第二歌 小夜鳴き鳥の夢
水沢楓は高等学校に隣接された大学の図書館の端末の前で、しばし考え事をしていた。
捜していたのは、とある教授が書いた筈の論文。
(……小夜鳴き鳥、って何だろう?)
端末の画面には暗号の入力を促す文章が出ている。
ヒントは、小夜鳴き鳥。
楓はまっすぐな黒髪を後ろでひとつにくくっていて、すっとした長身の美女だ。細い銀色のフレームのメガネは彼女自身の知性をより際立たせる。高等学校の制服は白いブラウスに赤い紐リボン、膝が隠れるぐらいのふわりとした紺色のフレアースカートなので楚々とした印象だ。見たまま大和撫子といった風体をしている。
その美しい花の顔をしかめながらずり落ちたメガネを人差し指で上げようとした時だった。
ふいに、ふわりと、花の香りがした。
画面から顔を上がると、金色の髪をした少女がにこりと笑った。
「それ、ナイチンゲールだよ」
「え?」
聞きなれない言葉に楓が問い返すと、少女は場所を移動して楓の隣にぴたりとつく。
「え、あの」
「って言っても、看護婦さんじゃあないんだけど」
端末のキーに触れてゆっくりとボタンを押す。
「n・i・g・h・t・i・n・g・a・l・e、とね」
機械音がして画面が切り替わる。
楓は呆然と少女を見上げる。
「あ、お邪魔だった?」
少女が首を傾げる。
幼さの残るあどけない笑顔。
「いや。それより、ナイチンゲールって?」
「この辺ではあまり聞かないかなぁ」
くす、と彼は笑う。
「ツグミ科の小鳥で主に欧州に住んでるんだ。ほとんどの小鳥と一緒で昼間多く鳴くんだけど夜間に鳴くこともあって、『小夜鳴き鳥』という別称を持っているんだよ。とても、綺麗な声で囀る」
ひどく砕けた口調で少女は話す。
でも、楓にはその言葉はまるで違和感なく伝わる。まるで、昔から知っている人のように親しみやすさすら、感じて。
「へぇ」
「ああ、でしゃばってすいません」
ぺこり、と少女が頭を下げる。
「いや、分からなくてほとほと困っていたところだったので助かりました」
「なら、よかった」
少女が微笑む。
楓は、少女が何か言葉を口にするたび、花の香りがすることに気付いた。
甘い、香り。
「……あの」
「はい?」
「もしよかったら、名前、聞かせてもらえませんか?」
楓の言葉に少し驚いた顔をして、少女はまた微笑んだ。
「桃、だよ」
「桃……」
「友人の付き添いでここに来てて、たまたま立ち寄ったら美人な人がしかめっ面してたから気になっちゃった」
えへへ、と悪びれる様子もなく笑うので、楓もつられて微笑んだ。
「そうなの」
「貴女は?」
「私は、楓。水沢楓」
「……楓さん、ね。いい声をしてるんだね」
ふわ、と花の香りが増す。
「結構、ここに居ること多いの?」
「ええ」
「じゃあ、また来ようかな」
甘い、笑顔。
くらくらとするような花の香。
めまいがするようなそれにつられて、楓はただ頷いていた。
皆、引き上げた後の稽古場。
葵は、一人そこに居た。
かたん、と音がしてドアが開いた。
その先にいたのは、いつぞや出会った黒髪の少女、菫。
「あなた」
「あなたの声、すごく、綺麗ね」
葵が言葉を続けようとするより先に、言葉を重ねて菫が話し出す。
「綺麗、ってあんまり言われたことないよ」
少し拗ねたようにそういうと、菫は微笑う。
「力強くて、すごく、綺麗」
てくてくと歩いていって、近づく。
葵は、菫を見下ろすようになって、視線が外せないことに気付いた。
「わたしも、歌をうたうんだよ」
にこり、と菫が微笑む。
「そう、なのか」
「うん。夜にね、夜にしか開かない喫茶店を友人がやっていて」
そこで、歌うの。と菫が言う。
「この前は勝手に聞いてたりしてごめんなさい」
「いや、アレは、別に」
「代わりに今日はわたしが歌うね」
何がいい?と問いかけられて、葵は躊躇する。
「……何でも」
「そう?」
ふ、と笑って、菫は手を前に組む。
すぅ、と息を大きく吸いこんで、歌い出す。
アカペラで奏でられる美しい旋律。
時に強く、時に儚く聞こえるソプラノ。
葵は驚いて、ただ驚いて、菫を見つめていた。
一曲歌いきると菫は微笑を浮かべて、葵を見る。
「こんな感じ、なんだけど」
「……すげぇ」
正直な感想が口からこぼれる。
「ありがとう」
にっこりと、菫が笑う。
「わたし、これからもここに来てもいいかな?」
「ああ、もちろん」
葵が手を差し出す。
菫がその手を握る。
微笑を浮かべる。互いに。
「菫」
名を呼ばれて、菫が振りかえる。
「桃」
「首尾はどうだった?」
「先ず先ず」
「そ」
にこにこと笑いかける桃に、菫は何かを感じ取る。
「そっちも何かあった?」
「うん。思いがけない収穫かも」
「へぇ」
ふい、と顔をそむける。
その仕草に気付いて、桃が菫の手を取る。
「菫が思うようなことは何もないから、安心して」
ちゅ、と手の甲にキス。
「どうかな。大体桃は花でもないのに、どうしてそう引っかかるかな」
「さぁ? あたしも不思議なんだけど」
てくてくと二人、歩いていく。
人の多い通りから、路地から路地を抜け、やがて、人気のまったくない通りへ。
一軒の古びた喫茶店へと辿り着くと、からん、とドアベルの音を立てて扉を開けた。
「どうぞ」
桃がかしこまって菫を店内へ促す。
「ありがとう」
くすくすと笑って菫が中に入っていく。
その後を追うように、桃も店内へと入っていった。
扉の外には、あまり目立たないネームプレート。
「Nightingale」と書かれてあった。
年齢設定があやふや……。高校生くらいと思って読んでいただけたら幸いです。