3.intermission~「マイナス2回目のデートの話、というより、きっかけの話」
当初の私は、新田君に対して身構えていた。人間関係をよく知っている事情通ということは、もちろんそれだけ、人の知られたくない、隠したいような事情もたくさん知っているということ。多くの人が彼に抱く印象は「おしゃべり」である。
『男のおしゃべりはみっともない』なんて言うつもりはないが、新田君があまりに軽薄な人物であったなら、そのような人物と積極的に関わるのは、私にとっても後々面倒なことになる可能性が高い。
けれど、それは私の完全なる誤解だった。
確かに新田君は、校内の人間関係をすべて掌握しているといってもいいほどの情報を持っていた。だけれど、それは彼の利害のために集められたものではなく、彼の交友範囲の広さの結果としてついてきた、二次的なものだったのだ。
校内で新田君を見かけるとき、彼はいつも誰かと一緒で、いつも笑顔だった。どのグループにも属し、どのグループとも対立しない。そして、彼と一緒にいる誰かは、やはりいつも笑顔なのだった。
いっぽうの私は、新田君から指摘されたことが心のどこかにずっと引っかかっていた。『気を張っている』なんて、考えたこともなかった。『完璧』を自負していても私は学校で自然に生活していると思っていたし、誰かからそう指摘されたこともなかった。
古林さんがそう思うかどうか尋ねてみたけれど『えっと、黒砂さんはすごいなぁって、思ってるよ』と、あいまいな返答をされてしまった。
彼女の優しさを思えば、それはきっと、気を張っていると思っていた、ということなのだろう。
生徒会が解決を目指していた学校の問題は、少しずつ解決していた。解決、というよりは解消、といったほうがニュアンスは近いかもしれない。ともかく、誰も傷つかず、校内での「問題だ」という声だけが、確実に減っていったのである。
『完璧』と言われた私よりも、上手に問題を解決してみせる新田君。そんな彼に対し、対抗意識を含んだ興味を持っていることを、否定はできない。
「遅くなってごめんなさい、職員室で捕まっちゃって」
「そんなに待ってないので、お気になさらず」
放課後、屋上へと続く扉の前で新田君と合流する。私の謝罪の言葉に、新田君は軽く返事をして、持っていた携帯電話をポケットの中に滑り込ませた。
学校の屋上は、談話や軽い運動ができるようなスペースになっている。しかし、解放されるのは昼休みだけで、放課後は施錠されている。
私は生徒会長の立場を使い、放課後の屋上を使用する許可を得た。『行事準備のため』と理由をつけ申請までした理由は、新田君と二人きりで会話する必要があったから。
とはいえ、完全にウソの申請ではない。実際、行事用の横断幕の設置のため、屋上の柵の長さを測らなくてはならなかった。どちらがついでの用事かが逆転しているだけ。
密会の提案は新田君からだった。以前に新田君にお願いしていた件について、私にいくつか伝えたいことがあるという。しかし多くの人に聴かせるべき話ではないから、生徒会のメンバーも外して話がしたいとのことだった。
私は念のため屋上をざっと見回す。当然だが、人の気配はない。昼休みは人でにぎわう屋上庭園は、誰もいないと妙に寂しい場所のように思えた。
私は後ろ手で屋上の扉に鍵をかける。
これで、この場所には誰も入れない。
「あのベンチでいいかしら?」
「どこでもいいよ」
私たちはどちらともなく屋上に設置されたベンチへ歩いていく。歩きながら、今の私は新田君という男子と二人きりなのだな、という当たり前の事実に気づく。
一瞬、胸に不安感を覚えた気がした。それが何を意味するのかは、わからない。
私たちは並んでベンチに座る。距離はちょうど、人一人分を空けたくらい。近くも遠くもない、とても常識的な距離だと思った。
風が吹いた。初夏を感じさせる、ぬるい風。屋上という場所のせいか、やや勢いがある。私はポケットからヘアゴムを取り出し、髪が乱れないように簡単にまとめる。
きちんと結わえたことを確認すると、となりにいた新田君がこちらを見て呆けるような顔をしていることに気づく。
「どうしたの?」
「あ、あ、いやなんでもない、ちょっとぼーっとしちゃって」
新田君は焦ったように片手を振る。私は「そう」と簡単に返事をした。
「それで、話っていうのは?」
早速、私は本題に入る。
「ああ、まず……」
新田君は、普段より少し慎重さを含んだ声で語りだした。
話の内容は、たしかに人に聞かせるようなことではなかった。家庭内の深刻な事情、友情や恋愛に関する下世話な部分に踏み込んだ話、違法性を含んだ話。
いずれも問題の解決に時間がかかるであろうことを予測させるような内容だった。
おそらく、新田君が信頼されているからこそ託されたのであろう事情の数々。
それぞれの重たいエピソードを吸い込んだ私は、思わず深く息をついた。
「時間が解決することもあると思うけど」
新田君はその先には言葉を続けない。でもたぶん、完全には解決しないだろうことを伝えたいのだと思う。
「そうね」
言いながら、私は頭の中で分析する。最近は学校の問題についての声も挙がってくることは少なくなった。ほかに取り組むべき課題もある。『完璧』を目指すがために、細部にまで労力と時間を費やすのは、全体でみれば賢い選択とは言えない。
「……生徒会としては、現状でも十分、問題が解決したと言っていいところまで来れたわ。だから、あとは時間と、先生方と、新田君みたいに、それぞれと親しい人達に、任せようと思うの」
実際には、新田君がほとんど動いてくれていたので、もとより生徒会はほとんど動いていないのだが、私は『生徒会長』としてのプライドと立場とで、そう言った。
「うん、それがいいと思う」
新田君の返答を契機に、私たちはどちらともなく立ち上がる。
「あ、新田君」
「ん?」
校舎内へ向かう新田君に声をかけると、彼は歩みを止めてこちらを振り向いた。
「私、ちょっとここでしなきゃいけないことがあるから」
「ここで?」
「ええ、ちょっと何か所か、屋上の長さを測らないと」
「手伝うよ?」
言われて、私はちょっと考える。確かに、巻尺の反対側を持ってもらえれば、作業が助かる。
「そうね、じゃあ……お言葉に甘えるわ」
「あいよっ」
二人で屋上を移動する。
「まずはここね、こっち側を持っていてくれる? それで、ここから測るから……」
私は巻尺の片方を手渡し、計測の始点を示す。
「六メートルだと……この場所までね。うん」
手元のノートに記録を取る。
「そういえばさ、黒砂さんって普段、生徒会のほかはなにやってるの?」
「えっ?」突然の呼びかけに、私は一瞬戸惑い、手を止める。
「あ、ごめん中断させちゃって」
「大丈夫よ」私は先にノートの書き込みを済ませる。「……部活はやってないから、塾、かしら」
「趣味とかは?」
「習い事はいろいろあるけど……読書かしらね」
この手の質問は、同性異性に関わらず何度か受けたことがある。生徒会の活動以外に趣味と言えるほど熱中しているものがない私は、いつも無難な回答を選ぶようにしていた。
「へぇー、なに読むの?」
これもまぁまぁよくある質問だ。人によっては読書というだけで拒否反応を示すのか、続きの会話をやめてしまうこともあった。
「海外の小説を、英語で読んでるの。勉強になるから」
好んで読みづらい英語で小説を読むようなもの好きは極めてすくない。ここまで言えば、ほとんどの場合、話題の中心は英語にうつり、学校の勉強の話でかわすことができる――
が、新田君はそうはいかなかった。
「へぇ、小説かー、どんなの?」
さらに食いついてくる。
「日本でも和訳が出ているような作品よ。ファンタジーとか、SFとか……」
「難しくなければ、俺も読んでみようかなぁ、友達から借りて漫画とかライトノベルとかは読むんだけど、英語の小説は経験ないや」
それからも、作業するあいだ、新田君はとどまることを知らずしゃべり続けた。私への質問が中心だったが、私が答えに窮するのを見ると、すぐに話題を変えてくれた。それが、彼の話術なのかもしれなかった。
やがて作業を終え、私はノートを閉じて、巻尺をポケットにしまう。
「ありがとう、助かったわ。それじゃあ、戻りましょうか」
「あれ、もう終わり?」
新田君はそういうと、ふーん、と息をつく。
「……どうかした?」
その場から動こうとしない新田君に声をかけると、新田君は頭を掻いて言う。
「いや、もう少し黒砂さんの話をききたかったな、と思って」
「……私、の」
フリーズしてしまったコンピューターみたいに。そのあとの言葉を、私は続けることができなかった。想定外、と説明するのが一番しっくりくると思う。新田君からのごくごくストレートな要望に、私は正直に言って、戸惑ってしまった。
『完璧』なら対応しなさい、と私の心が私を鼓舞する。
「生徒会のためとはいえ、せっかく黒砂さんと知り合いになれたんだし、この機会に友達になれたらいいな、と思って」
どきり、と、私の心臓が鳴ったような気がした。なんとか平静を装って、言葉を探す。
「でも……生徒会の用事も、あるし」
そこまで続けて、これは逃げだ、と自覚する。私は新田君から逃げている。相手は単純に『友達になりたい』と友好の意志を示しているだけで、逃げる必要なんてないのに。
それは『完璧』と言われる自分自身のプライドとして許しがたかった。
「だから、またその……今度なら」
なんとかそう言葉を続けると、新田君はぱっと顔を輝かせた。
「お、じゃあ誘ってもいい?」
「ええ、大丈夫、予定がなければ」
私の言葉を聞くが早いか、新田君は携帯電話を取りだす。
「メアド、きいてもいい?」
私はうなずき、自分も携帯電話を取り出した。自分のメールアドレスを表示すると、携帯電話を新田君に預ける。
新田君がアドレスを打ち込んでいるあいだ、その横顔をちらりと見る。
なんていうことはない、同い年の男子の横顔。毎日、誰かしらの顔くらい見ている。それとなにも変わらないことを確認して、私は新田君にわからないように、小さく深呼吸をした。
「ほい、ありがとう」
携帯電話を返してもらうと同時に、私の手の中で、携帯電話が振動した。
「ちゃんと届いたみたいだね。じゃ、あとでメールするよ。忙しくなければ、付き合ってやってくださいな」
「ええ、わかったわ」
笑顔を作って返事をすると、新田君は満足そうに、校舎への扉に向かって歩きだした。私も数歩遅れて後を追う。
歩きながら、新田君の背中をちらりと見る。
――なんなんだろう、この人は。
私の中に、するりと入りこんでくるような印象。避けたいとか嫌だとか、そう感じるわけではないが――無意識に、誰もが他人に対して張っている心のバリアーのようなものを、通り抜けてくるように、思えた。
校舎の中に戻り、生徒会室へ向かう角の所で、私と新田君は簡単な挨拶を交わして別れた。
生徒会室の前で、つと立ち止まり、屋上での出来事を反芻する。
――私はひょっとすると、新田君に誘われていたのではなかったか。
今まで、そんな風に私に接してきた人はいなかった。だから、今日の事が新田君の誘いなのか、そうではないのか、そしてそれは異性としてのものなのか、性別などは関係のないものなのか、私にはそれを判断するための経験が決定的に不足していた。
私は『完璧』であるはずなのに。
そう考えると、ちょっとだけ、悔しいとも感じてしまう。
「あれ、黒砂さん? えっと、どうしたの、こんなところで」
生徒会室のほうへと廊下を歩いてきた古林さんが私に声をかける。
「あ、ええと、いま、屋上での作業が終わったところよ」
「そうなんだ。えっと、なんだかぼーっとしてたみたいで、珍しいね」
穏やかに笑う古林さん。指摘されて、私は恥ずかしくなるとともに、やっぱりすこしだけ、悔しさを感じた。
ふと、考える。古林さんは、私と同じ体験をしたら、どう感じるのだろう。
「そういえば、新田君にアドレスをきかれたの。……どういうつもりなのかしら……」
そう言うと、古林さんはちょっと意外そうな顔をして、それからちょっとだけいたずらっぽく、でも嬉しそうに「そっかぁ」とだけ、言葉を発した。
結局、私の戸惑いは、そのままに。
悔しいながら、新田君という特殊な存在は、私の心の中に確かな異物として記録された。