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地雷  作者: 秋山貴志
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#01 冷たい裸足

「八代さん、辞めるってホントですか?」

 そう言って八代圭を呼び止めたのは、この医療センターで働く吉田香織というナースだった。事務室から廊下へ出てきた八代は、私物を詰め込んだ段ボール箱を抱えていた。

「ええ。お世話になりました」

 彼はそう言って、軽く会釈をする。

 吉田は何か言いたそうにしているが、口を開いただけでなかなか言葉が出てこないようだった。

 彼女は二十八歳と、八代よりは一回りも年下ではあるが、センターの中では比較的仲良くしている人物だった。八代は診療情報管理士で、仕事の内容といえば回収したカルテのチェックや記録、コーディングと呼ばれる患者の病気を分類など、デスクワークが中心だ。したがってナースとの交流は他の職員や医師に比べても多い。

しかし彼は口数も少なく、もともと大人しい性格もあって誰とも交流を持とうとはしなかった。

周囲からはいわゆる〝近寄り難い〟人物だと思われていた。

だが、吉田だけはいつもまとわりつく仔犬のように声をかけてくる。今日もそうだ。

 誰も、何も話しかけてこないだろう、と八代は思っていた。

 案の定、他の職員はそうだったのだが、やはり彼女だけは違ったようだ。

「でも……なんで? 急ですよね?」

「いや、少し前から考えていたことなんだけどね」

「じゃあ、どこか別の病院に?」

「まあ、まだ考え中だけど」

「ホスピスに行くって噂を聞いたけど……そこに?」

 まさか自分に噂がたっているとは思わなかった。

 八代は言葉に詰まったが「少しゆっくりしようとは思ってる」と曖昧な返答をする。吉田は「そっか……」と言ったきり、俯いてしまった。

「じゃあ、また改めて挨拶に来るから」

「うん。がんばってください……辞めても、たまには顔を出してくださいね」

「ああ。ありがとう」

 小さく手を振る吉田に、八代は少し笑顔を見せると、そのままエントランスへと向かった。玄関を出ると不愉快な消毒液の匂いから解放され、冷たい空気に包まれる。

 吐く息も白く、日が暮れるにつれて、その濃さが増していくようだった。

 薄暗くなった街路地に人気はない。

 両手に抱えている荷物の重さに、運賃などケチらず郵送すればよかったと後悔する。この重さは今まで過ごしていた時間の重みか、あるいは無為の念なのか。だがその大半は物理的な重さではないことは確かだろう。

とはいえ、このままではアパートに帰り着く前に落としてしまいそうだった。そう思った八代は、近道も兼ねて公園を通ることにした。

 たまに帰り道、この公園のベンチに座って缶コーヒーを飲むことがあったのだ。

 特に習慣というわけではない。

 仕事が辛いときや、失敗した時だ。

 誰もいない公園は、どことなく落ち着いた。

 誰にも自分が見られていないという閉塞的な空間が、そう思わせるのかもしれない。

 柊の葉が立ち並ぶ垣根を両脇にしばらく進むと、目的の青いベンチが目に入る。

 しかし、そこには先客がいた。

 少年だ。

 よれた白色のシャツにデニムと、いやに軽装だ。

 ベンチの端に体育座りをして、顔を埋めている。

 荷物の重さは我慢し、そのまま通り過ぎようかと考えたが、ふとその少年の足元に目が留まった。

 裸足だ。

 真夏なら気にもしないが、もう冬が近い。

 しかも日は暮れ、じわじわ黒く染まりつつある空を見るからに、時計を持っていなくても子供が外にいて良い時間ではないのはわかるだろう。

 八代は、少年が座っている反対側に荷物を下ろした。

 少年は少し顔を上げたが、またすぐに元の体制に戻る。

 すぐ横に自動販売機があるが、缶コーヒーを買う気分ではなかった。

「……なあ、君。家に帰らないの?」

「……」

「それとも帰れないのか?」

 少年は、また少し顔を上げた。

 その顔には見覚えがあった。

 たしか近所のゴミ屋敷に住んでいる子だ。

 名前は柏木といっただろうか。

 八代はベンチに腰掛ける。

 彼との間にあるのは、荷物と沈黙。

「君、柏木さんとこの子?」

 少年は返答するべきか迷いを見せ、ワンテンポおいて小さく頷く。

 だが唇は強く結ばれ、開こうとはしなかった。

 警戒しているのか、その瞳だけは鋭い。

痩せこけた細い腕と足。

 まるで警戒心の強い山猫だな、と八代は溜息をつく。

「名前……なんていうの?」

 だんまりをきめこむつもりなのかと思っていたが、彼は小さく「蒼汰」と言った。

「蒼汰か……小学校三年生くらいか?」

「四年」

「妹がいたよね。名前はたしか……」

「彩奈」

「そうそう。先月だったかな、警察の人がウチにもきたよ。行方不明だって?」

 その質問には答える気がないらしい。

 蒼汰の視線は八代から地面へと落ちた。

 彼の首筋からのぞいている紫色の痣が、彼をそうさせているのだろうか。

 八代が警察から聞いた話では、柏木家には母親はおらず、父親と長男の蒼汰、妹の彩奈の三人暮らしだということだった。周囲の住民からはゴミ屋敷と遠巻きにされている一家だが、ゴミ以前に問題もあった。

 虐待の噂。

 父親の柏木はずる賢い男だと聞いている。

 顔や目立つ場所を殴ったりしないため、明らかに虐待をしているという証拠を出さない。子供には近所の住人とは口を利くなと教育されているのか、心配して声をかけようにも兄妹はすぐ逃げるのだという。

 彩奈の捜索願が出されたのは、隣人による通報がきっかけだったらしい。最近姿を見ないのを心配し、近くの交番に届け出たところ警察が動き出した。警官が父親の下へ訪ねると彼は「昨夜から帰ってこない。たった今、捜索願を出そうかと思っていた」と言い訳のような理由を並べ、繕ったという。

 この件で、周囲では彩奈は父親に何かされたのではないか、という噂が流れた。

 父親は怪しい連中との関係も噂され、どこかに売られたのではないかという噂まで流れている。いずれも噂の域をでない憶測だが。

 それから一ヵ月は経っているだろう。

 蒼汰の表情を見る限り、彩奈はまだ帰ってきていないようだ。

 それどころか、こんな場所にいることを考えると、父親の矛先は蒼汰に集中しているのではないかと想像できた。

 八代は、じっと蒼汰を見つめていた。

 蒼汰は、じっと地面を見つめている。

 いや、蒼汰が見つめているのは暗闇だろう。

 光の射さない、黒く、暗い、あのゴミ屋敷の中のような暗闇だ。

 蒼汰は両足を交互に重ね、こすり合わせながら寒さを凌いでいる。

 八代は立ち上がると荷物を抱えた。

 そして蒼汰の前までくるとしゃがみ込み、背を向ける。

「乗れ。おぶってやる」

 言葉を発しない少年に八代は振り向くと、彼は当惑気味の表情を浮かべている。

 無理もないだろう。

 お互い初対面だ。

「……帰りたくないんだ」

 蒼汰はぽつりと独り言のように言った。

「わかってる」

「行くところもないんだ」

「俺の部屋に来い」

「……え?」

 もう一度、八代は振り向くが、蒼汰は微動だにしない。

 どうすればいいか、迷っているようにも見える。

 八代は荷物を片手で抱え、もう片方の手で蒼汰の手を掴むと、無理やり自分の背中に乗せようとする。少々強引かとも思ったが、蒼汰は抵抗すらしなかった。

冷え切った軽い体。

彼はされるがまま、八代に被さるようにして乗りかかる。

「もっと体をくっつけて、手を俺の首に回せ」

「……」

 まるで人形のように、八代が手助けをしないとおんぶもできない。

 首に回された蒼汰の両手は、宙を掴むようにしている。

 もう少しちゃんと捕まれと八代が口に出そうとしたとき、はたと思いとどまった。

 八代は気づいた。

 おそらく彼は、今まで親にすら、おぶさる事がなかったのだろうと。


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