月影のいたらぬ里
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かつ見れば 疎くもあるかな 月影の いたらぬ里も あらじと思へば
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『古今和歌集』巻十七・八八〇 紀貫之
夜が急に冷たくなった。
僕の身を震わせる澄んだ空気は、冴え冴えとした十五夜の光を波立たせ、静まりかえった住宅街の中で誰かがたてた、微かな音を響かせる。
僕は影を選んで歩む。
電柱の影、塀の影、木々の影。身を被う黒を溶け込ませ、目立たぬように、見つからぬように。青く静かな夜を煌々と照らす月華を避けて、いつものように闇に潜む。
夜の彷徨は常のこと。慣れた道は、今夜も無言で僕を迎えた。
誰にも咎められるものではないはずだけれど、彼女はすぐに僕を閉じ込めようとする。
今夜も、逃がさぬようにと抱きしめられて、仕方なく僕は身を任せる。彼女の鼓動を身体全体で感じ、布団に入る。やがて聞こえる静かな寝息が顔にかかり、僕は厚さを増した羽毛布団の隙間からそっと抜け出した。音を立てぬように静かに扉を開け、その身を滑らせて外に出る。
虫の音も弱まる深夜。月は中天を過ぎて西に傾きはじめ、僕を隠す家々の影は夜の闇に同化する。足下にわずかにできる影は、僕の身の色よりも淡く弱く、おぼろにかすれてアスファルトに滲む。
僕は静かに路地をさまよう。響かぬはずの足音を追って、月影はどこまでもついてくる。やや満たされない丸い姿は、影をにじませ僕を追いかける。
いつでも、見ている。
遠く、手の届かない空の彼方から、それでもいつも僕を見ている。
いつも孤独にさすらう僕に寄り添ってくれるけれど、それでも決して届かない。
冷たく冴える光は、彼女のように僕を温めてはくれやしない。
それでも僕は、月明かりの海の中、小舟のように漂い歩く。
彼女が僕を本当に閉じ込めておきたいのならば。
簡単なことだ。鍵をかけて、檻に入れてしまえばいい。
だけど彼女はそうしない。
僕が、僕の生来の気質が、その本能が。
彼女の側に、ただずっと留まることを許さないことを知っているから。
だから彼女は、腕の中に閉じ込める。
鍵のついた檻ではなくて、柔らかい温もりという束縛の中に。
月は僕を誘う。
満ちて欠け、影を生み出し、僕を隠す。僕がどこに向かっても、僕をずっと追ってくる。
月は僕から逃げる。
塀の上、屋根の上、木の梢。僕がどこに登っても、僕の手の中には落ちてこない。
月は僕についてくる。
彼女の元に帰ろうとする、僕の後ろを追ってくる。
夜に誘われる僕。
引き留めず、帰りを待つ彼女。
僕を誘い、寄り添い、逃げて、追ってくる月。
奇妙な追いかけっこは、毎夜続く。
抗いがたい本能のままに誘われて、それでも僕は彼女の元に帰る。
少し冷えた布団に登り、微かに上下する彼女の胸元に寄り添い、その心地よい温もりで夜に凍えた身を温め直す。僕は尾をまとめて身を丸め、夜露に濡れた毛が彼女を冷やさぬように、身をつくろいながら目を閉じる。自分の胸元にかかる僕の重さに気付いた彼女が、無意識のままに布団の中に僕を連れ込む。ヒゲが彼女の頬をかすめ、くすぐった。
やがてくる朝。温もりに誘惑される彼女を、今度は僕が引き留める。
喉を鳴らし、尾を揺らし。優しくまとわりついて、互いの温もりの中でまどろむのだ。
無粋な目覚まし時計が鳴る時までは。
暖かな陽がさす窓辺。ニャア、とひと声鳴いて、僕は手を振る彼女を見送る。
誰も居ない部屋で、僕は待つ。
月のように、彼女を追ったりしない。
僕のために開けられた小さな扉をくぐって、外に出ることはない。
うららかな陽光の誘いも、外を行く子供たちや犬たちの誘いも、僕は無視して窓辺に眠る。
僕が外に出ていくのは、彼女が部屋で僕を待っているから。
抗いがたい夜行性の本能が、どうしても僕を夜に誘うけれど、昼の光は僕を彼女の居ない部屋に閉じ込める。
暖かい日差しは、彼女の温もりの代わり。
部屋の中で彼女を思い、僕だけの彼女を待ち続ける。
首についた赤い輪は、彼女が僕をとらえた証。
柔らかい束縛の枷は、僕が彼女に寄り添う証。
首から下がる、金色の飾りは満月。
刻まれた、僕の名前と彼女の名前。
僕たちの絆。僕だけの月。
かつ見れど 疎くもあるかな 月影の
いたらぬ里も あらじと思へば
誰にでもその光を照らして誘い、誰をも追う天空の月ではなくて。
僕だけを照らしてくれる、彼女が僕の月。
手に届く、僕の月。
■黒井羊太様[ID:707336]主催の【ヤオヨロズ企画】への参加作品です。
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■2017.11.08追記■
以下、石川翠様[ID:730658]より頂戴したレビューです。あまりに素敵すぎたため、ご本人の許可を得まして『後書き』にも転記させていただきました。
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『この関係は、いつだって彼の方が一枚上手』
私はいつだって待つことしかできない。彼はとても自由だから。ずっと一緒にいたいと縛りつけたとしても、するりと器用にこの腕から逃げ出してしまう。
愛しくて大切だから側にいたいと願うのはいけないことかしら。もしかしたら私以外の女にその体を自由にさせているかもしれないと思うと、私は嫉妬で胸がきりきり痛むというのに。これくらいの独占欲、認められても良いと思うの。
そんな私を見て、彼はさも愉快そうにくつくつと喉を鳴らすだけだ。怒るなよと言わんばかりに、そっと頬を寄せられれば、簡単に私は誤魔化されてしまう。まったくもう、私の心は彼に届いているのかしら。
ほら今日も気がついてみれば、ベッドの隣には隙間ができている。寂しくて、離れたくなくて、確かにぎゅっと抱きしめて眠りについたはずなのに。
月の綺麗な夜、彼は一体どこをほっつき歩いているのかしら。悔しいけれど、その姿は見惚れるくらい絵になるのだろう。
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以下、作者後書き。
十五夜の月に惑わされて、突然お話が舞い降りてきました。
自分の中では『飼い猫』はこんなイメージです。
「猫」という“生き物”を題材にするのは、「擬人化」という企画の趣旨に当てはまるかどうか最後まで悩みました。そもそも「擬人」していない気がします。
単なる雰囲気小説ですが、お楽しみいただければ幸いです。
ヤオヨロズの一柱に、どうぞ赤い首輪の黒ニャンコを加えてやって下さいませ(^-^)
■2017.10.21追記■
感想欄でのアイディアを頂戴し、一部表記を修正しました。堀→屋根→梢にしました。