7.intermission~「これから幾度も重ねていくから、もう数える必要はない、そういう話」
「黒砂さん! ちょっと来て、こっち!」
それは、私が新田君と会った翌日の放課後だった。
普段は引っ込み思案な古林さんに強引に手を引かれ、されるがままに生徒会室を出て、屋上へ向かう階段の踊り場へと連れていかれる。
屋上は施錠されているため、この階段へと向かうひとはまずいない。
内緒話にはもってこいの場所というわけだ。
「もう、メッセージもぜんぜん返してくれないんだから。えっと、心配したんだよ?」
「ご、ごめんなさい……」
「あんまり元気もないみたいだし……」言って、古林さんは私の顔色をうかがう。「えっと……大丈夫?」
「ええ」
と、答えはしたものの、自分が本調子ではないのはほかならぬ自分自身が知っている。昨日のことを引きずっているだけではなく、よく眠れなかったので体力的にもつらかった。
「……」
古林さんはじっと私のほうを見ていたが、やがて、強引に私を階段に座らせる。
それから、古林さんはぎゅっと、私のことを抱きしめてくれた。
「あ……」
「えっと、落ち着いてからでいいから、話せることだけ、教えてほしい、かな」
階段に座った私は、立っている古林さんのちょうど胸のあたりに寄りかかる格好になった。暖かく視界を遮られ、私は安堵する。
時間はゆっくり流れた。
遠くで放課後の喧噪が聴こえる。人の足音、扉の開閉の音。
私が古林さんに包まれていたのは、時間にすればほんの十数秒だったと思う。
けれど、それはとても長く感じて、そしてとても嬉しい時間だった。
「もう、大丈夫。ありがとう、古林さん」
そう言って彼女の腰を少し押すと、古林さんはゆっくり離れて、私の隣に腰かけた。
「私ね、ずっと、自分は『完璧な生徒会長』なんだっていうプライドを持っていたんだと思う」
「うん」
「けれど、そうじゃなかったの。『生徒会長』と『黒砂幸』を分けてしまったら、私は『生徒会長』じゃなきゃ、肝心な時に何にもできない、弱い、とっても弱い女だった」
「……」
「肩書きの仮面をかぶらなきゃ何もできなくて、でもプライドだけは高くて。勉強や習い事ができても、誰でもできるような、人と一緒にいることがぜんぜんちゃんとできない。『完璧』でもなんでもない。私ね、『生徒会長』じゃなくて『黒砂幸』になろうとした。そしたら、わからなくなってしまったの。完璧でも生徒会長でもなくって、私、なんなんだろう?」
「黒砂さん……ちがうよ」
「思えばこれまでもそうだった。班長、クラス委員、部長……そういう肩書に頼ってきた。でも、それが全部なかったら、大切なときに、大切なひとといるのに、何にもできないなんて、『黒砂幸』はなんて、なんて空っぽなんだろう!」
「黒砂さん!」
古林さんは立ち上がると、両手を私の頬に沿える。
そのままぎゅっと、両手に力を込めた。ちょっとだけ、痛い。
「そうじゃない、そうじゃないよ、黒砂さん。えっと、えっとね?」古林さんはそこで一呼吸。「黒砂さんは、空っぽなんかじゃない。黒砂さんは、生徒会長で、黒砂さんなの」
「……」
「えっと、えっとえっと、『生徒会長』をやめることなんてしなくていい、ううん、できないんだよ。黒砂さんは『生徒会長』なんだもの。それが黒砂さんなんだもの。心の中で一つなの。くっついてるものを無理やりはがそうとしたら、痛いのなんて当然だよ」
「古林、さん」
「私は『生徒会書記』で『文芸部員』で『古林典子』だよ。それでいいと思ってる。それでいいじゃない? 無理に分けるのなんて、おかしいよ」
「でも……」私は涙をこらえて、絞り出すように言う。「私、『生徒会長』じゃない『黒砂幸』に、なりたいと思うのよ」
古林さんは大きく、つよくうなずく。
「うん。でもね、一気に『生徒会長』をやめようとしたって、できないよ。えっと、自分が変わっていくのは素晴らしいことだよ? けれど、それは今までの自分が消えることじゃなくて、新しい自分が増えるっていうことだよ、きっと」
それから、古林さんはすごく優しくて、すごく切ない眼をした。
「私は、黒砂さんみたいに凛と強くはないけど」古林さんは目に涙を溜めていた。「私だって、自分を一気に変えることなんて、できないよ」
ああ。
古林さんは、強い。古林さんは、好きだった人へのもう叶わない気持ちを、捨てないで、ちゃんと自分のそばに置いている。
自分と共にあったものを、突然捨てようだなんて、そんなことはできない――
私は思い当たる。
きっと、最初に新田君に言われたことの意味を、はき違えていたのかもしれない。
自分を開くことと『生徒会長』の私を閉じることとは、根本的に違う。
私はそっと、古林さんの両手に自分の両手を添える。
古林さんの優しさが伝わってきて、私は心の中のもやもやが晴れたような気がした。
「古林さん……うん、もう大丈夫」
私の言葉を受けて、古林さんはほほ笑むと、ゆっくりと両手を下した。
誰もいない階段で、今度は私から、古林さんの小さな身体を抱きしめた。
「ありがとう、すごく、感謝してる」
「えっと……うん、頑張ってね」
古林さんはそう言って、私の後頭部をぽんぽんと叩いた。
「ええ、ちゃんと報告もするから」
そう言って古林さんへ笑いかけると、古林さんは一瞬目を丸くして、それからにぱっと笑った。
『会いたいのだけれど、いつが都合がよいかしら?』
新田君にメールを送ったのは、その日の夜遅くだった。
お風呂から上がり、髪を乾かして、ハーブティーを飲んで気持ちを落ち着けてから、私は用意してあったメールの送信ボタンを押した。
これから返事が来るまでは気持ちが落ち着かないだろうな、と思った矢先、すぐに着信を知らせる振動が帰ってくる。私は心拍数が少し上がったのを感じながら、メールを開いた。
新田君からのメールには簡単に「電話番号、教えてもらえないかな」とだけ書かれていた。会える日についての返事がないことを訝しんだけれど、私は電話番号を書いてメールを返信した。
ほどなくして、静まり返った部屋の中に電話の着信を知らせる振動音が響く。
更に心拍数が上がる。携帯電話を取り、耳にあてた。
「はい、もしもし」
「あ、黒砂さん? 新田です」
知った声が電話の向こうから聴こえる。
「ええ。どうしたの?」
「あのさ、会いたい、いまから」
「い、いま?」
突然の申し出に、私の声は少し裏返っていた。
時刻は二十三時を回っている。いくらなんでも、高校生が出歩いていい時間ではない。
「うん。家まで行くから。なんつか、このままじゃ眠れなさそうで。……だめかな?」
私はつと、考える。
普通に考えたら、明日にしてほしい、と伝えなくちゃならない場面だ。明日だって学校がある。
『生徒会長』の私の判断はNOだ。
けれど……『黒砂幸』は、会いたかった。
会えるなら、すぐにでも。
自分には思ったよりも自制心がないな、と思いながら、古林さんの顔が脳裏に浮かぶ。
けれどきっと、これも私だ。
「家から出れるかどうかわからないけれど……がんばってみるわ」
「ほんとに!?」新田君の声が嬉しさの色を帯びた。「えっと、どこに行けばいい?」
私は住所を告げる。抜け出せないかも、と伝えると、新田君は構わないと言った。
電話を終えて、私は大きく深呼吸する。
新田君の嬉しそうな声を聴いて、自分もつられて少し嬉しくなっているみたいだった。
玄関を通って出るわけにはいかない。
部屋の窓を見る。こういうときは平屋で助かったと思う。
電気を消して部屋に鍵をかけて窓から出れば、両親には眠ったものと思ってもらえるだろう。
パジャマからもう一度普段着に着替える。夏が近づいているとはいえ、夜の冷え込みを心配してすこし厚めのカーディガンを用意する。
まぁまぁ見てくれは悪くないだろう。
と、靴がないという問題に気づいた。
玄関から持ち出したとして、靴がないことを両親に気づかれ不要な心配をかけるのもよくない。といって素足で出るわけにもいかないので、結局冬に部屋履きとして使っているルームシューズを引っ張り出す。
鍵をかけ、携帯電話を持って部屋の電気を消し、大きな音を立てないようにそっと窓を開け、部屋を抜け出した。
これはこれで、ちょっとした冒険だった。
窓から外に出ていくなんて、いつぶりだろう。最後の記憶は小学校の低学年の頃。あのころはまだ無邪気で、男も女もなく遊んでいたっけ。
それからたくさん時間を重ねた。自分が女であることを意識するようになった。『完璧』を重ねた。『生徒会長』を重ねた。
『黒砂幸』を重ねた。
塀に足をかけて一気に飛び越える。
子供の頃はこの塀も、途方もない高さに思えたっけ。
家の外に出て、あたりを見渡すと、道の向こう側から自転車で走ってくる男の子が見えた。暗くて少しぼやっとしているが、どうやら新田君のようだ。
「ごめん、こんな時間に」
新田君は恥ずかしそうに笑っていた。
きっと、私も同じように恥ずかしそうに笑っているだろう。
「ううん。あっちに公園があるから、行きましょう」
「うしろ、乗る?」
「大丈夫よ、すぐそこだから」
そう言って私は歩き出す。新田君も自転車を降り、押しながら私に着いてきた。
そういえば、両想いの少年少女が明け方に自転車に二人乗りして景色のよい場所に行き、プロポーズする、そんな映画があった。
その映画を初めて見たころは、自分が恋をするなんて、考えたこともなかった。
私も女の子たちに交じってきゃあきゃあ言っていたことはある。でもそれはやっぱり、どこかでリアルじゃなくて、ファンタジーだった。誰かのことが好きじゃなくて、ただ、恋というそのものにあこがれていた。
今は、どうだろうか。私がこれから想いを交わす相手への気持ちは、ちゃんと相手のことを見てあげられているだろうか。
少し考えても、結局わからなかった。だからせめて、新田君に対して、まっすぐであるように努めるしかない。
それでいいのだと思う。
一分と歩かないうちに公園までたどり着く。深夜の公演は、ただいくつかの街灯が寂しく光っているだけで、人は誰もいない。
ざっと見渡して、一角にあるベンチへと歩く。
新田君は自転車を止めて「失礼します」と言ってぎこちなく私のとなりへと座った。
私はなんとなく、空を眺めた。
少し曇った空の向こうで月がうっすらと光っている。星は見えない。
ひとつ深呼吸すると、緊張がほんの少しほぐれた気がする。
「あ、あの……」
新田君が緊張した面持ちで呟く。彼でも緊張することなんてあるんだな、と私は思った。
「さっきの電話」
「うん、突然でごめん、しかもこんな夜遅くに、非常識だよね」
「ほんと、そうよ」
いじわるにそう言ってみると、新田君は申し訳なさそうな顔で肩をすぼめた。
「でも……」心を整えようと胸に手をそえて、私は続ける。「私も、新田君に、会いたかった」
「……」
「私、新田君に伝えなきゃいけないことがあるの」
「……うん」
「勇気を出して言うから、時間がかかるかもしれないけれど、ごめんなさい」
「大丈夫、待ってるから」
その言葉を受けて、私はそっと目を閉じて、気持ちをおちつけようと試みた。
大丈夫、言おうと思ってたことはきちんと文章にして用意をした。
あとは、口から音にして伝えるだけ。
けれど、それはやっぱり、重たくて、難しくて、なんだか怖い。
唇から言葉にした瞬間に、何か決定的なものが変わってしまいそうで、怖い。
でも、伝えたい。伝えなきゃ。
相反する二つの感情に決着をつけるため、私は『生徒会長』の私に力を借りることにした。
『完璧』な『生徒会長』の私なら、できないことなんてない。
好きな男の子に言葉で気持ちを伝えるくらい、朝飯前にやってのける――
私は目を開く。
「私」つばを一度呑んだ。「新田君のことが好きよ」
そこまで言って、もう一度目を閉じる。
よかった。きちんと言葉にできた。
自分の口にした言葉は、誰よりも自分自身の身体中に浸透するように、波みたいにゆっくりと拡がっていった。
「……ほ、ほんとに?」
新田君の驚きの声を聴いて、私は新田君のほうを観た。
「ええ。こんなこと冗談でなんか、言えないわよ」
「そう……そうか、じゃあ、俺と付き合ってくれる、ってこと?」
私は小さく頷いて「お願いします」と答えた。付き合う、と言葉にすると、思ったよりも恥ずかしくて、くすぐったく感じる。
「や、やった……」新田君はぎゅっと両方のこぶしを握る。「やった、すげーうれしい……うん」
「あ、でもね、新田君、ちょっと、お願いがあるの」
「なに?」
「まだみんなには、付き合うことを内緒にしてほしい……その、まだ恥ずかしくて、どうにかなっちゃいそうで」
私はうつむく。頬が紅潮しているのを隠したかった。
「なんだ、そのくらい大丈夫だよ。言わない。黒砂さんがいいって言うまで」
「ありがとう……私ね、あなたにもっと『生徒会長』じゃなくて『黒砂幸』であるところを見たいって言ってもらって、一生懸命『生徒会長』を封印しようとしたの。でも、そうしようとしたら、怖くなって」
ひと呼吸。新田君は小さく「うん」と相槌を打った。
「私、すこしずつ新田君に惹かれていって、でも『生徒会長』じゃない私はとても弱くて、こわくて、どうしたらいいかわからなくて。この前、新田君が伝えてくれた気持ちにも、きちんと応えられなかった。それで悩んでた。けれど、古林さんが教えてくれたの。『生徒会長』を捨てることはできないんだって。私も、そうだと思う」
新田君は黙って私のほうを見ていた。
「勘違いしてたの。新田君に『私』を見せることと『生徒会長』である私を否定することは全然違うことだったのに。でもこれからは『生徒会長』の私も否定せず、少しずつ『私』を見せていくから」
「うん」新田君は頭を掻いた。「なんか、戸惑わせちゃったみたいで、ごめん」
「ううん、大事なことに気づかせてもらったわ。まだまだ時間はかかると思うけど、少しずつ変えていこうと思うの。『完璧』で『生徒会長』で、でも気を張らない自然な『私』に」
「そっか。やっぱ黒砂さんはすごいよ」
新田君はそう言って笑う。私も笑った。自然な笑顔ができたと思う。
心が軽くなったような気がした。きっと、自分が一人で抱えていたものを、解放したからだろう。
「はー……」
もう一度空を仰いで、ゆっくりと息を吐いた。吹く風が気持ちいい。
しばし、沈黙が流れる。
私は考える。お付き合いをすると宣言すると、私と新田君の間は何が変わるんだろう。
肩書が『友達』から『恋人』になる?
それは具体的には、どういう変化?
結局私は考えるのをやめる。これから少しずつわかっていけばいい。新しい自分が増えるのは、きっと楽しいことだ。
『彼女』としての新しい私が――
ああ、そういえば、もう一度聞かなくちゃ、あの時、お店の前で私になんて言ってくれたのかを。
そっと横目で新田君のほうを見た。
新田君も、私を見ていた。お互いの目を見たまま固まること数秒。
鼓動が高まる。
私は考える。いままで得た知識の中で、恋人同士の男女が夜の公園で、二人きりだとどうなるか――
答えを出す前に、ベンチに置いていた私の手に、彼の手が重ねられた。
喉から何かが飛び出しそうな極限の緊張状態の中、私の眼に映る新田君の顔が近づいてくるように思えた。
それは私の錯覚かもしれないし、実際に近づいていたのかもしれない。
けれど私は思わず、空いているほうの手で新田君の肩を押して、彼を遠ざけていた。
「ご、ごめんなさい……」私は絞り出すような声で言う。「でもまだ、は……恥ずかしくて、我慢できない」
新田君の顔は見れなかった。何かが溢れてしまいそうで。
「ん……」
新田君は、空いているほうの手で肩を押していた私の手をそっと降ろさせる。
「ごめんなさい、少しずつ慣れていくから……」
「わかったわかった」
新田君は笑う。その笑顔が、ちょっとだけいじわるなものに変わり、私が困惑するのが早いか、彼は続ける。
「けど、俺だって我慢できない時あるから、おあいこ、相殺ってことで」
「え? ちょ、ちょっと」
新田君は私に重ねた手をぎゅっと握り、困惑している私をよそに、もう一方の手で私の肩をぐっと引き寄せ――
二人しかいない、音のない公園には、霞がかった月の鈍い光だけが優しく降り注いでいた。