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地雷  作者: 秋山貴志
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#07 シーソーに乗る二人

 警察署の一室。

 普段は会議室として使われている部屋で、パイプ椅子に腰かけた蒼汰は女性警官に髪を乾かしてもらっていた。柔らかいタオルと、温かい彼女の手が頭に触れ、その心地良さに蒼汰は少し気恥ずかしくなっていた。

「……自分でできます」

「いいの。私がやってあげる」

 それ以上、蒼汰は女性警官に逆らおうとはしなかった。

 彼女は吉田真理子と名乗り「私にも小学生の息子がいるの」と、その手つきに蒼汰は納得した。そして、彼女の息子を羨ましくも思った。

 しばらくすると先ほどの公園で会った男性警官が、紙コップに入ったココアを片手に入ってくる。彼は「これ飲みな。暖まるよ」と蒼汰の前に置く。彼は原田と名乗り、生活安全課の刑事だということだった。

トーンは違うが、この男の声に蒼汰は聞き覚えがあった。

八代のアパートに来たのも彼だったのだろう。

 原田は蒼汰の前に座ると、頬杖をついたまま蒼汰を見ていた。

 ちらりとそちらを見た蒼汰は、原田の妙な表情に気付く。口元は子供を安心させようとしている大人の笑みを浮かべているが、その目はどこか悲哀を帯びているように見えた。

 そして、彼はゆっくりと口を開いた。

「ええと……蒼汰くん。八代って男から少し事情は聞いたよ」

 蒼汰は八代のことを呼び捨てにする彼に、少し嫌悪感を覚え、目を背けた。

「君は昨夜、家出して公園にいたところを八代の家に連れて行かれた」

「助けてくれたんです……」

「ああ……そうだね」

 言葉を選ぶ必要があったなと、ゆっくり頷きながら原田はパイプ椅子の背もたれに身を預けた。そして考え込むようにして腕を組むと、「彼が何をしたのかは理解してるかな?」と言った。

 蒼汰はアパートを出るときに八代が言っていたことを思い出す。おそらく自分は無理矢理アパートへ連れ込まれたと警察は誤解しているのだろう。

「刑事さんは勘違いしてる……八代さんは、ぼくを助けてくれたんだ。父さんがぼくを殺すかもしれないって気付いて、泊めてくれたんだ。八代さんは何も悪いことはしていない」

「うーん、君がそう思いたいのはわかるんだけど……」

「あの人は悪くない!」

 蒼汰の大声に、真理子は髪を拭いていた手を止めた。

 原田刑事は溜息をつくと、目を伏せた。

「君に、伝えなければならないことがあるんだ」

 彼はぽつりとそう言った。

 蒼汰とは目を合わせようとしない。

 合わせないようにしているのか、合わせられないのか。

 さきほどからの過敏な態度をした蒼汰に、どう伝えれば良いか考えを巡らせている原田刑事は、意を決したように前のめりになる。それを覚ったのか、真理子の手は蒼汰を抱きしめるようにして腕をまわしていた。

「実はね……君のお父さんは、亡くなったんだ」

 時が止まったようだった。

 亡くなった?

 死んだ?

 あの男は死んだのか?

 動かなくなった彩奈の姿がフラッシュバックする。

 次に悪魔のような父親の姿が浮かんだ。

 だが、その顔は不思議とよく思い出せなかった。

 黒い筆で掻き消されたように、うまく思い出せない。

 暗い部屋の中で、自分と彩奈を見下ろす黒い影は、まるで亡霊のように思えた。

 あれが、もういなくなったのか。

「君の家族の噂は色々と聞いているよ」

 蒼汰の心情を窺いながら、原田刑事は続ける。

「君の父親が、君たち兄妹に虐待しているのではないかという噂は近隣の住民から情報を得ていたんだ。だから妹の彩奈ちゃんが失踪したと聞いて、我々は君の父親を疑っていたんだがね……もしかすると殺したのかもしれないって。君のお父さんは車などの移動手段をもっていなかったから、死体を遺棄するとすれば家の周りだと考えていたんだが、何しろゴミだらけでね……死体が腐食すれば腐臭がすんだけど、ゴミの臭いでそれもわからなかったし……」

「原田さん」

 真理子が、顔をしかめて首を横に振った。

 そのときようやく相手が子供だという事を原田は思い出す。妹の死体が腐食などと口にするべきではなかったと反省する。しかし、彼らの心配とは裏腹に、蒼汰の耳には原田刑事の話などほとんど入っていなかった。

 父親がこの世からいなくなったこの世界を、どう受け止めてよいものか呆然としていた。

 当然、生きていて欲しいなどと思ったことはない。

 それよりも、誰よりも、あれが死ぬことを望んでいた。

 自分たちの前から消えてなくなることを願い続けていた。

 そして今、それが現実となった。

 目に見えない鎖でつながれた呪縛から、ようやく解放されたこの身が、なぜかとても小さく孤独に、そしてどこかに埋まってしまうような気がした。

「あの、それでね、蒼汰くん」

 蒼汰の顔を覗き込むようにして原田が声をかけると、彼はようやく現実世界に戻ってきたかのようにぼんやりと視線を返した。

「君の家を他の刑事さんが調べていたんだけど、床下から彩奈ちゃんが……見つかったんだ。その……彩奈ちゃんはお父さんが殺してしまったんだろう……?」

 蒼汰はゆっくりと頷く。

「そうか。やっぱりそうだったか。それで床下に埋めたんだね」

 それについて、蒼汰はどう答えるべきかわからなかった。

 彩奈の顔にかけたハンカチが、父親のかける土に埋もれていく様を思い出す。

「大丈夫?」

 真理子の手が、蒼汰の頬に触れた。

 温かいのは彼女の手と、流れた自分の涙だった。

「それで……そのお父さんが亡くなったという件なんだが……我々は、君を匿っていた八代が殺したんだと思っているんだ。まだ、本人の自供は取れてないけどね」

 蒼汰は、はっと顔を上げると「そんな……」と声を上げる。

 もしやとは思ったが、それを否定できるほどの自信もなかった。雨合羽に付着していた血を思い出したからだ。

 土砂降りの中、アパートのドアを開けた時の彼の顔を思い出す。

 蒼汰は思った。

 あの人は、ぼくが寝ている間に父さんを殺しに行ったんだ。



「失礼します……」

 会議室のドアを恐る恐る開けたのは、八代の元同僚である吉田香織だった。

 真理子は立ち上がると、彼女を中へ通す。

「原田さん、妹の香織です。実は偶然にも八代と同じ医療センターで働いていまして」

「ああ、話はさっき聞きました。お忙しいところわざわざお越し頂いてすみません」

 原田刑事は恐縮そうに香織に椅子を勧める。

 香織は挨拶もそこそこに腰を下ろした。

 反対側に座る蒼汰と目が合うと、彼女は伏し目がちに会釈をする。

「それで、さっそくなんですが、八代の容体はどうです?」

 その言葉を聞き、蒼汰は香織に目を向けた。

 容体?

 香織は一瞬、蒼汰に目を合わせるものの、すぐに原田の方へ視線を戻した。

「はい……それが、激しく衰弱してまして……」

 衰弱という言葉に、シンクに血を吐いていたのを思い出す。

 食事はほとんど食べていなかった。

 よくある病気?

 彼はそう言った。

「……さきほど、亡くなりました」

 え?

 亡くなった。

 死んだ。

 いなくなった。

 動かなくなった。

 話すこともできない。

 もう、いない。

 どこにも、いない。

 あのときに会った、あの人は。

 どこにも。

 そういうことなのか?

 また彩奈の姿が脳裏をかすめる。

 触れても冷たく、動かない。

 笑わない。

 そこにはいない。

 入れ物だけになった。

 文字通り魂の抜けただけの躯。

 死ぬという事。

 誰かの為に、死にたい。

 今は、お前の為に。

 八代が最後に言った言葉を思い出す。

 彼の顔が、寂しそうに笑った顔を思い出す。

 一緒にいたのはほんの数時間かだけだったはずなのに、彼の顔はすぐに思い出せた。

 公園で彼を待っているとき、少しの間、思い描いていた未来。

 そこには八代と暮らす自分がいた。

 自分は学校へ行き、普通の子供と同じように勉強をして、ご飯を食べて、遊びに行って、家に帰ると八代がご飯を一緒に食べてくれる。

 まるで兄弟のように。

 親子のように。

 髪をくしゃくしゃにして頭を撫でてくれる八代の手の感触。

「なん……で……」

 息が苦しくて、言葉がうまく出ない。

 理由が知りたかった。

 真理子は思わず蒼汰を抱き寄せる。

 砂のように溶けていく。

 自分の中身が、空洞になっていくようだった。

「私も知らなかったんです……」

 涙ぐみながら、香織は話し始めた。

「八代さんは……癌で余命宣告を受けていたんです。でも、周りには知られない様にしていたみたいで、ひっそりと死を受け入れることを考えていたと担当の先生は言ってました。だからセンターを退職して、治療の為にホスピスへ入所することを決めていたそうです。本当はもっと早くに入所する予定だったみたいですけど、お母さまが急に亡くなられてしまったり、身の回りの整理なんかで遅くなってたみたいで……」

「そう……ですか」

 原田刑事は溜息をひとつついただけで、そのまま黙ってしまった。

「もともと末期だったのに、最後の最後で無理をし続けていたんでしょうね……パトカーで連行中に吐血したんでしょう? センターに運ばれてきたときには、もうどうしようもない状態でした。それで……八代さん、最後にこれを蒼汰くんに渡してくれって」

 香織が蒼汰の目の前に置いたのは、茶封筒がひとつ。

 真理子が代わりに中身を出してみると、そこには通帳と判子、そして二枚の紙が二つ折りにして入っていた。

「これ、何なの?」

 真理子が香織を見る。

 ハンカチで目頭を押さえたまま、顔を上げない香織に、真理子はメモ紙を一枚広げた。

 そして、その内容に目をむく。

「これって……もしかして遺言書なの?」

 紙はどこにでもありそうなコピー紙だが、内容を見ればそれは遺言書として受け取れる。内容は至って簡単であるが、本人直筆で判子と拇印、日付の記載まできちんとしてある。

「八代さん、自分の全財産を蒼汰くんに譲り渡すって……でも蒼汰くんはまったくの第三者なのに、本人の意思とは言っても、こんなこと可能なんでしょうか?」

「たぶん、可能だろうな」

 原田刑事は腕組みをしながら言った。

「そいつは遺言でも特別方式で、しかも包括遺贈ってことになる。ええっと、香織さん。八代がこれを書いたときには誰が立ち会ってました?」

「私と……医師の先生と看護師、それと付添っていた刑事さんが一人の四人です」

「だったら成立するだろうね。伝染病なんかで隔離されている場合でも、警官が一名と証人が一名以上の立ち会いがあれば、遺言書としては成立すると聞いたことがある。八代は医療センターに長く勤めていたというから、そういう知識もあったんだろう」

「じゃあ、八代って人は蒼汰くんのために殺人まで犯して、それに財産を……?」

 真理子の問いには、誰も答えなかった。

 答えなくとも、それ以外に理由がない。

 法律の知識などない蒼汰自身も、彼の名前の入った通帳と判子が入っていることで、彼がどうしたかったかということは理解できた。

 紙は、もう一枚残っている。

 蒼汰は手を伸ばした。

 広げて見た瞬間、公園で彼に出会ったときのことが鮮明に甦る。

 裸足のまま家から駆けだしてきた蒼汰は、足の裏の痛みと寒さでもう歩くこともままならなかった。

 まるで見えない地雷で、足がもがれたように。

 感覚はなくっていた。

 彼をおぶってくれた八代の背中。

 まるで宙に浮いたような心地良さ。

 それまで蒼汰の目の前に広がっていた地雷原を、彼が代わりに歩いてくれた気がした。

 蒼汰が望んでいた地まで。

 自分の命と引き換えに。

 蒼汰の目からこぼれ落ちた涙が、広げた紙を叩いた。

 最後の力を振り絞って書いたのか、乱れつつも想い込められた字。


〝誰かの為に死ぬのではなく、誰かの為に生きろ〟


「うっ……ううっ!」

 声にならない嗚咽。

 紙に顔を押し付けた蒼汰。

 その字から、八代の温もりを感じ取ろうとしているかのように。

 まるで、彼の胸で泣いているかのように。





― 完 ―


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