疲れた職工に聖夜は微笑むか
「田沼よお。今日、残業頼んでいいか?」
半笑いの班長の話を聞きながら、自分のロッカーを乱暴に閉めた。ロッカーが歪んでいて、こうしなければしっかりと閉まらないことを彼は知っている。苛ついているわけではない。
「いいっすよ」
「よし。頼むな」
そう言うと肩を軽く叩いて、班長はロッカールームを出ていった。あの半笑いはなんだろう。哀れみか、同情か、それとも嘲笑か。
沸き上がる感情は怒りや苛立ちではない。虚しさとも違う。なんだろう。わからない。ここのところ、僕の頭の中は空っぽだった。僕は紺色の作業着の全身を確認してからロッカールームを出て、工場に向かった。
いつもの通りの仕事だ。
機械の間に紛れて、同じ操作を繰り返す。それで多くの自動車の部品が成型される。慣れてくると、自分が機械を動かしているのではなく、機械に働かされているような錯覚を覚える。それが、量産ラインに入って仕事をすることなのだということを思い知った。
高卒で入社三年目。
もはや、それらのことは辛いことだとも思わなくなっていた。有る意味、同じ動作を続ければ良いので楽だ、と言う人もいる。日本のモノ作りの一端を担う誇りや理想などと、新入社員時代に持っていた熱情は、既に失われていた。
流れに乗れば、一日など速く終わる。ただ、機械が稼動した数字だけが増えて行き、最後にはそれがゼロに戻る。毎日がその繰り返しだった。
さっき昼食をとったと思ったら、ほら、もう定時帰りの時間だ。しかし、僕は残業。クリスマスの夜をパートナーと過ごすため、定時で帰る幸せな誰かの為の残業だ。
「すんませんッ。田沼さんッ。お先っすッ」
「おう。お疲れ。彼女と仲良くなー」
「それ、今の田沼さんが言うと、ちょっと重いっす」
「とっとと帰れ」
笑って、そいつの尻を安全靴で蹴飛ばした。
「へへッ、あと御願いしますっす」
あと二時間ほどアイツの代わりに、僕は晩酌の時間を削るんだ。
酒は強い方ではない。むしろ下戸だ。でも最近は、嫌いじゃなくなった。それは、今までの自分では考えられないことではあった。けれど人間は変わっていく。僕は、色々と理由を付けて過去の誓いを反故にし、自分を裏切ったのだ。
工場の中が少し静かになる。多くの作業員が定時であがったらしい。
酒を思えば、あの男を思い出す。
それは親父。
愚痴、罵声、暴力も少し。
まだ学生服を着ていた頃の記憶。
それを振り払うように、動きが悪い機械の機関部をプラスチックハンマーで叩きつけた。
「お疲れさん」
「あ、どうも」
残業も終わり、喫煙室の小部屋でタバコを吸っていた僕に、班長は熱い缶コーヒーと赤いマルボロを一箱くれた。
「……僕はメンソールですけれど」
「大事なのは気持ちだろうが」
彼は自分でそんな事を言った。こっちだって本気で抗議したのではない。どちらも冗談半分。有り難く頂く事にする。
「あのよ」
「あい?」
僕は二本めに火を付けながら、班長を見た。
「まあ、気落ちしするのも分かるが、あんま気にすんな。お前を好きになってくれる女なんて他にもいるさ」
「はあ」
また、気を使われた。班長の朝の半笑いを思い出す。あれは、どうやら悪い意味ではなかったようだ。僕は普段とは何も変わらないつもりでいた。
特に顔には表さないように気を付けていたが、それほど深刻な顔をしているだろうか。そう思って外が暗い窓ガラスに視線を移してみる。
いつも通りの顔。そうだ、僕はいつもこんな暗い顔をしている。それに気付いたとき、苦い笑いが込み上げた。みんな、普段の僕をあまり見ていないから、今だけ落ち込んでいると勘違いしているのだ。それでも、班長の気持ちは嬉しかった。
「もう大丈夫ですから」
「よし、でも、無理はするな」
「ありがとうございます、もう帰ります」
僕は殆ど残っているタバコを、水が溜まったバケツに放り込んだ。
「お疲れさん」
「はい。お先します」
事務所脇のロッカールームに寄って、朝にしまい込んだドカジャンを引っ張り出し、それに袖を通して外に出る。
あやしい天気だ。雪が降るかも知れない。今の僕にとってこの夜の雪は、ロマンチックなホワイトクリスマスなどではなく、厄介な天候でしかない。
仕事場は町の外れにある。
周りに民家は少なく、ここを取り囲むのは畑ばかりだ。あたりが暗くなると、道路よりも一段低い畑達は、どす黒い田んぼに姿を変えて夜の中に横たわる。一筋の道路を、歩道の街灯と自動車達のヘッドライトが照らした。
町は川の向こうだ。
むこうは雪が降りだしているようで、町の光に粉雪は照らされ、朧気で暖かい色が空を覆っている。その下に向かって長い橋が伸びていて、その歩道を一人で歩いた。
橋の下は、殆どの面積が草原。貧弱な川が左を下流にして注ぐ。この川のどこかに、数十万円相当のダイヤモンドが二つ存在しているということは、下手な徳川埋蔵金伝説よりも正確な情報であり、真実だった。
上流からの風。寒い。ドカジャンのポケットに両手を突っ込む。そこには、右と左にそれぞれ、赤いマルボロと缶コーヒーがある。
右手のマルボロの箱を外に出して眺めてみる。昔、これが実家のテーブルには必ず置かれていた。その上に重ねられた百円ライター。回転ドラムと火打ち石で着火するやつだった。あれをまともに使うことが出来るのが大人の証だと、子供の頃は思っていた。
また、過去を思い出す。
置かれたライターの近くには、数本のビール缶。テレビでは、タバコの銘柄と似た模様をあしらった競技用バイクがサーキットを爆走している。そんな感じで赤ら顔の親父は、いつもそのビデオを再生して見ていた。
まずは、仕事の愚痴こぼす。それを聞くのが、堪らなく嫌だった。男らしくない。聞いたって僕が分かるわけがない。きっぱりと無視していた。
次に、罵声がとぶ。ひとの話を聞けだとか、態度が悪いだとか、ごちゃごちゃ僕に言う。僕は、聞きたくない、とはっきり訴えた。
最悪、手が出た。生意気。何様のつもりだ。親父の話は聞くものだ。など、うるさいことこの上なかったし、理不尽にも思えた。
こんな大人にはなりたくない。
酒なんて飲むものか。
タバコだって吸わない。
若い僕は、そんな誓いを立てて真面目に学生時代を過ごし、高卒で今の会社に就職した。
そんな親父が病に倒れたのは二年前。
肺のレントゲンに白い斑点が写りこんだ。それが原因で逝くかと思いきや、肝硬変で死んだ。その時親父は四八歳で、僕が十九歳だった。突然で、呆気なくて。
でも男としては潔い人生の引き際だったかもしれない。「なに、男なんてこんなもんさ。愚息にしては上出来だ。人生これくらいが丁度いいんだ」と自分に言い聞かせるように、僕のお爺さんが言ってたからだ。
でも、やっぱり親父は親不孝な男だと思う。四十九日の法要を終えたあと実家の薄暗い納屋の中で、お爺さんが声を殺して泣いているのを、僕は見た。そして、もうひとつの発見。その納屋に押し込まれていたものに、僕は目を奪われたんだ。
橋をわたり終える。
僕は、町の端に到達した。
店や街灯の光が行く道をを照らしていたが、人通りは少ない。中心部まで行けばもっと人がいるのだろうが、僕はいつも大通りは通らないし、ましてや今日みたいな夜を歩くのは御免だ。きっと、クリスマスらしいイルミネーションやミュージックで、あふれているだろう。その中を歩くなど考えられなかった。
左側にあるスーパー。そこを見ないように歩く。店舗の大きな窓ガラスを透して、レジの台がここからでも見えるからだ。見たくないのは、そこに立っている女性だった。
彼女とは、高校生からの延長で付き合っていたようなもので、前から二人の中に生じていた違和感が、今回の事件を招いたのだ。
会社の同僚や、班長などは見当違いをしている。
僕は、彼女と別れたわけではない。けれど、彼らにそのことを説明する気力が僕にはないし、必要もないと思っている。とても、ややこしく、微妙で、不安定な状態なのだ。今後、結局は別れてしまうことだってあり得るだろう。そんなことをいちいち誰かに相談するほど、僕は鬱陶しい人間にはなりたくない。
何かを失っていた。初めて彼女と手を握った時に感じたそれは、幻だったのだろうか。あるいは最初から、僕の内に存在していなかったのかもしれない。この子が「好きだ」という感情が、今の僕には欠落している。
嫌いになったんじゃない。高校生時代から引き継いでしまった「友達以上、恋人未満」といういい加減な付き合いであり、恋人ごっこのような関係。
会話だってそうだ。相手の話を聞いてあげることが出来ない。相談とか普通の世間話だって「へえそうなんだ。それよりさあ――」と、僕も彼女も、自分の話を相手に押し付けてしまうのだった。そこから抜け出すことが出来ない二人の関係に、僕は行き詰まりを感じていた。
「試しにさ、別れてみようよ」
提案したのは彼女だった。
「それで、お互いに何も感じないんだったら、本当に別れよ」
突然にこんなことを言ってきた彼女も、きっと僕と似たような違和感を覚えていたのだろう。
当然、僕は同意した。そんなことを言われても平然としている時点で、僕に欠陥があると感じた。
「また一緒になれたら、来年の夏に川で宝探しでもしようか」
そんな僕の提案に、彼女は怪訝そうな顔をした。次にテーブルを強く叩いて、僕を睨む。
「真剣な話をしてるんだよ? わかってる?」
そう怒鳴られて、僕は閉口した。僕にとっては大真面目な話だったが、今冷静になって考えてみれば、彼女には理解しようのない発言だったと反省している。
こんな話がどこでこじれて、完全に別れたという噂になってしまったのかは分からない。しかも、僕がふられたらしいというような話なのが、また気に入らなかった。
やはり、町の方が雪は多い。
程よい量で舞い降り、肩に積もりはじめた。今度は、短い橋が前方に見える。そこには、クリスマスとは無関係な電飾の光があった。橋の補修をしている工事現場だ。
黄色いヘルメットを被り、肩に無線機を取り付けた警備員が交通整理をしている。僕はその人をよく知っていたし、向こうも僕を知っていた。
彼はこちらに気づいたようで、赤く光る誘導棒を小刻みに振って僕に笑いかけてくる。
「田沼、今あがりか。いつもより遅くねえか?」
「残業ですよ。しあわせなヤツの代わりで」
合点がいったようで、彼は黄色い歯を見せて笑った。髭面のおっさんという印象が強いその人とは、行きつけの食堂兼飲み屋で仲良くなった。30歳くらいの男。名前は富野さん。自称、失恋王。
僕は、彼の仕事場に入り込んでとなりに立つ。僕はドカジャンを着ているせいか、ここに居てもあまり目立たないのだ。そして両手をポケットに突っ込む。
「右と左、どっちがいいですか?」
「どっちもよこせ」
彼は即答した。
「それは卑怯じゃないですか」
「狡猾な奴が生き残る世の中だ。観念しろ」
そんなことを言って、この男は屈託なく笑う。
少し冷めた缶コーヒーとタバコを差し出すと、片手で通行車両をさばきながら一服を始める。職務怠慢とかいう前に、器用なことをする人だと思った。
「カノジョとは?」
「まだ失恋ごっこ中です」
「まったく、ややこしいことするよなー。別れちまえよ」
「まあ、その方がきれいなんでしょうけど」
今のところ、僕と彼女との関係を正確に把握しているのは、富野さんだけだった。
「お前、たしかバイク乗るよな」
「はい」
「転んだことは?」
「高校のときに……」
冬の深夜の交差点だった。
左折しようとしたとき、凍った路面で後ろタイヤが滑って横転した。横になった原付バイクは手裏剣のように回転して角のガードレールにぶつかり、僕は信号の電信柱に背中をぶつけて止まった。
冬道を甘く見ていた田沼少年は、背中に大きな打撲と左半身広範囲の擦り傷だけですんだのだった。他に車がいなかったのも幸いして、大きな事故には至らなかった。
「それと失恋がなんの関係があるんですか」
「最初は痛ぇ。とにかく痛ぇ」
「まぁ……」
「けどさ、時が経てばその経験が『戒め』みたいになって、安全運転ができるようになるわけだ。だからさ、うーん。上手く言えねえけど、大事なことだと思うんだ。痛みを知っておくっていうことも」
「……なるほど、でも」
「あぁ?」
「痛みを知りすぎて、痛みを感じなくなるのも嫌ですよ」
「このやろ、俺のことか」
富野さんの拳の甲が、僕の腹を強かに打った。
「あとよ、好きなのか分からないとか、まえ言ってたな」
「はい……」
「好きになって付き合う必要はないと思うんだよなー。とりあえず付き合っててさ、後で好きになっても遅くはない。別れないんだったら、こういう考え方もアリなんじゃないか」
「……」
「ま、お前たち二人の問題だからこれ以上は言わないが、参考にでもしておいてくれや」
「……ありがとうございます」
「十分休憩おわり、とっとと行け。けど俺が行くまで酔い潰れてんなよ」
摘まみ出されるようにバリケードの外に出された。
このあと、例の飲み屋でまた一緒になるだろう。話したいことはそこですればいい。とは言っても、アルコールが入ってしまえば、常に僕が聞き手になってしまうのだが。
僕は、歩き出さなかった。ひとつだけ聞いておきたい事があったのだ。
「富野さん」
「あ?」
「もし川で、僕が自分の指輪を探してる時に、富野さんが捨てた指輪を見つけたら、どうすればいいですかね」
「バカか。俺はいらなくなったから捨てたんだ。欲しけりゃくれてやる」
「マジですか」
「俺だったら、他人の指輪なんか彼女にはやらんけどな」
「富野さんらしいですね」
「男だろ」
「見栄っ張りです」
「このやろ、失せろ」
「お先しまーす」
今度こそ逃げるように立ち去る。
前に富野さん本人から聞かされた話だ。
結婚まで考えていた相手にふられたときの事らしい。プロポーズの言葉まで考えていた彼は、告白しようと彼女と待ち合わせた。そして決め台詞をいう前に、別れを切り出されたというわけだ。
富野さんのもとには、あらかじめ用意されていた台詞とダイヤモンド付きの指輪だけが残された。ただ売ってしまうのも癪だったらしく、鬱憤を晴らすために数十万円した小さな宝石を、僕の仕事場に近い川に捨てた。
僕も、就職して初めての給料で購入したのは指輪だった。
それを覚悟に、彼女と添い遂げて二十歳にはプレゼントするはずだったのだ。
だが、多くなるのは、思いのすれ違い。通わない心。遠くなっていく二人の距離。上手くいかないかもしれないと不安が生まれたとき、僕は富野さんと同じところに指輪を捨てた。
白くなりはじめた町を歩いた。
大通りとは一本ずれた道は、裏通りというほど広くはないが、裏路地というほど狭くもない。田舎町なので本当に賑やかなのは、この近辺くらいなものだ。
僕は週末には、安いアパートに帰る前に、例の食堂で食べたり飲んだりして帰る。そして今日も、その例から漏れることはない。
でも、今回はちょっとした用向きがあった。
それは目の前のさびれたバイク屋。いま、白髪頭の店主がシャッターを下ろそうとしていた。駆け寄ると、特別なリアクションもなく「あぁ、あんたか」と言ってシャッターを最後まで下ろした。素朴な疑問だが、この人はどこから家の中に戻るのだろうか。
「オヤジさんの形見は?」
「まだ細かく確認していません。でも明日実家に帰るんでそのときに」
「そーかい」
彼は短くため息をつく。
「じゃあ積載車を用意しておく。カギつけてここに停めておくから、黙って乗っていっていい」
「はあ。大丈夫ですかね」
「大丈夫ですかねぇって、俺はこの店の中に居るんだから、誰が乗ったかくらい分かるだろう」
「ですか」
睨まれた気がしたが、この人はいつも不機嫌そうな顔をしているのだから、気分を害したわけではないだろう。
実家の納屋にしまってあったのは、レーサーレプリカの500CCのバイクだった。親父が乗っていたものだとお爺さんは言っていた。
僕は親父が大型二輪の免許を持っていることも知らなかったし、ましてやこれを乗っていた事なんて聞いた事もなかった。倉庫の奥にこんなものが眠っているなんて思いもよらなかったのだ。
これに乗ってみたい。
この秋に、免許も取った。
お爺さんは「無制限とったのか」と時代を感じる言葉を嬉しそうに言っていた。
悔しいが、僕も親父と同じくバイクが好きだ。
レストアしようと思い、部品を注文するために入ったこの店の中で、同じ車種に股がった店主の写真を見たとき、この人に協力してもらおうと勝手に決心したのだ。
「外観の点検、サビとかな。次はバッテリーを充電してイグニッションを確認、通電するかしないか。最後はエンジンがかかるかどうかだ」
以前、三本指を突き立て彼は言った。というわけで持ってきてみろ、ということになったのだ。
この人ならば信用できると思った。写真とか、持っている雰囲気とか、男としての勘。理由はいろいろあるが、すべてのひっくるめて僕は彼の事を信頼することに決めていた。
彼はパイポを胸のポケットからだして口にくわえた。パイポなんて使うのは、火気厳禁の仕事柄からだろうか。関係ないか。吸う人は、エンジンをばらしている側でも吸うものだ。
そして店主は僕を見た。
珍しく真っ直ぐに僕を見ている。
「スピードは?」
「出しません」
「いや、出せない」
「え?」
「どう足掻いても旧車だ」
彼はパイポを吸ってから、一人で頷く。
「遠出も考えたくない。近場を走りまわれるくらいの完成度を目指そう」
「それで構いません。お願いします」
「明日持ってこい」
僕は、お辞儀をしてから立ち去った。少し歩いてから、気になってもう一度振り向いた。
彼はしばらく閉められたシャッターを見つめた後、もう一度上げて店の中に入っていった。やはり、シャッターを完全に下ろしたのは間違いだったようだ。
飲み屋街に入る。
いつもの食堂の暖簾をくぐると、仕事帰りと思われる多くの人がたくさんいた。色んな職種の人々が混じりあって、飲み食いしながら他愛のない話に花を咲かせる。
お腹が減っていたので、チャーハンと餃子を注文した。ビールはとりあえず一杯。
チャーハンが運ばれてくると、それを胃袋にかき込む。酔いがはやく回らないように、まずは腹ごしらえだ。僕の中では、酒は酔うためのもの。ビールの美味しさなんて、本当の意味で分かっていないのだろう。
スマートフォンが震える。ツイッターのメッセージを受信。彼女からだ。時間を見る。彼女の仕事が終わる時間だった。
『今日は会わないから』
既読マークをつけると、僕はすぐに返信する。
『そのつもり』
わかっているはずだ、お互いに。
わざわざ連絡したからには、なにか言いたいことがあるのかも知れない。だが、既読マークがつけられただけで、しばらく返信はなかったのでそのままにしておいた。
チャーハンと、新たにカウンターの上に置かれた餃子を食べ、ビールを流し込む。喉が暖まり、腹におちる。しばらくすると、早くもまどろんでくる。
思考の輪郭がにじむ。
朧気に。
また、受信。
『ねえ、川の宝ってなに?』
いつか彼女に怒られたときの話だ。意味ありげな僕の言葉を彼女は覚えていた。彼女なりに僕のことを理解しようとしているのかもしれない。
本当の事を言おうか迷った。
何故って、結婚指輪だからだ。それに今はお互いに別れたふりをしている。事実を告げることで、思わず彼女を縛ってしまうことも考えられるということ。
だけど、ここでふざけて良いものだろうか。
彼女は、しばらく考えてからメッセージを送信した。その時間が、彼女の迷いを物語っている。真面目に考えた結果、僕にこの話題を切り出したのだ。
言おう。
余計な言葉なしに、事実だけを伝えよう。
『結婚指輪』
そこで、会話は途切れた。
店内はいよいよ騒がしくなる。アルコールも回ってきた。
前は、こういう酒場の空気は苦手だったが、今はむしろ好ましく思う。
来る人は、お互いの事情なんて知らない。
だから適当に聞く。
適当に誉める。
適当に慰める。
適当に嗜める。
適当に謝る。
適当に受け答える。
ひとりではどうしようもない心の傷をなめあって、また明日頑張れるのだ。それでいいじゃないか。それでいいんだよ。
だから、親父――。
働くようになって、親父の気持ちが痛いほど理解できるようになったんだ。
苛立ちとか、焦りとか、不満が。
なめるだけでも酒が飲める今なら、親子で酌み交わすことができたのに、あなたの話を、ただ頷いて聞いていることができるのに、それなのに。
――何で死んでしまったんだ。
どうして、待っていてくれなかったんだ。
今は、あなたの話が聞きたい。趣味の話だって、男同士の話だって、できたはずじゃないか。
視界が霞んで、涙がこぼれそうになる。実際に酔っているけど、酔ったふりをしてカウンターに顔を伏せた。
スマートフォンが、メッセージを受けとる。
もちろん、彼女だ。
『春には、答えを出そう』
カウンターに置いてあったテッシュで鼻をふいてから、返信する。
『春には、答えは出る。絶対』
『うん、おやすみ』
『おやすみ』
それで、彼女とのメッセージ交換は終わる。
今の僕にできることは、残された親父のバイクを直すことだけだ。僕と親父、残された親子の会話は、きっとあの形見が語ってくれるはずだ。
あれのエンジン音が春頃に響き、麗らかな春空の下を快走するとき、きっと僕はなにかを得るだろう。
親父の話を聞きたい。
そして、誰かを受け入れられる大人になりたい。
結果的に、幸せになれなくてもかまわない。
前よりも確実に、僕の何かが成長していてくれれば、それでいいのだ。
【おわり】
フィクションです。
完読ありがとうございました。