2話
抜道さんが一旦大広間に戻ろうと提案した。僕は各部屋に供えられているタオルをアリスさんとイリスさんの顔にかけた。誰も来ないと言え、これではあまりに忍びなかった。隣では天久さんが祈りをあげている。
「今のはいただけないわね」と五月。「現場保存。推理小説の常識でしょ」
その瞬間、僕は腕を伸ばして彼女のすぐ後の壁を強く叩いた。
「黙れ。これは推理小説じゃない」
「……わかってるわよ。……悪かったわ。でも現場保存は重要よ。現実の事件でもね」
「――その通りだな。悪かったよ」
大広間の円卓上の机に9人が腰掛けた。
「瓶子君、彼女等の死因は、君の現時点での見立てを聞かせてくれないか?」
何かが起こったときこういうときに自然とリーダーシップを取るのは僕等のなかではいつも抜道さんである。
「はい。皆さんも聞いたことがあるかもしれませんが、あのピンク色の死斑は青酸化合物によって引き起こされるものです。したがって現時点では青酸化合物による毒殺というのが有力かと」
「部屋は密室だったし」蒼白になりながら登場さんは言う。「自殺の可能性が高いんじゃないでしょうか」
「それはどうでしょう」コーヒーを一口啜ったあと土塁さんは言った。「毒殺ならば事前に彼女たちが口をつけるであろう飲料に何かを仕込んでおけば、現場が密室であるかは関係ないのではないでしょうか」
「ちょっと待ってください」青白い顔をしながら趙さんが言った。「皆さんなんで推理みたいなこと始めてるんですか。これは小説じゃない現実なんですよ。現実に人が死んでるんです。そんな人の死をおもちゃみたいに扱うことは許されません。
今すぐ警察に連絡し、私たちは現状保存と待機に努めるべきです」
それに対して抜道さんが諭すように言う。
「趙さん、別荘に備えつけられている電話で先程連絡しようとしてみたんだが、電話線が切られていました。つまりすぐに警察の助けを期待できる状況ではないということです。この殺人が現実に起こったことであるからこそ我々はひとまずここでこのなかに犯人たりえる人物がいないのか、外部犯の可能性がないのかを検討し、警察が来るまでの自衛に活かすべきです」
抜道さんが一しきり喋り終えると、べきべきでない議論は有益ではないとばかりに雲然さんが前触れなく話し始める。
「青酸カリの類は推理小説のなかではお馴染みの毒です。ですが実際にはとても苦いと言います。何かに仕込んだとして致死量を飲ませるのは難しいのではないでしょうか」
「例えばですが――」趙さんは言った。どうやらここで一旦推論するという形式に乗ることにしたらしい。「刃物などで脅して強引に飲ませるのはどうでしょうか。
青酸化合物のなかにはすぐに症状が現われないものもあると言います。2人に飲ませてから犯人だけは外に出て扉を閉めさせるというのはどうでしょうか」
趙さんの推理に最初にレスポンスしたのはリカルドさんだった。
「しかしいくら従わなければ殺されるのは間違いないとは言え、従ってもほぼ確実に殺されますよね、その状況。そんな状況でほいほい犯人の言うことを聞くでしょうか。私ならいちかばちか大声を出してほかの人が助けに来てくれる可能性にかけますね」
確かに、と趙さんは納得したようだった。
「青酸カリによる死とはどういうことか。結局のところ胃酸と反応しシアン化水素が発生し、全身の酸素濃度が低下することによる窒息死だ」玉坂さんが葉巻に火を着けながら言った。「そうだよな、瓶子君?」
「ええ、その通りです」
「じゃあ続けるぜ。一般的に窒息死とはあまり美しい死に方ではないと言われる。実際双柳姉妹は美しい死に方とは言えなかった」
「あなたねえ、その言い方は」
雲然さんがたしなめるように言った。しかし玉坂さんは意に介さなかった。
「しかし、どうだ。双柳姉妹はあの美貌の持ち主で、アイドルまでやってた。おっとアイドルってのは禁句だったか。いずれにせよ双柳姉妹には自分の美貌に対する自負や誇りがあったはずだ。
であれば、どうして双柳姉妹が自殺の手段として、そんな手段を採用する。したがって自殺説は否定される。
雲然が言ったようにその強烈な味の問題から何か飲み物に混入させたり、あるいは事故で混入してしまったという仮説も否定される。
じゃあなんだったら双柳姉妹は飲んでくれるか。苦くて当たり前の物。そう、薬だ。
風邪気味だとでも言い出した双柳姉妹にある人物が薬を渡してやったんだ。これさえ飲んで一晩寝ればよくなるでしょう、といった感じでね」
僕は緊張のあまり首の後のあたりから熱が引いていくのを感じた。彼が言おうとしているのはまさか。
「もうわかるよな。そんなことをしても違和感を持たれない人物。本業が医者である瓶子・H・朝人、犯人はアンタだ。証拠は十分でないが、俺としては今すぐこいつを縛って空いている部屋にでも閉じ込めておくことをお勧めするよ」
「ま、待ってくれ。僕には彼女たちを殺す動機はない」
「動機? 俺の実家に伝わる確認は理屈と膏薬と動機はどこにでも付くというのがあってね。つまり動機なんてあとから調べりゃいくらでももっともらしいものは出てくるってことだ。
そうだなあ。例えば双柳姉妹のどちらかに恋慕していたアンタは告白したんだ。しかし振られてしまい可愛さあまって憎さ百倍ってのはどうだ」
自分の頭の中を覗かれたような気がして今度は耳の裏が熱くなるのを感じた。
「仮にそうだとしても姉妹どちらをも殺す理由にはならない」
「じゃあ姉妹どちらにも懸想して、どちらにも振られたか。あるいは同じ顔だから憎くなって殺害したか――」
がんっ。玉坂さんの話を遮るかのようなな異音。音がした方向を見ると、どうやら五月が机の上に足を思い切り叩きつけた音だとわかる。
「さっきから聞いてりゃあその程度の推理をしたり顔で後で恥ずかしくなっても知らないわよ」
「おやおやどうやら本家名探偵様の登場らしい。ずっと静かだったから。噂通り実際の探偵はこういう事件では役に立たないのかと思ったよ。教えてもらおうか。俺の推理の問題点とやらを」
玉坂さんは不敵に笑いながら言う。
「まず苦い青酸カリを薬と偽って飲ませることができるのは医者である朝人だけ。この前提に問題があるわ。例えばこれは自分が普段常用している風邪薬なんだけどよかったら使ってくださいと言われて、信頼された人物から手渡されたらどうする?
私なら飲むわ。もっとも玉坂さんからだったら飲まないかもしれませんけど」
五月の余計なひと言に玉坂さんは舌打ちする。
「さらに言えば別にこれは毒を薬だと言って手渡した人物が医者であってもそうでなくても成立する話だけど、犯人が必ずしも私たちのなかの誰かとは限らないわ。たとえば玉坂さんの言うように医者が薬と偽って青酸カリを渡していたとしてそれが朝人ではなく、双柳姉妹のかかりつけの医者である可能性を否定できるかしら。できないわよね?」
玉坂さんは無言で唇を噛んだ。
「もう一つあなたの推理の最大の欠点は、犯人が毒を2人同時に処方しようとしている点だわ。もし仮に薬を飲むタイミングがずれて片方だけが生き残ったらどうなるかしら? もう片方も薬を飲んでくれるかしら? そんなわけないわよね。
警戒して飲まないでしょう。そればかりか片方が生き残った場合、きちんと調べればあのときもらった薬が実は毒だったのではないかという着想には必ず至る。そうした場合犯人は言い逃れはできないわよね。
そもそもあなたが言うところの薬ってどんなものを想定しているのかしら。液体? 粉薬? 液体や粉薬なら確実に薬を入れるための容器には毒の残滓が付着するわ。
つまりこのトリックは端から第三者をだましとおすためのトリックとして成立してないの。
あ、でもカプセルだったら問題ないか。それでもこのトリックの穴は覆せないけど」
「世の中には刺し違えてでも殺してやるとか。そういう覚悟を持った殺人者だっているはずだ。端からばれることは織り込み済みで確実に殺そうとしたのかもしれない」
「あり得ないわ。それだけの覚悟を持っているにもかかわらず、このトリックは両方を確実に殺すにはあまりにも不十分すぎる。片方でも殺し損ねたらもう片方を殺すことができるチャンスは間違いなくないわ。犯人の心理としてあり得ないわよ」
「だったらやはり瓶子君、いや確かに明智君の言う通り瓶子君を犯人を決めつけたのは早計だった。犯人Xはアリスかイリスどちらかを殺そうとしたんだ。しかしそのアリスないしイリスは自分の片割れもまた風邪をひいていることを知った。
それで薬を分けてやったんだ。それでタイミングのよさ――悪さというべきか――も重なり彼女等は2人とも死亡するに至った。これなら筋道は通る」
五月はフッとうすら笑いを浮かべる。
「別に朝人を犯人だと断定しないならこれ以上反論しても仕方ないんですけどね。実際犯人心理からの面で合理的に考えたらリスクが大きすぎるというだけで、犯人がここまで思考できなかったということもあり得ますから。
でも私個人の意見としては玉坂さんのその説もやはり犯人心理の観点から言ってあり得ませんよ。
粉薬でも液体でも、錠剤でも、カプセルでもなんでもいいですけど、普通この方法である一人を殺したいならそれはきっちり1人分だけ渡しますよ。今持ち合わせがこれしかないとか言ってね。
だって2人分以上あったら玉坂さんが言うように関係ない人を巻き添えにしちゃうかもしれないし。それに薬に模された毒薬という決定的な証拠が被害者の手荷物に残っちゃうじゃないですか。
まあでも自決用の毒を薬用の瓶で持ち歩くなんて普通だし、医者が友人などに非公式に処方する薬が何の銘柄もない瓶に入れられているのも普通。後者はどうとでもなる問題かな」
五月は自分の主張の問題点を自分で指摘する。しかしそれでも五月と玉坂さんの推理どちらが深くまで考察がなされているかは誰の目にも明らかであった。
玉坂さんはふぅと一息吐く。
「どうやら俺の早とちりだったようだ。瓶子君、申し訳なかった」
そう言って玉坂さんは深々と頭を下げた。