#05 背中合わせの視線
蒼汰が目を覚ましたのは雨の音だった。
何かが落ちる音。
しばらくして、今度はドアに何かがぶつかるような音がしたので、思わず蒼汰は身を起こした。
やがてドアノブに鍵が差し込まれる音がすると、真っ黒な雨合羽を着た八代が入ってきた。合羽のズボンには泥の跡があることから、さきほどの音は彼が転んだ音なのだろうと蒼汰は思った。
彼は手にしているコンビニの袋を持ち替えると、後ろ手でドアを閉める。
「お、起きたな。外は土砂降りで買い物するのも一苦労だよ」
八代は顔をしかめながらそう言った。
彼の言葉通り、ドアの隙間から見えた外の様子は、滝のような雨だった。
雨合羽を脱ぎながら八代は「腹減ってるだろ? 飯買ってきたから食べよう」と、蒼汰の目の前に袋を置く。中から取り出したのは、四つのおにぎりと、二人分のおでん。
蒼汰の鼻孔をその匂いがくすぐると、同時に腹の虫も鳴きだす。
それが聞こえたのか、笑みを浮かべながら八代は急須に茶葉を入れ、二人分の緑茶を用意した。
すでに完成済みの食卓ではあるが、蒼汰にすればご馳走に思えた。いつも口にするものは量も少なく、回数も少ない。味など論外だった。近所のパン屋で店主が何も言わずにくれる食パンの耳と売れ残り、そして同じく近所のコンビニでたまに出会う金髪の店員が、目が合うと唇に人差し指を当て、手渡してくれる処分品だけが頼りだった。
今、目の前にあるのは温かく、米も乾いていない。
八代に勧められるまま、おにぎりにかぶりつき、おでんの汁を啜る。
温まったのは体だけではない気がした。
「なあ、蒼汰」
八代は蒼汰が食べるのを見守っているだけで、口にはしていなかった。
蒼汰が箸を止め、八代の方を見る。
煙草を吸おうとしているのか、箱から取り出した一本を手の上で弄んでいた。
「お前はこれからどうしたい? もう父親のところへは帰る気はないんだろ?」
「帰りたくない」
「ああ、親戚とか近くにいないのか?」
「知らない。会ったこともない」
「そうか……」
何度か小さく頷くと、八代は立ち上がり、換気扇の下で煙草に火をつけた。
「お前……将来の夢とかあるの? 地雷撤去活動以外に」
「夢?」
「そう。お前くらいの年ならいろいろとあるんじゃないかなって思ってさ。ほら、サッカー選手とか野球選手とか……まあ最近の子はしっかりしてるから、公務員とか目指してんのかね。学校の友達とかとそういう話をしたりしないか?」
「学校はほとんど行ってない」
「……いつから?」
「二年からほとんど行ってない。給食費も教材費も払ってないから」
「そっか……」
くだらない質問をしたことに八代は後悔した。
雨で少し濡れてしまった前髪をつまんでみる。
「許されるなら……」
蒼汰がぽつりと言った。
「え?」
「ぼくが何をしても許されるなら、誰かのためになれる人になりたい……そんな大人になりたい。ちゃんと仕事をして、いろんな人を守れる人になりたい。そのために死ねるのなら、そうしたい」
「そうか……」
雨が窓ガラスを叩く。
張り付いた雫はやがて幾重にもつながり、大きな水滴となって一番下に到達する。
人の想いもまた、様々な人の想いを連ねて流れゆくのか。
その人生が終わる瞬間まで。
ドアのノックが聞こえた。
「すみません。八代さん、いらっしゃいますか?」
男の声だ。
一瞬、蒼汰の身が縮んだのに気付いたが、彼の父親であるはずがない。
八代は灰皿に煙草を押し付けると、ドア越しに「どちら様?」と言った。
「警察です」
八代が振り向くと、蒼汰も腰を半分浮かしていた。
さきほど着ていた雨合羽を掴み、蒼汰へ手渡すと、八代は裏口へ彼を連れていく。
ドアの向こうからは「ちょっとお聞きしたいことがありますので、開けてもらえますかー?」と、さきほどの声が続けていた。
蒼汰に雨合羽を着せてやるが、サイズが大きいので上着だけで全身を覆うにはちょうどよかった。そして小声で八代は言う。
「よく聞け。俺がお前をここにおいていることがわかったら、俺は警察に捕まることになる。だからとりあえず、お前は逃げろ。昨日会ったあの公園で待っててくれ。警察との話が終わったら迎えに行ってやるから」
「うん……大丈夫なの?」
「大丈夫だ。別にお前が心配することじゃない」
「でも、ぼくがいるから捕まるんでしょ?」
「だが俺は悪いことをしたとは思ってない」
「でも、捕まるんでしょ? 悪いことをしてなくても」
八代は一瞬、詰まった。
ドアのノックが、さっきよりも大きく鳴る。同時に「八代さーん、開けてくれないと無理矢理開けますよ」と脅しにも似た声が聞こえる。
「いいから行け!」
「でも……」
「蒼汰!」
八代は蒼汰の両肩を掴む。
すると、蒼汰はその八代の袖を掴んだ。
だが、八代はその手を強引に引きははがす。
蒼汰の軽い体は、少しの振動でも人形のように大きく揺さぶられる。
「公園で待ってろ。一人で行くんだ。お前はなら……大丈夫だ」
「でも……」
八代は、ぐずぐずしている蒼汰を追い出すようにして、裏口の戸を開けた。
横殴りの雨は、蒼汰が来た雨合羽を容赦なく叩く。
「お前、さっき誰かのためになる人になりたいって言っていたよな? いろんな人を守れる人になりたいって」
「……うん」
「俺も、お前と同じ気持ちだ」
「同じ?」
「誰かのために生きたい。今はお前のために」
そう言って八代は戸を閉める。
閉まる瞬間、八代が笑っているのを蒼汰は見た。
意を決したように一歩踏み出した。
まるで責められているように叩きつけられる雨の中、蒼汰は走った。
表通りからは死角となっていて、裏口からでは警察の目は届かないようだった。それでも蒼汰は辺りを注意しながら、公園へ向かう。
咄嗟に履いたサンダルは大きく、すでにずぶ濡れだった。
雨が冷たい。
でも、我慢ができないほどの冷たさではなかった。
雨合羽はなんだか少し暖かい気がした。
八代の温もりに思えた。
強風に煽られ、頭からフードが外れると、たちまち蒼汰の髪は大きな雨粒に叩かれる。
急いでフードを被りなおすと、手に妙な感触があった。
雨合羽が黒かったので気づかなかった。
蒼汰は立ち止まり、両手を見る。
そこには、鉄臭く、べったりとした赤い液体が雨に混ざり、赤い雫となって手の平から零れ落ちていた。




