第一話
辺境の森には悪魔が住んでいる。人をとって喰らう恐ろしい悪魔が住んでいる。そんな噂が広がり、ここに人間が寄り付かなくなってから、どれだけ経っただろうか。
まったく、心外だ。見た目は確かに悪魔そのものかもしれないが、心を悪に染めた覚えは無い。人間は外面ばかり気にするから困る。
まあしかし、私の姿を一目見て、恐れるなと言う方が酷だろう。水面にうつして見れば、自分でも嫌になるほどの悪魔っぷりだ。
皮膚は堅く身は骨ばっていて、おまけに赤黒くグロテスク。金色の目は鋭く切れ、常に怒っているような顔だ。口を開けば尖った歯が並び、それと同等に手足の爪も長く鋭い。黒い尻尾もあれば、二本の角もそびえ立っていて、何より背中にはコウモリのような翼がある。これで悪魔と指さされない方が、おかしな話だ。
だが、私は恐ろしい悪魔などではない。むしろ人に蔑まれるを恐れ、こうして森の中で静かに暮らしている、臆病な生き物だ。
私のすることと言えば、水を飲み、森を見回り、花を愛で、種をまき、鳥の声を聴き、後はひたすら眠る。いや、眠っている時間の方が多いかもしれない。とにかく、私は何百年と穏やかに生きてきた。他人が見たら退屈だと言うかもしれないが、私はそう感じたことは一度もない。これが、私の生き方だ。
今日も私は森を歩いていた。この先には花畑がある。ひらけた空間に私が種をまいて作った、自慢の花畑だ。そして最も私の心が温まる場所だ。
だが今日に限っては、立ち入った瞬間、肝を冷やした。
色とりどりの花が咲く真ん中で、人間の娘が仰向けに倒れている。死んでいるのかと思ったが、いや、微かに胸が上下している。
人の子など目にするのは百年ぶりだから、いまいち確証は持てないが、歳は十ほどだろうか。ふわりとした金色の髪で背は小さい、すやすやと眠っている限り、可愛らしい少女だ。
しかし、なぜこんなところに。子どもが立ち入るような場所ではない。それに、着る物。リボンがたくさんついた桃色のドレスは、汚れているものの質が良いとは一目でわかる。間違いなく貴族の娘だろう。悪魔の住む森になど、居るはずのない。
さて、これからどうしたものか。私はいまだかつてない経験に頭を抱えた。見なかったことにするか? いや……この森には「魔女」も住んでいる。私は外見が悪魔だが、あれは中身が悪魔だ。人をさらって魔術の実験台にする。そう、この森の噂の原因はあれの仕業だ。
だから私がこの娘を無視すれば、途端にあの魔女が飛んできて、喜んで拾って帰るだろう。そしてその後どうなるか……考えない方が良い、私は首を横に振った。
とにかく、見捨てるという選択肢は無かったのだ。傍らにしゃがみこんで、恐る恐る揺り動かす。すると、少女は小さな声を漏らしてから、目を覚ました。
眠気の残る青い目をこすって、私の顔に焦点を合わせる。そしてその瞬間、目をぱっちり開いて肩を跳ねさせた。……まあ、当然の反応だろう。子どもなのだし、怖がるのは仕方ない。
だが、次の瞬間、娘は顔を輝かせて私に飛びついてきた。油断していた私の喉に彼女の頭が激突し、息が詰まる。おまけに首の後ろに手を回され――く、苦しい、首が締まる!
「あなたが、悪魔さんね! お願い、わたしをあの世につれてって! わたし、もう、嫌なの! お母さまのところに、行きたいの!」
甲高い声で耳元で叫ばれれば、頭が痛い。いや、まずその手を放してくれ、私が死ぬ! だいたい言っていることも意味がわからない、なんだ、人に向かって死神みたいなことを。
されど、私には声を出すことが出来なかった。元より発声器官が無いのだ。意味の無い咆哮なら出来るが、人間の言葉は私には操れない。
代わりにできるのは実力行使、娘の手を握って首から引きはがした。その間にも、彼女は身の上をわめきたてていた。
聞く話をまとめれば、単なる家出だ。名前はマーガレット、この辺りの領主たる辺境伯の庶子である。貴族の家にはよくあるいさかい――政争の駒にされるだとか、他の兄弟との確執だとか、厳しい教育だとか、とにかくそういうものに嫌気がさし、逃げ出して来たらしい。
あの世へ連れて行けなどと言ったのは、幼くして死別した優しい実母に会いたいということだった。母だけが自分の味方なのだとか。
呆れて空いた口がふさがらなかった。まだ子どもだ、人生これからである。それなのに絶望して自死を選ぶなど、断じて受け入れがたい。たかが十年で悟りきらないでほしい、私など、数百年も生きているのだぞ。
まったく、馬鹿馬鹿しい。私は助けたことを後悔して、ため息を吐いた。手を払って、「帰れ」という意志を表示する。ここまで一人で来れたのなら、帰れるだろう。
私は無視してマーガレットに背を向けた。私が先にここから立ち去れば、諦めて家に帰るだろう。第一、私は彼女が望むような、人を殺す悪魔ではないのだ。期待には応えてやれそうもない。
ところが、マーガレットは懲りずに付いてきた。ぱたぱたと走る足音が聞こえたと思った時には、私の翼にしがみつかれていた。急なことで後ろに倒れそうになる。どうにか踏ん張っても、翼にかかる重みはどうしようもなく――痛い! もげる!
思わず翼をばたつかせたら、じゃじゃ馬娘はあっけなく落ちた。きゅう、と声を漏らして、それっきり音沙汰無し。
ただでさえ温度の低い血が、凍りついたようだった。……まずい、死んでしまったのか!?
慌てて振りかえれば、マーガレットは横座りしていた。足首をさすって、目を潤ませている。着地でひねったか、折れてしまったか。そんなつもりはなかったのだ、すまない。
「痛いよう……」
消え入りそうな声だった。言っている間に大きな目からぽろぽろ涙がこぼれていく。しかしまあ、この程度で泣きごととは、よく死にたいなどと言ったものであった。
しかし、困った。あの足では帰るに帰れないだろう。かと言って私に助けてやる義理は……。
「いたい、いたいよ……」
とうとう泣きじゃくり始めた。だが私にはかける言葉が無い。もとよりできないし、そうしてやる間柄でもない。
「悪魔さん……」
マーガレットが涙目で私を見つめて来る。助けてと訴えている。ええい、そんなきらきらした目で見るんじゃない、私はおまえの騎士でも何でもないんだ。……困った娘だ、まったく。
*
結局、私はマーガレットを自分の寝床に連れて来た。他にどうしようもなかったし、一応、怪我をさせてしまった責任の一端があるからだ。別に、情が沸いたわけではない。
さて、寝床と言ってもベッドなんて代物は無い、必要ないからだ。翼がある私は座って眠る、尻に敷く枯草の山と、雨を遮る板の屋根があれば十分なのだ。とりあえず、マーガレットにも枯草の上に座ってもらった。
怪我は足首をひねっただけのようだった。少し腫れているが、大事にはならずすぐに治るだろう。フリルのあしらわれた靴を脱がせて、木の桶にくんだ水で冷やさせた。柔らかく小さな足は、この手で触れたら壊れてしまいそうなものだった。
しかしマーガレットだ。もう足の痛みは忘れたのか、無邪気に笑って水を手で跳ねさせ遊んでいる。そうしながら、なお喋り続ていた。返事が無くてもお構いなしだ。
「あのね、わたし、もうお家に帰りたくないの。みんなみんな、いじわるだもん」
それはさっきも聞いた。思わずため息が漏れる。するとマーガレットはむっとして言った。否定ととらえたのだろう。
「ほんとだよ! お義母さまはわたしの悪口ばっかり言うし、お姉さまはわたしのことぶつの。お兄さまだって、みんなの前では優しいけど……。わたし、わたし――」
その時、くるるるる、とマーガレットの腹が鳴った。同時に口の動きも止まる。
マーガレットは不意に暗い顔をして、腹を押さえた。
「……おなか、すいた」
ふと思う。辺境伯の城からこの森まで、子どもの足では一日以上かかるだろう。その間、食事はどうしていたのだろうか。季節がら、果実の類は豊富だが、果たして温室育ちのお嬢さまに、食料を採取するということはできたのか?
「ごはん……食べてない」
案の定だった。またマーガレットの目に涙が浮かぶ。
「ごはん……」
マーガレットは捨てられた仔ネコのような目で私を見た。期待されても困る、私はおまえの親でも何でもないのだ。おまけに人間ですらない、食事の世話などできるものか。
無表情の私を、なおもマーガレットはきらきらとした顔で見つめて来る。
はあ、困った。やれやれと、空を仰ぎ見た。太陽が眩しい、どうりでマーガレットが輝いて見えるわけだ。
しょうがない。私は息一つ吐き出すと、声をかける代わりにマーガレットのふわふわの髪をなでてから、ご希望のごはんを探しに出かけることにした。
……別に彼女のためではない、このまま私の寝床で飢え死にされたらたまらないだけだ。だから、これは私のためなのだ。そう自分に言い聞かせ、私は重い腰をあげたのだった。
私は人間の食事には詳しくない。だからマーガレットに何をどれくらい食べさせたらよいものか見当がつかなかった。
とりあえず私が普段つまむようなものを少しずつ採取して歩いた。両腕で一杯の食料を抱えマーガレットのところに戻った頃には、日が傾き始めていた。
彼女は枯草の山で膝を抱えて座っていた。片足は裸足のまま、小さな娘は今にも泣き出しそうな顔をしていた。が、私の顔を見るなり、晴れやかな笑顔を見せてくれたのである。この顔を喜ばれても困る。が……悪い気はしない。
そうして持ち帰った食べ物のうち、果物類はよく食べた。甘い赤い実も酸っぱい黄色い実も、すべて彼女の口に入った。私も食べたかったのだが、こればかりはしかたない。
逆にまったく手を付けようとしないものもあった。ウサギの肉やヘビの卵なんかだ。仕方ないのでそれらは私が平らげる。マーガレットはぎょっとした目をしていたが、なにも言わなかった。
腹が満ちると眠気がやって来たらしい。私が食べかすを土に埋めて片づけている間に、マーガレットはこくりこくりと頭を上下させていた。時々がくんと大きく肩を落として、はっと起き上がり、きょろきょろまわりを見回す。これは見ていてなかなか面白い。
しかし、どうするつもりなのか。……いやわかっている。このままここで一晩過ごすのだろう。痛めた足では歩けまい、それに第一、もう暗い。夜の森は危険だ、私としても幼子一人で歩かせるつもりはない。
だから、怒らないから、そのまま眠ってしまえばよいのに。マーガレットはためらうような素振りを見せている。枯草の上に寝転がっても「ダメ」と言った顔つきで起き上がってしまうのだ。さんざん私を振り回しておきながら、いまごろ気を遣っているのか。困ったお嬢さんだよ、本当に。
もう知ったことでは無い。今日は疲れた、私だって寝たい。だから遠慮なくマーガレットの隣へ腰を降ろした。別に深い意味は無い、ここは私の寝床なのだから当然のことだ。そうして、背を丸め、目を伏せ、翼をたたみ。私はこうして身を休める。
「……悪魔さんは、いつも、ここで寝ているの?」
マーガレットの不安げな声が聞こえた。目も開けずに、頷いて答えてやる。すると、はあ、と溜息が聞こえた。
がさがさと草がこすれる音がする。薄目を開けて様子をうかがえば、枯草をかき集めて枕を作っていた。人の寝床をあまり壊さないで欲しいが、今日はおおめに見てやろう。マーガレットは人間なのだから、座ったままでは眠れまい。
草山に横になってマーガレットは寝息を……立てない。やはり寝心地が悪いらしく、いつまでもがさがさごそごそやっている。勘弁してくれ、私も眠れないではないか!
寝ろ。そう言えない代わりに、マーガレットを睨みつけた。月明かりしかない夜闇では彼女の目には見えないだろう、それでも空気くらいは読んでほしい。
しかし、気持ちは通じなかったのか、はたまたわかっていて無視するのか。とにかくマーガレットは屈託ない笑みを私に向けたのだ。私の目は人間と違うから、月明かりでもそれがよく見える。
「ねえ、わたし、お花がいっぱいのところでねむりたいな」
贅沢者め、これだから貴族のお嬢さまは。……そう言えば寝ているマーガレットを見つけたのも、花畑の真ん中だった。思い付きのわがままというよりは、願望があるのだろう。
理解は出来ない。花は見るものだ。種から生まれ、育ち、咲かせ、種を残し消える、その一生を愛でるものだ。私にとってはそういうものだ。
何も反応を返さずに居たら、それでマーガレットは諦めたらしい。すねた顔をして枯草の山の上で丸くなる。しかし、目を伏せる様子はない。
しばらくして、か細い声が聞こえた。
「悪魔さんはいつもこんなところでひとりぼっちなの? こわい夢みない?」
私は小さく頷いた。一人であることを恐ろしいとも寂しいとも考えたことは無い。私にとってはこれが当たり前だ。私の姿を見て近寄ってくる者など、深みの魔女くらいしか居ない。……いや、居なかった。マーガレット、おまえを除いては。
ふっと温かいものが左手に触れた。私の手を引くそれがマーガレットの小さな手だとは、見るまでもなくわかった。
マーガレットは私の骨ばった腕にすがりつく。いや、腕をくぐるようにして、胴に肩を寄せてきた。そのまま固い腹にぴたりと頬をくっつける。いやはや、なんとも柔らかい。
気持ちはわかる。不安なのだろう。辺境伯の騎士団は精強だと、魔女より伝え聞いていた。かの者らに守られる地に居たら、夜の恐ろしさなど感じもしなかったはずだ。
幼いマーガレットの心を思えば、邪険になどできようか。私の身は人ほどに温かくはないが、冷たくもないから寒くて眠れぬということも無いだろう。
私を抱き枕のようにして、ようやくマーガレットは寝息を立て始めた。
どっと疲れた、私も早いところ休まなければ。ふれあいが気に障り、なかなか寝付けない。マーガレットの存在をなるべく意識しないように心がけ、深い眠りへ……。
その時、強い風が吹いた。
「へ、ぷちっ」
かわらしい音のくしゃみをした後、マーガレットは大きく身動きし、私の体に自分の身を密着させてくる。そうか、私は慣れてしまっているから気にもとめなかったが、夜の風は冷たいものだった。
……仕方ない。私は翼を広げマーガレットを抱きこむようにする。大きく堅く丈夫な翼だ、風よけにはちょうどよかろう。
ただ、この姿勢を夜通し意地する代償として、私の睡眠が亡きものになる。……困ったものだよ、まったく。