1話
ジリリリと。発車ベルが鳴り響く。
物思いに耽っていた僕はそれでようやく自分の降りるべき駅に電車が到着しており、そればかりか今まさにその駅を発とうとしていることに気が付いた。
僕は慌てて棚の上の白衣を手に取ると電車から飛び降りる。飛び降りると言っても走行中の電車の窓からアクション映画のように転がり出たわけではないので。念のため。僕は平平凡凡とした身体能力の持ち主であることを事前に約束しておこう。
電車から降りた僕は船着き場へと向かう。ここに迎えの船が来る手筈になっていた。
船着き場には先客がいた。
「抜道さん、おはよう」
船着き場に悠然と佇んでいた長身の男性が振り返る。彼は微笑みながら挨拶を返す。小麦色の肌に微笑んだときにこぼれる白い歯が印象的な色男だ。
「今年はようやく先生に勝つことができたよ」
抜道唯一さんと僕の関係性は同僚だ。毎年この季節には同僚の皆でこの船着き場から少ししたところにあるマイルズ島へ遊びに行くことになっている。
ちなみに抜道さんは僕のことを先生と呼ぶ。「この仕事」のほかに僕がしがない町医者をしているということに由来するのだろう。と言っても「この仕事」を始めてから実家である診療所の仕事のほうは姉にほとんど任せてしまっている。
それでもごく潰しと言われないだけの給料を「この仕事」でもらっていた。
一方で抜道さんも「この仕事」のほかに建築家としても活躍している。だから先生と言えば、彼だって先生だろうと思うのだが。そんなわけで彼が僕のことを先生と呼ぶ度、人差し指と薬指を擦り合わせたくなるような何とも言えない気持ちになるのであった。
僕は姉が実家の診療所のリフォームを考えていることを話すと、抜道さんは状況に分けていくつかリフォーム業者を紹介してくれる。
そうこうしているとまた船着き場に2つの影がやってくる。2人の男性であった。
1人は初老の男性だ。老人ではあるがスーツを華麗に着こなしており、総白髪の頭髪でさえおしゃれに見えてくる。
「やあお二人さん」
と初老の男性。彼の名前は土塁蓮。彼もまた我々の同僚である。昔は俳優をしていたらしい。その経歴ならばこのかっこよさもそういわけかと頷ける。
土塁さんの隣にいる中年の男性がシルクハットを取ると、90度近くまで腰を折り曲げ深いおじぎをする。
「今年もこの季節がやって参りましたな」
と中年の男性は顔に似つかわしくない高温で言う。彼の名前は登場有生。仲間内ではせっかちな性格で知られている。
土塁さんが往年のシェイクスピア俳優だとすれば、登場さんは喜劇役者といったところだ。もっとも彼には役者の経験はないそうだが。
そこからは土塁さんと抜道さんが最近できたという劇場について演劇論的視点と建築論的視点で会話を始めた。僕と登場さんは聞き役に徹する。
「おや5人目の登場ですな」と登場さんが印象的な口髭を触りながら言った。
船着き場へ向かって真紅のチャイナドレスを纏った長身の美女が歩いてくる。彼女の名前は趙欣怡。もちろん我々の同僚だ。彼女はアジアのなかでも成長著しい中国の出身で、普段は貿易商をしているとか。
「オハヨウゴザイマス」
と趙さんは扇を口元の辺りに掲げながら言う。それにしてもチャイナドレスか。スリットから覗く彼女の美脚は間違いなく何らかの引力を持っていた。目が吸い寄せられそうになる。
島の主であり、この慰安旅行の企画者、さらには我々の上司でもあるカーマイクル氏からは毎年この集まりでは自らの属性を強調するような恰好をしてくるようにと言われていた。
だから僕は白衣を着ているのだ。普段の僕は所構わず白衣を着て自らの職業をひけらかすような厚顔無恥ではない。
彼女のチャイナドレスもそうした背景からのものだろう。もっともチャイナドレスとは中国のなかでも特定の民族だけが用いていた民族衣装が西洋の裁縫技術とミックスされ、アレンジされたものであるという。
つまりは新しい伝統なのである。
趙さんが一息ついた頃、続けざまに4人ほどやってきた。
「いやーこの暑さを参りましたね」
と牧師の恰好をした天久リカルドが僕に同意を求めてくる。僕は「全くです」と言って苦笑してみせる。
天久さんは牧師の恰好をしているというよりは実際に牧師なのであるが、休日のバカンスにこんな恰好をしてくるわけは僕の白衣、趙さんのチャイナドレスと同様のものだろう。
天久さんは自分と同じこのクソ暑い日にそぐわない恰好をさせられている人として僕に同意を求めたのだと思う。しかし申し訳ないことに白衣というやつは外から見るよりは随分薄手であり、暑いことは暑いが彼ほどの苦労ではないかもしれない。
天久さんの後でミステリ小説と学問の関係性について議論している男女が2人。男性のほうは縮れ毛の長髪に丸メガネが印象的である。女性のほうはベリーショートの髪型にジーンズ、革ジャケットと中性的な雰囲気をしている。
男性のほうは玉坂六也という論理学者で、女性のほうは雲然次子という物理学者だ。僕は自分のなかで彼らを学者コンビと呼んでいる。
大学に在籍していた年数では僕や抜道さんもそこそこ長いのだが、卒業後もコンスタントに論文を発表し続けている彼らに比べると僕等のほうはアマチュアの学者を名乗るのもおこがましいレベルだろう。
と言ってもこれを直接彼らに言えば一緒にするななどと反論されることだろう。この2人は傍目にはとても気が合っているように見えるのだが、本人たちは馬が合わないと思っているらしく、いつも喧嘩腰で議論をしている。
「よっ」とセミロングの鳶色の髪を揺らしながら女性がこちらに手をあげる。「朝人さん、よくこんな暑い日に白衣なんて着れらますね」
「好きで着ているわけじゃないさ」
彼女は明智五月。私立探偵をしている。まだあどけなさが残るが、一応成人している。それでもこの職場のなかでは最も若いはずだ。このなかでは僕は唯一彼女とだけ職場以外でも付き合いがある。
僕と彼女の関係はどう説明したらいいのだろう。一応彼女は僕のことを非公式の助手か何かだと認識しているようだが。
「あとは双柳姉妹だけだな」
抜道さんが言う。双柳アリス。そして双柳イリス。僕等の同僚であり、双子の姉妹だ。本業は歌手――実際にはアイドルといったところだが、彼女等はそう言われるのを好まない――であり、美人双子ユニットとして世間的にも有名だ。
そんなことを考えていると獣の唸り声のようなエンジン音とともにクルーザーがこちらへやってくる。船着き場にぴったり寄せられたクルーザーからは件の美人姉妹、双柳アリスさんとイリスさんが降りてきた。うーん、いつ見ても見分けがつかない。
見分けがつかないのだが、僕の目にはどういうわけか、この美人姉妹の片方が時折とてつもなく魅力的な美女に映るのだ。普段はこの二人のことは美しいが、タイプではないなと思っているのだが。
なぜか時折アリスさんとイリスさんのどちらかをなんだかいつもより一層綺麗だなと感じてしまうときがある。それがアリスさんのときも、イリスさんのときもあるのだ。
こういう風に書くと移り気な男だと思われるかもしれないが、そもそもどちらがアリスさんであるかイリスさんであるかは僕にとっては本人に深刻されたままを信じるほかないので、実は彼女等は時折悪戯に入れ替わっていて、僕が時折美しいと思う方は同じ人物なのではないかとも思う。
そして今日の双柳アリスさんはとても美しかった。太陽の光が彼女の髪をまるで後光のように照らしている。照らされた髪はまるで黒水晶のように輝いていた。
ぼこん。どうやら僕は後から蹴られたらしい。背中の痛みに顔を歪ませながら振り向くと、そこには五月がいた。
「何するんだ」
「早く乗りなさいよ」
見てみると船着き場には僕と五月、アリスさんしか残っていない。どうやら皆続々と船内に乗り込んでおり、位置関係から考えると次は僕の番らしい。
僕は赤面しながらそそくさと船内に乗り込んだ。僕はまた自分の世界に浸ってしまっていたらしい。続いてアリスさんと五月が乗り込む。
「しかしどうしてアリスさんたちが迎えを?」
船が船着き場を発ってしばらくしてからのことだった。玉坂さんの質問にイリスが答える。
「私たちは一日早くカーマイクルさんの別荘のほうにお邪魔させていただいたんです」
「それは聞いていたさ。でもいつもならカーマイクルさんが自分でクルーザーを運転して僕等を迎えてくれるはずだろう」
「カーマイクルさんはどうしても本土で外せない仕事が舞い込んで来たらしく、今日一日戻ることにしたんだそうです。今日のうちには戻るとおっしゃっていましたが。ですから代わりに君たちに迎えを頼むと、朝書置きが残されていたのですわ」
なるほど。そう誰かが言った。
「しかしカーマイクルさんも大変ですな。せっかくのバカンス中に仕事だなんて」と登場さんが言う。そんなときだった。
「見えてきましたな」
土塁さんが目を細めながら言った。僕もそれにつられるようにして目を細めて前方を眺める。そこには小さな島があった。これが僕等の上司カーマイクルさんが父親から譲り受けた島、マイルズ島である。
僕等は今日を含めて4日間、例年通りこの島でバカンスを過ごすことになっていた。
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結局一日目は長旅の疲れを忘れるかのように皆で夜中まで推理小説談議にいそしんだ。カーマイクルさんが昨日のうちに作ったというローストビーフが絶品だったことはよく覚えている。
そう言えばまだ僕等がどういう集まりだったか説明していなかったかもしれない。たまたま同じ職場に集まったミステリ愛好家。ノンノン。僕たちは職業としてのミステリ愛好家である。
我々が暮らすノックス帝国では出版を予定している推理小説に対し政府の主導で検閲が入る。検閲の目的は読者である国民の論理的思考能力を高めるため、そしてフェアプレーを意識することによってより面白い推理小説を世に送り出すためだ。
その検閲者は国民のなかで作家や編集者以外でミステリを愛好している者から選ばれる。それが僕等11人なのだ。
本業の合間に出版予定のミステリを全て読むというのは決して楽な作業ではないが、僕はこの仕事にやりがいを感じているし、一愛好家としてこのような仕事をさせていただけうことをとても誇りに思っている。
そんなことを考えながら僕は眠りに落ちた。
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2日目の朝、僕は二日酔いで痛む頭を押さえながら広間へと向かう。広間では僕のほかに8人がいた。いないのは双柳姉妹だけか。昨日のうちに戻ることに成功していたとすればカーマイクルさんもいないことになる。
登場さんと玉坂さんはなぜか乾パンを食べていた。
「何してるんですか、2人とも」と僕は寝ぼけ眼をこすりながら尋ねる。
「腹が空いたんだよ」と玉坂さん。論理学者らしい簡潔な答だ。
そう言えば僕も腹が減った気がする。腕時計を見るともう午前11時を回っていた。道理で。
「食べ物はないんですか?」
「昨日あらかた食べてしまったみたいですな」と土塁さん。
「ないなら作ればいいじゃないですか。まさか材料もないってことはないでしょ」
「そうしたいのは山々だが、こちらの女性陣は料理が得意ではないようでね」と玉坂さん。
「料理は女の仕事だとでも。古い考えね」と雲然さん。それはまあその通りなのだろう。ちなみにそこから玉坂さんと雲然さんによるジェンダーについての議論が始まる。こっちは無視しよう。
「私箸より重いものは持ったことがありませんので。調理器具って多分箸より重いですよね」というのは趙さんだ。
そう言えば彼女はとてつもないお嬢様育ちだと聞いたことがある。だからと言って箸より重いものを持ったことがないのでは本すら持てないのではないか。
「そういうわけで双柳姉妹を待っているところなんだよ」と抜道さんが取りまとめてくれる。
「仕方ないわねえ。だったら私が作ってやるわよ」と五月が腕まくりしながら言う。
「いや、それだけはやめろ」
僕は全力で止めた。五月は不服そうに膨れている。
「まあそれなら双柳姉妹を呼んできたらいいんじゃないですか? どのみちせっかくのバカンスを昼まで寝て過ごすのはもったいない」
僕のその言葉に雲然さん、趙さん、五月の女性陣が彼女を呼びに行った。
しばらくすると趙さんだけが戻ってくる。
「皆さん、ちょっと来てもらってよろしいですか。何度呼んでもアリスさんもイリスさんも返事がなくて。鍵も閉まっているんです。寝ているだけだとは思うんですけど」
僕等はぞろぞろと双柳姉妹の部屋の前まで歩いていった。そういえば彼女等は同じ部屋に泊まっているんだなと今更ながら思う。例年はどうだっただろうか。
抜道さんがその太い腕でドアを思い切り叩きながら、結構な声量で何度か呼び掛ける。返事はなかった。今思えばこのあとの行動はやり過ぎな気もするが、推理小説愛好家である僕たちはこの時点で何か嫌な予感を覚えていたのだと思う。
体格に優れた抜道さんと登場さんが2人がかりでドアに体当たりをする。5度ほどぶつかったところで木製のドアはなんとか壊れた。
ドアの向こうの景色が目に入る。アリスさんとイリスさんは背もたれつきの椅子に並ぶように座っていた。その陶器のような白い肌にはピンク色の袢纏が浮かんでいる。一目見て生気がないことがわかった。
恐ろしいような静寂がどれぐらい続いただろうか。そんななか趙さんの悲鳴が屋敷内にこだました。