4話
風呂が沸いたというので、先に女性陣に入ってもらうことになった。この別荘には風呂が一つしかないのだ。
女性陣と言っても趙さんはまだ体調が悪いというので、実際には五月と雲然さんだけなのだが。
そして僕は今冷蔵庫に入っていた松の実を潰していた。何故こんなことになっているのか。
登場さんの提案であの女性陣に料理は期待できそうにないから――五月や雲然さんが聞いたらまたひと悶着ありそうだ――彼女等が風呂に入っている間に簡単なものでいいから作ってしまおうということになったのだ。
結局僕たちは朝からほとんど何も食べていない。どんな状況でも腹は減る。
隣ではリカルドさんがバジルを切っている。調理は3人ずつにわかれて行うことになった。どちらがより旨い料理を作れるか一勝負しようなどという玉坂さんの発案によるものだが。
真意は調理過程で料理に毒を混入するものがいないよう見張れるようにということだろう。
ちなみに僕の班が僕、リカルドさん、土塁さんで。向こうの班が玉坂さん、登場さん、抜道さんだ。
「しかし外部犯、外部犯と言いますが、実際にはどのような人物が外部犯として想定されますかな」と土塁さんが呟いた。
「第一にアリスさんやイリスさんに個人的に恨みを持っている人でしょう。恨みの内容についての詳細な分類は必要ありませんよね」とリカルドさん。
「第二に作家でしょうな。推理小説の検閲に関してもっとゆるくして欲しいという作家は数多くいます。そのような運動も国内でいくつか見られます」と土塁さんがベーコンを炒めながら言った。
これひょっとして僕の番なのか。よし。推理小説愛好家の一人として僕もそこそこ推理力があるところを見せつけなければ。
「島に元々住んでいて、野生動物に育てられた狂人とか」
「それは――」「推理小説的であればあまり美しくないですな」
土塁さんの言葉にリカルドさんも曖昧に笑った。別にいいだろ推理小説じゃないんだから。
ちょうど僕が松の実を潰し終えたところだった。女性の叫び声が耳を付いた。
僕たちは揃って風呂場へ急行する。なんとなく流れで先頭になってしまった僕は風呂場のドアを勢いよく開ける。
「大丈夫か!?」
「こっちじゃないわよ。このど変態が!」
五月の怒声とともに僕の顔面に石鹸がめり込む。あまりの痛みにしばし僕は前が見えなくなる。いや別に2人の裸体を見たいとかそういうわけではないが。クールビューティー雲然さんは大して意に介す様子もなく言う。
「今の悲鳴は私たちではない。おそらく趙さんだろう。私たちも服を着次第向かうから君たちは先に行ってくれ」
どたどたと後方へ走っていく音。僕の目はまだ開かない。なんとかして趙さんの部屋の方向と思しき方角へ僕は走っていく。
なんとなくこっちだろうと思う方角へ走っていると、どんと何かに後から突き飛ばされる。しばらく――時間にして1分ほどだろうか――そこでひっくり返っているとようやく視力が回復してきたので、趙さんの部屋へと向かった。
趙さんの部屋の前ではリカルドさんと登場さんが立ちつくしていた。
僕は彼らの合間から覗き見るようにして外を伺った。趙さんが床に仰向けになって倒れていた。
目の前の光景が彼女の寝相が恐ろしく悪いことによるものでないのは、彼女の真紅の衣装の胸元が赤黒い液体によって染め上げられていることからわかった。
「僕たちが到着したときはもう手遅れでした」とリカルドさんが言った。
「抜道さん達は」と僕。リカルドさんは震える指で部屋の窓を指した。
「抜道さん達は犯人はあそこから逃げた可能性があるって窓の外を探しに行きました。僕たちは犯人がこの部屋にまだ隠れていて僕たちをやり過ごすつもりかもしれないからここで待機してろと」
「どうなってる?」
後から五月と雲然さんが駆け付ける。僕は2人の美女の湯上り姿を見ても何の感慨もいだけなかった。
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犯人を捜しに出たという3人が戻ってきたのはそれから30分ほど経ったあとだった。
肩で息を切らしながら「確認したいことがある」と玉坂さんは言う。
「君たちは風呂に入ってからお互いから目を離すことはなかったのか」
玉坂さんの質問に答えたのは雲然さんだった。
「見張っていたわけじゃないから目を離すことぐらいはあったかもしれないわ。たとえば髪を洗うときは普通目を閉じるでしょう。だから髪を洗うときは少なくとも目を離していたわ。もっとも風呂場から出て行ったりしたのなら音でわかるとは思うけど」
「あなたたちこそどうなのよ。私たちがお風呂に入っている間、お互いから片時も目を離さなかったわけ?」と五月
「私たちは6人一緒に料理を作っていました。君たちが風呂に行ってから5分ほどしてからのことだったから少なくともその間は誰がどこにいたのか正確なことはわかりません。
一緒に料理をし始めてからはお互いトイレなどで数分程度中座した以外は誰かが長時間いなかったということはないように思います。
さらに趙さんの悲鳴があがったときには6人とも一緒にいたのは間違いありません」と抜道さんが丁寧に解説する。
「それは私たちも同じですね」と五月。
「と、ということはやはり外部犯がいるということでしょうか」と登場は青ざめながら言った。
「外部犯説は否定しないが、今回の犯行に関して俺たちのなかにチャンスがなかったかどうかは早計じゃないか」と玉坂さん。
「そうね」と五月。「悲鳴があがった瞬間が犯行の時刻だったとは限らない。あらかじめ録音していたものか何かをあのタイミングで流れるように再生していたのかもしれない」
「録音といいますが」とリカルドさん。「趙さんの悲鳴をどうやって録音するんですか」
「あれが趙さんの悲鳴だったとは限りませんよ。実際私たちは最初雲然さんと明智さんの悲鳴かと勘違いしましたから。とっさのことでしたし、声質が多少似ている人の声ならばどうとでもなるはずです」と抜道さん。
「それに」と雲然さんが続く。「趙さんは一度この旅行内でも叫び声をあげている」
ああ、そうか。あのときだ。双柳姉妹の死体を発見したとき、確かに趙さんは屋敷中に響き渡ったのではないかという叫び声をあげている。もっともあそこで叫び声をあげるかどうかなんて予想できるはずもなく、犯人がそれを録音し得たかどうかには疑問の余地があった。
「とりあえず」と五月。「現場検証をしましょう。あなたたち、とくに玉坂さんがいない場でやったら納得しないかと思って。皆で相談して3人が帰ってくるまで現場には立ち入らないことにしたの」
「そいつはお気遣いどうも」
玉坂さんがシニカルに笑いながら言った。
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現場検証の結果、するまでもなかったことであるが趙さんは心臓を一突きにされていることがわかった。
また凶器として彼女の遺体の傍らに包丁が落ちていた。登場さんが去年同じ包丁をここのキッチンで見たことがあると証言したため、凶器の出所はある程度推測することができた。
もっともいつからこの包丁が盗まれていたかは定かではないため、捜査はほとんど前進しなかった。
「一応私と明智さんで手荷物を改めたけど、一つとんでもないことがわかった」
雲然さんはそう言いながらあるものを円卓上の机の上に置いた。それはまごうことなき拳銃だった。
「ほ、本物なんですか」と登場さん。
「私にはわからないけど、明智さんの見立てでは99.99パーセント本物。彼女のカバンの中に入っていたわ」
この国では特別な許可を取ることができれば銃火器の所有は認められている。しかしそれはかなり面倒な手続きが必要だし、少なくともいくら許可を取っているとはいえ一般人が拳銃を公共の場で携行してよいとする法律は存在しなかった。
「どういうことなんでしょうか」とリカルドさん。「彼女は何か命を狙われる危険性を感じていた、と捉えるべきなんでしょうか」
「どうだろうな。俺の感では」と玉坂さん。「趙の経営している貿易会社ってのはどうもまともな貿易会社ではないんじゃないかと思う。彼女にとって護身用に銃を携行しているのは日常だったんじゃないか」
「憶測でめったなこというものじゃないわ」と雲然さん。
しばし僕らの間には沈黙が流れる。僕らは結局のところ相手のことなんてまるで知らなかったのかもしれない。双柳姉妹についても彼女たちが他殺か自殺かなんてまだ決着は着いていないのに、動機らしき憶測の一つも出てきていないのだ。
「趙さんが殺害されたことについて」と五月。「まだ気になることがあります。趙さんはかなり警戒されていたように思います。犯人はどのようにして趙さんの部屋の中に侵入したのでしょうか」
「確かに」と土塁さん。「あの怯えようでは私たちが訪れたところで部屋を開けてくれたとは思えませんなあ」
「彼女は拳銃を所持していたはずだ。だからこそいざとなれば撃退できると思っていた可能性もある」と玉坂さん。
「なるほど。でもだとしたら趙さんは拳銃をいつでも撃てる態勢にしていたはずです。たとえば私であれば体調が悪いことを理由にベッドに腰かけたまま応対し、毛布の中に拳銃を包みそこに手を忍ばせます。
毛布の中では拳銃の引き金に手をかけいつでも発射できる状態にするでしょう。ですから趙さんのように発射された形跡がないだけならまだしも、カバンのなかにあるというのは不自然ではないでしょうか」
確かにと言って玉坂さんは葉巻に火をつけた。
「自分で提案してなんですが、録音で犯行時刻をごまかすトリックにも」と再び五月。「同じような問題点があります。あれだけ警戒していた彼女がなぜなすすべもなく殺されたのでしょうか。
拳銃で反撃とまではいかずとも、せめて叫び声をあげるぐらいはできたはずです。となると一度しか叫び声が発せられていないのは不自然です」
「ちょっとよろしいですか」と土塁さん。「私からも一つ検討してほしいことがあります。それは鍵の問題です」
鍵の問題。そうそれはいずれ検討しなければならない問題だった。
この別荘にはいくつかの鍵がある。まずは別荘そのものの鍵。つまりは玄関と裏口それぞれの鍵だ。これは普段カーマイクルさんが所持している。合鍵のようなものがあるかは不明。
そして各部屋の鍵が一つずつ――もちろん、別の部屋の錠は開けることができない――存在する。これらは普段大広間にあるボードにかけられているが、滞在中はその部屋に泊まる人間が所持している。
これについても合鍵やマスターキーのようなものがあるかは不明。
いずれも内側からは鍵なしで錠の開け閉めが可能。
さらには扉には木製の閂がついており、前述の錠を開けただけでは部屋に侵入することはできないようになっていた。
「この鍵の防犯性について抜道さんと明智さんは専門家としてどう思われますか?」と土塁は尋ねる。
「専門家ねえ」と建築家の抜道さん。「自分は建物全体のことにはそれなりに詳しいつもりですが、鍵のことはあんまり。まあ見た感じこの別荘で使用されている鍵は最新のものではありませんが、それほど古いわけでもない。
素人が針金でちょちょいってわけにはいかないとは思いますけどね」
「そうですね」と五月。「確かにこの鍵を素人が予備知識なしに開けるのは難しいでしょう。ですが、逆に言えば素人でも少し勉強すればこの鍵を開けることはできると思います
どれ、一つ開けてみせましょう」
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そんなわけで一行は僕の部屋の前に来ていた。五月は僕の部屋の錠をカチャカチャやっている。
「いや、なんで僕の部屋なんだよ」
「いいじゃない。どうせ見られて困るものなんてないでしょ」と五月。
そりゃあ見られて困るものなんてないけど。だからと言ってもしこの錠が開けられてしまったら僕はどんな思いでこの部屋で過ごせばいいんだ。心細すぎる。
実際には同じタイプの鍵を使用しているので開けられるのがどの部屋だろうと関係はないのだが。
「まあ任せなさいよ。こんな鍵私にかかれば朝飯前よ」
五月が錠をカチャカチャとやること20分。カチャリと今までより少し重い音がする。そして五月がドアノブをひねると見事に扉は開かれた。
「見たか。この私の実力」
五月が振り返って誇らしげに言う。その額には玉のような汗がいくつも浮かんでいた。
「朝飯前には見えなかったな」と玉坂さん。
「ぐっ、でもわかったでしょう。少なくともこの錠は鍵なしでは絶対に外から開けられないという類のものではないわ。皆今後戸締りするときにはしっかり閂までかけるようにすることね」
「明智さん」とリカルドさん。「閂のほうはどうなのかしら」
「そうですね」といった数秒ほど五月は考え込む。「――皆さんにはおそらく説明するまでもないでしょうが、いわゆる針と糸のトリックというものがあります。針や糸を使って鍵や錠を外側から操作するというものですが、このドア。
床との隙間がほとんどないんです。針と糸のトリックは普通ドアの隙間なんかに糸を通してドアの向こうの糸を動かせるぐらいの余裕がないと成立しません。加えて隙間が狭いと針や糸を回収するためにその隙間をくぐらせることもできませんから。
この別荘に関しては窓も同様です
もっともこの手のトリックは一旦中から仕掛けを取り付ける必要があるので仮に可能だとしても防犯上の問題はほとんどないですけどね」
「解説ありがとう、明智さん」と抜道さんが言う。「皆さん、提案なんだが今日はもう遅いから無理としても、明日のうちには船を出してこの島を脱出しよう」
「しかし船の運転経験があるメンバーはこのなかにはいないはずですよ」と玉坂さん。
「確かにその通りです。また今朝そのように申し上げたのも私です。ですが双柳さんたちに加えて趙さんまでも殺害されてしまったことにより私も思い直しました。一刻も早く多少の危険を冒してでもこの島から脱出したほうがよいと。
カーマイクルさんも帰ってくる気配がありませんからね。困るのもそうですが、こうなってくると彼の身も心配です。
このメンバーの中には自動車免許を持っている人は何人かいますし、幸いこの別荘には大きな図書室もあります。ひょっとしたら船の操縦についての本も存在するかもしれません。
そうした知識を総動員して何とか船を出したほうがよいのではないかと」
とりあえずこの場では誰も反論する者はいなかった。それだけ危機に感じているのもそうだが、最早皆議論するだけの気力はなかったのかもしれない。