アイの初恋~LOVEFOOL~
アイは、ちょっとだけ首をかしげた。
そりゃそうだ、さっき答えたのと同じ質問が飛んできたのだ。
アイの目の前にいる、細身のスーツがよく似合う男。つやのある黒髪はやや長く、すっきりとした細面。無精ひげなんか絶対に生やすことがなさそうな、清潔感のある印象。
顔立ちはハッキリしている。やや目尻が上がっている目元、大き目の黒い瞳は、強い意志を秘めていそう。こちらも大き目の口は、口角がキリッと上がっていて、微笑みをたたえているみたい。その唇から、どんなステキな言葉が聞こえてくるのかと思うと、胸がときめいてしまう。
湯呑に伸ばした手も大きく、男らしかった。首が長く、喉ぼとけが男らしさを醸していた。
それらがあまりに魅力的で、アイは直視していられなかった。
こちらも、遡ること一か月。アイが、エアコンのよく効いたリビングで愛犬のラッシュと戯れていた昼下がりのことだった。ラッシュは白と黒のツートンカラーの犬で、おでこにサングラスみたいな独特な模様が入っていた。
リビングのソファには、休日の父が居眠りをしていた。
バァンッ!
玄関の方から、ものすごい音が聞こえて、びっくりしたラッシュが飛び上がった。
「ただいま!アイ?いるんでしょう?」
どたどたどたどたどたどた。からの。バタンッ!
リビングのドアが勢いよく開き、またもやラッシュが飛び上がった。ちなみに、こんな騒ぎの中であるにも関わらず、父は相変わらず眠っていた。休日という名の平和を謳歌しているのだ。
ビリングに入ってきたのは母だった。
「ア~イ~?」
ミュージカル女優のように歌いながら、足取りも軽く、母は歩いてきた。何やら、胸に大事そうに抱えているものがある。
「あなた~に~♪すて~きな~おしら~せが~あるの~♪」
微妙な替え歌になっているけど、たぶん元歌は「愛の賛歌」だろう。
くるり、と華麗……とは言いがたいターンを決めると、ラッシュとアイの間に、割って入ってきた。
「ちょっと退いてね♪」
と、歌の間に挟んでくるセリフのような言い回しをしながら、ラッシュを眠っているお父さんのお腹に押し付けた。
これには、さすがのお父さんも、うっすら目を開けた。
「おっ!ラッシュぅ……。よしよし、こっちに来るか……」
寝ぼけながらも、ラッシュを抱き寄せようとするお父さん。その腕の中から、ラッシュは、もがもがと逃れ出てしまった。別のソファの上によじ登り、ふて寝を始める。
お父さんはちょっと寂しそうにしていたが、やがてまた目をつぶってしまった。
「なに?」
アイが怪訝そうに聞くと、
「焦らないの!」
と、いやに嬉しそうに、母は包みをほどいた。
「ジャーン!」
包みの中から出てきたのは、分厚い表紙に「御写真」と書かれた冊子だった。
「何これ!?もしかして、お見合い写真!?」
アイが声を上げる。
「ふがっ!」
マンガみたいな音を立てた後、お父さんが目を覚ました。
「あなたも、そろそろ良いお年頃じゃない?」
「ちょっと待ってよ!お見合いなんて、あたし!」
「え?え?なんだなんだ?」
親子三人の間に漂う温度差。
「だいたい、あなた今までの人生で、一度だって恋人がいたことがあったの?」
母に痛いところを突かれて、アイは黙るしかなかった。
「お母さんは、あなたと違って、若い頃はそりゃもうモテモテだったのよ?お父さんが付き合ってくれって言ってきた時には、他にも何人も告白されてて、誰にしようか迷うぐらいだったもの」
母の盛った自慢話はスルーを決める。
「写真を見たら、そうも言っていられなくなるわよ?」
母が意味深なことを言う。
「どういうことなの?」
ふてくされながらも、興味をそそられるアイ。その手に渡される、お見合い写真。ゆっくりと開かれるページ。そして、時が、止まった。
「見て見て?なかなかの好青年じゃない?イ・ケ・メ・ンよね♪お母さんがあと20歳若かったら、付き合っても良いぐらい!」
母が盛り上がっている。アイは答えない。ただ、写真を見つめている。
「なんだなんだ?」
お父さんが、覗きこむ。愛する娘のお見合い写真など、黙って見過ごすわけにはいかないのだ。それどころか、自分の妻のハートまで持って行きかねない勢いの「天敵」だ。お父さんの心の中ではシャドウボクシングが始まる。見えない敵に向かって、打つべし、打つべし!
写真に写っているのは、スーツ姿の、やや、はにかんだような笑顔の若い男。日本人にしては、顔立ちがハッキリしている。やや髪が長い。
今こそ毅然とした態度で、父親たるところの威厳を示さなくてはいけない!そう思った彼は、深呼吸をしてから言った。
「なんだぁ?……なんだか軽薄そうな男じゃないか。こんなの……」
「黙って!」
アイが声を上げた。彼女はお父さんを見ていなかった。その瞳は、写真の男性に釘付けになっていたのだ。
(似てる……)
忘れられない男の面影が、そこにはあった。
遠いあの日、身勝手な振る舞いで婚約破棄をした、ピアノ講師。――というのは、アイの一方的な思い込みだ。当時、幼稚園児だったアイと、大人であるピアノ講師の彼は、婚約なんかしてもいない。
「大きくなったら、先生のお嫁さんになる」
などと言う、可愛い子供に対し、
「そうか。ありがとうね」
と、大人の対応をしただけのことだった。
それを、アイが(婚約成立した)と、勝手に思い込んでいた。その後、ピアノ講師は誰からも後ろ指を指される必要のない、普通の結婚をした。アイのハートはひどく傷ついた。勝手に……。
アイの胸がチクチクと痛んだ。しかし、これは紛れもなく、アイの理想の男だった。これまでの人生の中で探して、巡り合うことのできなかった人。何人かの男性から告白されても、その思いを受け入れることを拒み続けさせた存在……。
だから、お父さんが、彼の粗をなんとか探し出して、
「こんな髪の長い男は、まっとうな仕事なんかしているはずがない!」とか、
「いやに白すぎる。こんな優男はきっと浮気をするに決まっている!」などと、なんの根拠もないダメ出しをするのが、一切、耳に入ってこなかった。
「アイ!?」
お父さんは頭を抱えた。自分の言葉に耳を貸さない娘。なんだろう、反抗期?あんなに素直で可愛かった娘が?彼の胸のうちに、悲しみが押し寄せてくる。
「アイ……」
そして、力なくソファに倒れこんだ。その弾みで、ソファがボウンとバウンドし、ふて寝していたラッシュが飛び上がった。今日は、どんだけ飛び上がらなきゃいけないんだ、ワンワンワン、である。
そのまま、床にポン、と飛び降りた。はずみで、CDプレイヤーのリモコンを踏んづけてしまった。
プレイヤーの中で、CDを読み込む音。やがて甘く気だるげなイントロが流れ始める。その曲は、今のアイの心にぴったりくるものだった。
(ステキな人……)
アイは、無意識にお見合い写真を抱きしめていた。胸のうちから、大好き、という思いが溢れ出て、抑えることができなかった。
そんな彼女の想いを代弁するように、やや鼻にかかったような、甘ったるいヴォーカルが流れ始める。アイの中でイメージが膨らんでいく。
初夏の爽やかな風が吹き抜ける庭。空には、ゆったりと雲が漂っている。
ラッシュが元気よく跳ね回っている。きっと、バッタか何かを見つけて、喜んでいるのね。
心のまま、ギターを爪弾く自分。ハートはアルペジオ。今の自分にエフェクターはいらない。気分はアンプラグド。
やがて遅れてくる彼。小走りに近づいてくる。走らなくったって、良いのに。ここで、待っているんだから……。
やがて、アイの側に腰かける彼。アイはギターを弾くのを止める。だって今は、ギターよりも彼とのお喋りがステキだから……。
ふたりきりで語り合う昼下がり。シートの上に、ランチボックスなんか広げて。料理は得意じゃないから、ランチボックスの中身はランチパックだけど。ふたりならマイセンのカツサンドにも、千疋屋のフルーツサンドにも負けない……。
なんてステキなひと時なの。彼の瞳にあたしが映って。あたしの瞳はもう、彼しか見えないの。
ああ、どうか。あたしのことを愛してほしい。あたしを必要だって言ってほしい。そんな瞬間のために、きっと今まで生きてきたのだわ。
「お見合いは決まりね」母親の言葉だけが、音楽の間からはっきりと聞こえ、アイは頷いていた。お父さんが盛大なため息をついたが、アイは気がつかなかった。
「あなたこと以外、考えられないの……」甘ったるいヴォーカルが、ほんの少しだけ尾を引き、やがて途切れた。
ふわふわと甘い、わたあめのような、深いため息が、アイの口からもれたのだった。
ラッシュのモデルは、とある大物ギタリストです。(洋楽)