5話
キッチンからかっぱらってきた乾パンをかじりながら僕は今日会った出来事を手帳にできるだけ正確に記していく。
何か事件と遭遇したとき、とりわけ五月と一緒に遭遇したときはあとで彼女が参照できるようにこうしておくのが僕の習慣であった。
とりあえず一通り書き終えたところで僕は本土から持ってきた酒でも一杯飲んで早く寝てしまおうかという気になってくる。
僕が旅行鞄のなかから酒を取り出すと、こんこんと扉を叩く音がする。
「どなたですか」
平素ならノータイムでドアを開けに行くところだが、流石にこの状況。そこまでの度胸はなかった。
「私よ。五月」
僕は閂を横にずらすと鍵を回し、ドアを開いた。そこにはいつも後で束ねている鳶色の髪を下ろした女探偵がいた。
「どうしたんだよ」
「いや眠れなくてさ。暇だから。よかったら話に付き合ってよ」
僕も丁度一人で飲むのはさみしいと思っていたところなので、彼女を招き入れることにした。
どさり。ふぅ、と一息ついた五月はベッドの上に腰かける。こいつ遠慮がないな。
僕は少し待っていろと五月に言うと、キッチンからグラスを2つ取ってきて戻ってくる。戻ってきた時、閂と鍵をかけるのも忘れない。
あれ? もちろん防犯のためなんだけど、これなんか誤解されそう。
「あんた一体どういうつもり」
「いや別に変な意味はないぞ。防犯のためだよ」
ああ、そういうことか、と一応五月は納得する。
「しかしあんたも不用心よね。私が殺人者だったらどうするつもりなの?」
五月は杯を煽りながら言う。
「お前こそ僕が殺人者だったらどうするんだ。その酒も睡眠薬入りかもしれないぞ」
「まさか。私の持論だけどね。犯罪者には格ってのがあるのよ。あんたには殺人なんて大それたことは起こせないわ。あんたにできるのはそうね、せいぜい睡眠薬で私を眠らせてこの魅惑のボディを好き放題するってところじゃないかしら」
五月は自らの右足をゆっくりと撫でながら言った。僕は思わずごくりと喉を鳴らしてしまう。酒のせいだ。五月の耳に届いてないといいが。
「まあ、冗談はさておきあんたが双柳姉妹を殺すってことはないでしょ」
「なんでだよ」
「だってあんたイリスのことが好きなんでしょ」
「はあ? いやそんなことないが」
「だってイリスさんに聞いたわよ。昔、今日のイリスさんはとても美しいとかなんとか本人の前で言ったんでしょ。イリスさんから聞いたわ。今日の、とは何よ。って憤慨してたけど。ホント。最低よね。下手したらセクハラものよ」
そのことか。ある日、僕がオフィスで難解な推理小説と格闘していたときのことだった。ふと出勤してきたイリスさんを見た瞬間、僕は見惚れてしまった。昨日の船着き場と同じことが起こったのだ。
僕の異様な様子に気づいたイリスさんがどうかしたの、と尋ね、僕は慌てて「今日のイリスさんがあまりに美しくて」などと口走ってしまったのだ。そのとき周囲にはほかのメンバーもおり、僕はしばらくそのことで笑いものにされた。
しかしあのときメンバーでなかった五月にまでそのことを知られているとは。
僕らが所属する推理小説検閲政府機関《ノックスの十戒》は比較的歴史のある組織であり、今年29の僕や21の五月は当然のように創設時のメンバーではない。
その歴史を少し調べてみると、大体いつの時代もメンバーの人数は10か11と決まっていたようだ。
僕はふと目をしばたたかせる。酒を飲んだせいか一気に眠気がおそってきた。まずい。これはこのまま寝落ちするパターン……。
++
翌朝、鶏の鳴き声とともに僕は目を覚ます。
目の前には女探偵の胸部に備え付けられた砲弾があった。女探偵はすやすやと寝息を立てている。
これちょっとぐらい触ってもばれないんじゃないか。いやいやダメだろ。僕の頭のなかで天使と悪魔が戦っている。
とりあえず顔でも洗うか。そう思って部屋の外に出ようとしたところで僕は止まる。このままこいつをここに残していくのも不用心か。
僕はベッドに戻ると五月の肩を揺さぶった。
「何よ……」
と不機嫌そうな低音で返される。
「五月、僕は今から顔を洗ってくるから起きて鍵閉めとけよ」
僕は一まず五月がそれなりに覚醒したのを確認してからようやく顔を洗いに部屋の外へ出た。
顔を洗うため洗面器を求めて風呂場に向かうと、そこにはリカルドさんがいた。金髪碧眼の神父は寝起きだというのに、男の僕でも見入ってしまうほどのかっこよさを保ってやがる。
「おやおはようございます」とリカルドさん。
「おはようございます」
「そういえば明智さんは今瓶子さんの部屋にいらっしゃるんですか?」
「え!? なんで……そう思うんですか」
「いや私の部屋彼女の部屋の隣なんですが、昨日は何度も壁を蹴るような音が聞こえたのに、昨夜はまったく聞こえなかったので」
「だからと言って僕の部屋にいるとは限らんでしょう」
「はは、何も隠さなくても。お二人の関係は皆知っていますよ。いつくっつくのかとヤキモキしているぐらいです」
なんだか大いなる誤解があるようだ。
「カトリックって婚前交渉禁止なんじゃないんですか?」
「別に私はクリスチャンじゃない人間の行為にまでとやかく言うつもりはありませんよ。それに少なくとも現代のこの国のキリスト教においては婚前交渉をしたぐらいでは懺悔ぐらいで許してしまうのが実情です」
「とにかく僕と五月はそういう関係じゃないんですよ。あいつの家と俺の家は昔から付き合いがあって、あいつが私立探偵を始めるとか16の頃に血迷ったことを言ったときも両親と大喧嘩になったんですが、俺が仲裁に入らされて」
リカルドさんは微笑ましそうに聞いていた。どうやら惚気話か何かだと思われているらしい。
「ところで瓶子さんは今回の事件どういう風に考えていますか?」
「どういう風にとは?」
「私には何だか現実感がまるで湧かないんです。身近な人間がすでに3人も死んでいるのに。自分がこれほど冷徹な人間だとは思いませんでした。結局のところ私は双柳姉妹と趙さんの死を対岸の火事程度にしか捉えられていない」
「無理もないんじゃないですか。だって確かにこの事件は異常ですよ。推理小説でもあるまいし。なんでこんな容疑者が限定される状況で殺人を犯していく必要があるんですか。どう考えたって帝都で殺して地方の海にでも遺体を捨ててしまう方が賢いやり方ですよ」
「犯人は狂人なのかもしれませんね」
「それを美しくないと言ったのはリカルドさんじゃないですか」
「いや言ったのは土塁さんですよ。それにあくまで推理小説であれば、の話です。まあ狂人でないとしたら今この瞬間に何かどうしても我慢できないことがあって突発的に犯行に及んだ場合とかが考えられますかね」
リカルドさんの言い方ではまるで我々8人のなかに犯人がいるかのようだった。
「となるともう殺人は打ち止めなんでしょうか」
「どうですかね。すでに3人の方が亡くなっています。もっとも衝動的かつ突発的な連続殺人の動機というのが私には思い当たりませんがね」
「はあ」と僕は曖昧な返事をする。
「探偵方法に超自然的な力を用いてはならない」
リカルドがぼそりと呟いた。僕が不思議そうに彼の横顔を見ると、
「私の担当する戒律ですよ。降霊術とかで事件を解決する探偵はご法度ってことですね。ですが現実の事件ではそういう超人的な探偵に期待したくもなりますよ。だって普通の名探偵は犯人のターゲットが一通り殺されてからしか動いてくれませんから」
リカルドは寂しげに言った。
と同時にどたどたと廊下を早足で歩く音。洗面所まで登場さんと玉坂さんがやってきた。
「どうしたんですか」と僕。
「ちょっと玄関まで来てくれ」
玉坂さんが言った。
4人は連れ合うようにして玄関を訪れる。玄関に取り付けられた錠は縦になっていた。この錠は縦になると開いており、横になっていると閉まっている。つまり今玄関のカギは開いているということだ。
「これがどうかしたんですか」と僕は尋ねる。
「やってみればわかる。この玄関開けてみてくれ」
何がしたいのだろう。僕はそう思いながら玄関扉の取っ手に手をかけ、それを押す。びくともしなかった。
はてこれは内開きだっただろうか。僕は力を入れる方向を変えてみる。結局は外開きのつもりでも内開きのつもりでもスライド式のつもりでもドアは開けられなかった。
錠が縦になっていると開いているというのは勘違いであったかと思い、錠を捻って横にすると、再び三方向に力を加えてみる。やはりドアはびくともしなかった。
ひょっとしてこの扉の鍵はこれ一つじゃないのか。そう思い、僕はドア周辺を見回すが、見当たらなかった。
「開かないでしょう」と登場。「僕らもさっきから何度か試したんですが全然開かないんですよ」
「ドアが凍結してるとか」と僕。
「この季節にか?」と玉坂さん。
そう今は夏真っ盛りだ。わかっている。言ってみただけだ。
「誰かがドアの向こうに何か物を置いているとかは考えられませんか」と僕。
「何の目的でそんなことをする必要がある」
「それはわかりませんけど、考えられるのはそれぐらいじゃないですかね」
「とにかく裏口とかほかの出入り口を調べてみませんか。外に出れなきゃ脱出することも不可能なんですから」とリカルドさん。
僕たちは裏口に行くために大広間を通ろうとする。
急に先頭を歩く玉坂が立ち止まる。どうしたのだ、と声をかけようとすると彼は頭上を指さして言った。
「あれは何だ……」
そこにはシャンデリアがあった。そして地上から高さ2メートル近くはあろうかという位置にある。
++
父親が死んだのは僕が3歳のころであった。立派な医者であったというが、僕は彼のことをよく覚えていない。皆が当たり前のように持っている父親との思い出を自分だけが持っていないことに僕は時折深い喪失感を覚えたものだ。
だからだろうか。僕は職場の先輩であり、人生の諸事について相談に乗ってくれる抜道さんに対してどこか父性のようなものを覚えることがあった。
そんな抜道唯一がシャンデリアに、まるで木の枝にひっかかるゴミくずのようにぶら下がっていた。その身体は不自然な角度でしな垂れかかっている。