#02 斑(まだら)
いつ取り壊されてもおかしくないほど古びたアパート。
玄関のドアに取り付けられたシリンダー錠は半世紀前の代物で、およそセキュリテイなど縁のない構造だ。唯一防犯になるといえば、解錠するときにはコツがいるという程度だろう。そもそも、こんなアパートに入る泥棒もいないだろうが。
八代は蒼汰を抱えたまま鍵を開け、部屋の中に入る。
部屋の電気をつけると、四畳半の狭苦しい畳の部屋が浮かび上がった。
万年床を囲うようにして段ボールの山が積まれている。
「大丈夫か?」
少し前から、蒼汰は彼の首にしがみつくようにしていた。
それが寒さのためか、心を許したのかはわからなかった。
八代はとりあえず畳の上に蒼汰を座らせると、彼の前に座り顔を覗き込む。
硬い表情はそのままだ。
だが見ず知らずの男の部屋に連れてこられても、動揺はしていないように見える。
「……ひとりなの?」
ちらっと周囲を見回し、蒼汰はそう言った。
「ああ、ずっとおふくろと二人暮らしだったんだが、半年前に亡くなったんだ。それからは独り暮らしだ。散らかってて悪いけど」
「うちよりは綺麗だ」
ごみ屋敷に住んでいる彼にとってはそうなのかもしれない。
蒼汰はそれだけ言うと、また体育座りになって黙っていた。
今更ながら、なんで彼を家まで連れてきてしまったのかと八代は少し後悔した。彼の身を案じて、というのはもちろんなのだが、世間ではこの行為を未成年者略取誘拐と呼ぶことは八代も知っている。
ただ、あのまま放っておくことができなかった。
それだけだった。
「とりあえず、何か食べるか? あ……それより風呂入ってこいよ。お前、少し臭いぞ。ちゃんと風呂入ってないんだろ?」
蒼汰は頷く。
ここにきてようやく気付いたが、彼からはホームレスのような臭いがした。
あのごみ屋敷では風呂がまともに入れるような環境かどうかも怪しい。八代はユニットバスへ彼を案内すると「一人で入れるよな?」と確認した。小学校四年生がどれだけ自分のことをできるか彼にはわからなかったからだ。もしかすると、髪くらいは洗ってやらないといけないのかと思っていたが「大丈夫」と蒼汰は言い、浴室のドアを閉める。
シャワーの音が聞こえてくると、八代はようやく安堵し、煙草を取り出した。
木製のちゃぶ台の上に腰かけると、煙草に火をつけ、溢れそうな吸い殻で満たされた灰皿に灰を落とした。
大きく煙を吐き出す。
やはり少し寒いな、とエアコンをつけた。
浴室にいる蒼汰を気にかけながら、灰皿を持ち上げると、キッチンにある換気扇の下で吸うことにした。さすがに子供の前で吸うのは非常識だと思ったからだ。煙草が短くなるころ、彼の着替えを用意していないことに気づく。
慣れないことはするものじゃないな、と頭を掻いた。
八代は煙草を灰皿に押し付けると、積み上げられた段ボール箱の山から〝処分〟と殴り書きされたものを引きずり出す。母親が亡くなったあと、少しずつ部屋を片付けているときに見つけた、八代が子供のときに着ていた服だ。母親は物を捨てられない性格で、こんなに狭い部屋にもかかわらず、いまだにタンスの奥に仕舞ってあったものだ。
もしかすると八代が結婚でもして子供ができたときのために大切にしてあったのかもしれない。
もしそうだとすれば、彼女の夢を叶えられなかった自分に不甲斐なさを感じる。
だが、今はそれが役立った。
せめてこれで帳消しにしてもらえないかと、天国の母を想った。
浴室のドアが開く音がする。
蒼汰は裸を見られるのが恥ずかしいのか、顔だけを半分覗かせていた。
「ああ、悪い。タオルはそこに置いてあるの使ってくれ。服は俺のお古で悪いけど、こいつを着ろよ」
浴室の側に置いてある洗濯機の上に服を置こうとすると、浴室に近づくにつれ、蒼汰は浴室のドアに隠れようとする。俺はそういう趣味はないんだけどな、と思いながら苦笑いする。だが、ちらりと彼の腕を見たとき、隠れた意味が分かった。
肩から腕と胸にかけての斑模様。
その他もおそらく、全身、痣だらけだ。
もちろんドアの隙間から見えた程度だが、かなりひどい。
思わず目を背けた。
白い肌と、青紫になった肌のどちらの割合が多いか。
そんな有様に、少し眩暈がした。
彼に背を向けて、また換気扇の下に戻る。
煙草に火をつける手が少し震えていた。
どんな父親だ。
八代は怒りを覚えた。
自分の子供に、何故あんなことができる?
怒りのあまり、目の前が揺れる。
頭の中をハンマーで殴られているかのような頭痛、そして吐き気を催し、八代は思わずシンクに顔を突っ込んだ。涙目になりながら水道の蛇口をひねると、煙草と吐き出したものを排水溝へ流す。そういえば昨日からろくに食事をしていないのを思い出した。胃液に混じった血が忌々しく、蛇口を全開にする。
ようやく呼吸が落ち着いたところで振り向くと、そこには蒼汰が立っていた。
八代がよく着ていた、紺色のパーカーと灰色のカーゴパンツ。サイドポケットは大きめに作られているので、よくミニ四駆とか入れて遊びに行ってたなと思い出す。
「病気なの?」
八代の様子を見ていたのか、彼はぽつりとそう言った。
「まあ、そうかな。神経性胃炎ってやつだ。社会に出れば誰でも一度は経験する病気だ。ストレスを溜め込みすぎると、胃を悪くする」
蒼汰は何度か目を瞬かせるだけで、内容を理解したかはわからなかった。
大人はそういうものなのかと納得したのかもしれない。
「……腹が減ったな。コンビニで何か買ってくるよ。何が食べたい?」
「別に、何でも」
およそ子供らしくない返答を受けた八代は、「わかった」とだけ言って彼の頭を撫でる。猫の毛のような細い髪。触れた瞬間に、微かに体がこわばったのがわかった。
ちゃぶ台の上にあったテレビのリモコンを拾い上げ、テレビの電源を入れる。
今となっては骨董品のブラウン管テレビだが、専用ブースターのお蔭で少しは延命処置ができている。画質は酷いが、場を保つ程度の機能はある。
「テレビでも見てな。アニメでもやってるだろ」
少ないチャンネルを適当に変えていると、ちょうどアニメをやっていた。
努力と情熱を語る少年アニメだ。
見たことはないが、とりあえずこれでいいだろう。
蒼汰は突っ立ったままだが、無理に座らせるわけにもいかない。
八代は「行ってくる」とだけ言って、部屋を出た。
家の近くにコンビニがあるというのは、ある意味一人暮らしの人間を堕落させる。八代も漏れなくその中に入っていた。自炊をしなくても、安定した供給を得られる。同じメニューで同じ味、感動はないが裏切られることのない食卓だ。
蒼汰にはオムライスがいいだろうと考えたが、万が一の事を考え、焼肉弁当も買っていく。八代はどちらでも食べられる。
胃の調子を考えたが、食欲がないわけではない。
とりあえず選択肢は少なくても、子供ならどちらも大好物だろうという八代の乏しい育児情報から判断したものだった。
コンビニの袋がいつもよりも大きい。
話をしたことはないが、いつも応対してくれるコンビニ店員に、割り箸を二善ほしいと言ったときの彼の表情は少しおかしかった。おそらく彼の笑みから察するに、女を連れ込んできたのだと思ったに違いない。
その場合、八代は焼肉弁当で、彼女はオムライスという構図だ。
そんなことを考えていると、少しおかしくなった。
アパートに帰り着くと、部屋に明かりが点いているのを確認する。
部屋には蒼汰がいるし、自分が点けっぱなしにしてきたのだから当たり前だが、母親が亡くなってからというもの久々の感覚だった。
ドアを開けると、蒼汰はテレビを凝視したまま、また体育座りをしている。
ちゃぶ台にコンビニの袋を置くと、彼の目がそちらに移る。
やはり腹が減っていたのだろう。
「オムライスと焼肉弁当、どっちがいい?」
また、どちらでもいいと言うのかと思ったが、「オムライス」と彼は主張する。
予想通りとは思ったが、彼の子供らしさを垣間見て八代も少し安心した。
「じゃあ、食べるか」
蒼汰は頷くと、勢いよく食べ始めた。
我慢できなかったように、口の中に流し込む。
「おい……大丈夫か?」
頷くだけで、彼は食べる手を止めない。
ろくなものを食べていなかったのだろう。
自分の行動は犯罪めいているものの、間違いではなかったと八代は思った。
そして彼も焼肉弁当を少しずつ食べ始める。
テレビはCMが終わり、特集番組をやっていた。
カンボジアで地雷撤去活動をしているNGO団体を取材したドキュメンタリーのようだ。番組の冒頭ですでに悲惨な情景が映し出されたので、八代は番組を変えようとリモコンを持った時だった。
「……なんで、地雷って埋められたの?」
それまでオムライスにしか見ていなかった彼が手を止めて言った。
彼の目には、足を吹き飛ばされた少年の映像が映っている。
まさか、そんな話題に食いつくとは思ってみなかった。
「ああ……地雷ってやつは戦争で……まあ、相手の国の国民にダメージを与えるために使われてる兵器だ」
「兵隊じゃなくて、普通の人に?」
「そう。民間人に対して」
「なんで?」
「少し難しい話になるかもしれないが……国民にダメージを与えれば、それ以上に兵隊が増えることもないし、治療や介護のために国が国民に援助をしなければいけなくなると、財政的にもダメージを与えることができる……そんなとこかな。卑怯なもんだが」
「戦争で戦うのは兵隊だけじゃないの?」
「戦うのは兵士でも、被害を受けるのは民間人だったりする」
「……普通の人は、何も悪いことをしてないのに?」
八代の手が止まる。
どう答えるべきか、思案していた。
焼肉のタレと混ざり合ったご飯をかき回しながら、彼が何故こんなにも食いついてくるのかを考えた。
「……罪のある人だけが、必ず罰を受けるほど、世界は素直じゃないよ。悪いことをしていなくても、人間は嫌な目にあったり、死んだりする」
子供に話す内容じゃないな。
八代はそう思ったが、言葉が見つからなかった。
蒼汰は何か思いを巡らせているような目をしながら、残りのオムライスを口の中に押し込んだ。膨れた頬が徐々に元通りになるのを八代が眺めていると、蒼汰はふいと彼の方を見る。
「彩奈は悪いことをしたって、父さんが言ってたんだ」
脈絡もなく、彼は妹の話題を出してきた。
「……悪い事?」
「うん」
「何か、お父さんに怒られるようなことをしたの?」
「わからない。父さんはいつも怒ってる」
「なあ、蒼汰……」
八代は彼に向き直ると、気になっていたことを口にした。
「お前、彩奈ちゃんの居場所……知ってるのか?」
蒼汰は少し目を背ける。
噂が本当だとすれば、警察に届けるべきだと考えていた。
蒼汰が小さく言った。
「彩奈は、ぼくが埋めた」




