付くまで、少しの間があった。
「泣かないで」
至近距離の表情。
驚くほど、綺麗な、眼差し。
甘い、金木犀の馨りを放つ、唇。
衝動的に、その唇を奪いたいと思った。
「あ、わ、私、おかしい、のかな」
楓は泣き笑いした。
「女の子にキスされてもイヤじゃないなんて」
「あ、ごめん」
そう言われて、自分の行為に気付いたように桃が謝った。
「いや、謝られることじゃ、ないんだ」
「でも」
「どうしよう」
「え?」
涙は止まった。
けれど。
「おかしい。やっぱり」
「何が?」
「女の子に、キス、したいなんて」
桃はまばたきをして、それから微笑んだ。
「楓がしたいんなら、いいよ。あたしは」
目を閉じる。
楓の心臓が跳ねあがる。
ゆっくり、そっと、その唇に自分の唇を重ねた。
甘い、甘い、金木犀の馨り。
触れ合っただけなのに、その馨りだけが、強く、残って。
触れて、離れた。
先を求めそうな自分を、楓は必死で押しとどめる。
「もう、帰るね」
「う、ん」
桃は目を開いて、カウンターから出てくる。
「送るよ」
「え、でも」
「いいから、いいから」
腕を絡めて、楓を見上げる。
「あのさ」
「え?」
「今までは昼間にあの図書室でしか会えなかったけど、夜はあたし、ここに居るから。いつでも来てよ」
ね? と微笑まれて、楓は少し驚いて、でも、次の瞬間にはとても嬉しそうに頷いていた。
「なあ」
「何?」
てくてくと歩く帰り道。
葵のことを菫が見上げる。
「あいつ、お前の何なんだ?」
「あいつ、って?」
「桃、っつったっけ?」
「ああ、桃ね」
うーん、と菫は悩むポーズを取る。
「大事なヒト、かな。代わりは居ないから」
「へえ」
「……葵?」
「何?」
「ヤキモチ、やいた?」
「そんな訳ない」
そんなことを言いながらも、葵は内心図星を突かれたことにどきどきしていた。
そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、その手に菫は自分の指先を絡める。
「ちょっと」
恋人つなぎをするというのは、ほんの少しだけ抵抗がある。
「大丈夫。こんな夜中だもの、誰も見てないよ」
楽しげに菫が笑うので、機嫌が悪そうな素振りを見せながらも、悪い気はしないな、と葵は思っていた。
純愛にはなりきれなかったー。