13
13
その出来事の後、イヨたちは日本人一家が紹介してくれた、産婆さんのところへ行き、お世話になり、一週間が過ぎた。
故郷の日本に帰る方法もわからないまま、住むところもないイヨと谷崎さんは、産婆さんの計らいで、とある官舎へ入ることができた。そこにいる病人の女の人とその子供たちのお世話が条件であった。
年も明けて昭和二十一年・冬
官舎の中で出会った小さな女の子と別の女性、そしてイヨと谷崎さんは、官舎を出て、一軒家の借家へと移った。女四人での共同生活である。
イヨは朝鮮半島赴任のロシア軍人とその家族のところへメイドとして通いで働きに出た。洗濯や掃除、アイロンがけなどをしながらベビーシッターもしていた。ちょうど洗濯物を干していると、子供たちが声を掛けてくる。
「イヨコ!」
ロシア人将校の息子と娘には、すぐに気に入られた。二人ともとても可愛かった。
「ターニャ、トーニャ。あとで市場へ買い物に行こうか?」
イヨはロシア語は全然しゃべれなかったが、意思の疎通は何とかできていた。
子供たちのターニャもトーニャもとてもいい子だった。仲良く市場に訪れるイヨたち。
「何か欲しい?何か買う?」
イヨはターニャたちに飴玉を買ってあげた。
ロシア人がくれる賃金は軍票と呼ばれる通貨代用の手形で、イヨは借家へ帰る途中などに、よく買い物をしていた。
そんな生活が数か月続いた。その頃、借家の近くにイヨと同じ熊本に住んでいたという人と、その家族が住んでいることが分かった。その人たちに、荷物持ちを条件に一緒に日本に帰らないかと言われ、この機会を逃したらまたずっと清津から出られないだろうと思い、谷崎さんと相談した上で、日本に帰る準備をこっそりした。一緒に暮らしていたほかの女性たちには内緒だった。
そしてある朝、イヨと谷崎さんは買い物に行ってくると言い残して、最小限の荷物を持ち、借家を出た。
日本人の避難民収容所へと向かったイヨたちは、熊本の家族と共に収容所に入った。何でも朝鮮の人に賄賂を払い、南へ行く汽車に乗るというのだ。貨物列車の貨車に入る前に、避難民に見えるように、わざと布きれをツギハギに縫い付けて、避難民になりすました。そして同行していた熊本の人に賄賂を出してもらい、みんなで貨車の中に入った。
「この中?ロシア人に見つからないかな?」
「その時はその時よ、イヨちゃん。」
貨車の中は、避難民の人たちだらけで押し込められて、スシ詰めであった。
その日の夕方、汽車は動き出した。終戦から約一年、今や朝鮮半島は緯度三十八度を境に北はロシア、南はアメリカと、それぞれの支援の下で、国が二つに分断されているらしかった。この一年でいったい世界はどうなってしまったのだろう。
汽車は深夜、森の中の線路を煙を吐きながらゆっくりと走っていく。そしてずっとずっと南へと南下していった。