第五段 日本書紀本文神話を浚ってみる
今回長めです。
難産でした。
第五段(本文)
次に海を生む。次に川を生む。次に山を生む。次に木の祖「句句廼馳」を生む。次に草の祖「草野姫」を生む。またの名を「野槌」。やがて伊奘諾尊・伊奘冉尊は互いの意見を聞き合って言うことには「私は既に大八洲国と山川草木を生んだ。どうして天下の主となる者を生まないのか(生めばいい)」。以上のような訳で一緒に日の神を生む。大日孁貴と名づける【大日孁貴、これを「おほひるめのむち」と言う。孁の音読みは「レイ」。一説には、天照大神、一説には、天照大日孁尊】。この子は光輝明るく美しく、上下と東西南北の六つの方角の内、全世界を光が照らし渡った。それで二柱の神が喜んで言うことには、「私の息子が多いといっても、今までにこのように霊妙の尋常ではない子はいなかった。長くこの国にとどめておくのはよろしくない。我々の手で速やかに天に送り、与えるのは天上のことのみにしなければならない」。この時にはまだ天と地とは互いの隔たりがまた遠いというほどではなかった。それで天柱を使い、天上に挙げた。次に月の神を生む【一説には月弓尊、月夜見尊、月読尊】。その光は日に次いで美しく、そのことをもって日と取り合わせて秩序を保つべきである。それでまたこれを天へと送った。次に蛭兒を生む。三歳になったといっても、まだ足が立たなかった。それで天磐櫲樟船に乗せ、風に任せて放ち棄てた。次に素戔鳴尊を生む【一説には、神素戔鳴尊、速素戔鳴尊】。この神は安忍をもって勇悍さがあったが、一方ではいつも激しく泣き喚くことを(自らの)行ないとしていた。それでその父母である二柱の神が素戔嗚尊に命じて言うことには、「あなたはとても見苦しい。それでこの広い世界に君臨してはならない。最初からこれに適う根の国へ遠ざからなければならなかったのだ!」。遂にこれを追い払った。
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第五段(おさらい)
「神代」を通じて最大の一書数を誇る第五段。いつもにも増して読みづらかった第五段。既に海があるはずなのに何でまた海を生んだのか意味不明な第五段。「本文」中で特に読みづらかったのは以下の部分。とりあえず無理やりに読み下してみました。
◆孁音力丁反。
孁の音、力丁の反。
孁の音の音読みは「力丁」の反切=「レイ」。
「力丁の反」全体で「レイ」と読ませるのが「反」つまり「反切」なる表音法です。漢字を二文字並べて、「左の字の一音目が子音、右の字が母音」を表すというね。
今回挙げられた「力丁」なら「力=り=ラ行」+「丁=エイ」で「レイ」と読むわけです。
ちなみになんでこの「孁」なる字にだけ音訓取り揃えてわざわざ「読み」の注釈が付いたのかといえば、どうやらこの字、「靈」をアレンジして(「巫」を「女」に差し替えて)生み出された国字(=日本で生み出された字)みたいなんですよね。つまり『日本書紀』を執筆中に生み出された新字だから、わざわざ「読み」の注が付いたと。ちなみに「孁」=「靈女」=「巫女」=「ミコ」から「日孁」=「日靈女」=「日巫女」=「ヒミコ」=「天照大神」とする説を見かけてみたり(「巫女」がいつ、熟字訓である「ミコ」という読みを持つようになったか、「巫女」と「ミコ」がいつ結びつけられたかによってはこの説が成り立つんだかどうだかという話ですが)。
◆不宜久留此國。自當早送于天、而授以天上之事。
宜しく久しく此の国に留めるべからず。自ずから当に早やかに天に送り、しかして授けるは天上のことを以てすべし。
長くこの国にとどめておくのは(この国にとって)よろしくない。我々の手で速やかに天に送り、与えるのは天上のことのみにしなければならない。
ただ、こう読んでしまうと、授かった子に一定の喜びはあるものの「結局は(やり過ぎの)失敗作で天下の主にはできずじまい。天上にやるしかない」という理解にならざるを得ないんですが? 「二神喜曰」に引きずられて「日の神誕生は良いことずくめ」という趣旨の訳が大勢を占めているようですが、原文は何たって「宜しく~べからず(~するのは妥当ではない)」ですからね。諸手を上げて大喜びは無理でしょう。
◆其光彩亞日。可以配日而治。
其の光、日に亞いで彩し。以て日に配し、而して治むべし。
その光は日に次いで美しく、そのことをもって日と取り合わせて秩序を保つべきである。
ここでのポイントとなるのはズバリ「治」。この字に引っ張られて「日の神や月の神が天上を治める」という訳がほとんどのようですが、それだと文がねじれませんか? 「可以配日而治」の部分に使役はありません。「(子ども達に)治めさせよう」とは誰も言っていない訳で、「(我々が月の神を)日の神の配偶者とすることで、(我々は天の上の)秩序を保とう」とする方がよほど自然な気がします。
伊奘諾尊&伊奘冉尊ペアの後を引き継ぐ次世代な感じで。
そうなると月の神は「生まれた時点で日の神のお守り役決定、天下の主云々なんて論じても貰えません。そもそも一書なしには名前さえまともに付けてもらってません」という損な役回りになってしまうんですががががが。勿論、「可以配日而治」の部分だけいきなり主語が月の神となって、「私は日の神の配偶者となり、(ともに天の上を)統治するべきだ」と主張した…という理解も、無理じゃない…のかな?
◆此神、有勇悍以安忍、且常以哭泣爲行。
此の神、安忍を以て勇悍有り、且つ常に哭泣を以て行と為す。
この神は安忍をもって勇悍さがあったが、一方ではいつも激しく泣き喚くことを(自らの)行ないとしていた。
ここでもかなりの苦労が…。「有勇悍以安忍」は恐らく「安忍なくらいの勇悍さが有り」と訳すべきなんじゃないかと思うんですが(「勇悍さが有ること安忍を以てす」でも可)、まず「安忍」の意味が取れない。ここは「安心」に倣って「忍び安し」? え? じゃあ我慢強さ? 勇悍さの根底には我慢強さがある訳? 我慢強いけれども泣き虫? よくある訳の「残忍さ」にどうしてもたどり着けず(しょんぼり)。そして気になるのは素戔鳴尊ぼっちゃんが泣いたら人が若死にしたり、木が枯れたりするという記述。単純に考えれば「ぼっちゃん号泣=雨続きで日照時間が足りない」っていう暗示? それとも逆に「ぼっちゃん号泣=日照り続き(太陽パワー炸裂)で水が足りない」っていう暗示? でもそれじゃあぼっちゃん太陽神じゃん。
◆不可以君臨宇宙。固當遠適之於根國矣。
以て宇宙に君臨するべからず。固より当に之に適する根国に遠かるべし。
それでこの広い世界に君臨してはならない。最初からこれに適う根の国へ遠ざからなければならなかったのだ!(ここに至って『日本書紀』本文、魂の叫び)
一番苦労したのは多分ここ! ここなのだ! いや本当に。よくある訳は意訳のオンパレードで、どういう書き下し文からその訳が生まれているのかが分からず、結局無理やり書き下して読み下すことに。もっと良い書き下しを思いついたら、こっそり書き直したいかな。とにもかくにもやっぱり「天下の主」としては「不可」の烙印を押されてしまう素戔鳴尊ぼっちゃん。蛭兒の時には「三年待っても」とわざわざ断り書きを入れているというのに、そんなクッションの一枚もなく「お前にはそもそも根の国がお似合いだったんだー!」と叫ばれてしまう切なさよ。
ところでラストの「遂逐之」の部分、「遂にこれら(生まれた四きょうだい全員)を追放した」と読めたりしたら、ものすごくどきどきするなあ…なんて思ってみたり(だって結果そうじゃないですか? 全員「規格外」だった訳だし。追放四きょうだい(性別不明)。勿論、独断と偏見ですが)。
ちなみに。
第一から第十一まである一書は、個々のボリュームや温度差はさておき、やっぱりおおむね3つに大別できる気がします。
細かな違いはあれど、とりあえず追放四きょうだいを中心っぽく話が進むパターン(第一・第二・第十一)。
追放四きょうだいとは無関係な神がガンガン生まれまくるパターン(第三・第四・第七・第7.5・第八)。
追放四きょうだいはさて置き、伊奘冉尊の死後が話題の中心となるパターン(第五・第六・第九・第十。『古事記』も系列で言えばココ)。
…うん、こんな感じ。
まずは第一グループ(仮)。
「一書第一」では伊奘諾尊が手に持った白銅鏡が変化して大日孁尊と月弓尊(良かったね、名前があって)が生まれ、よそ見してたら素戔鳴尊も生まれたよ(どこから? ていうか蛭兒は? そもそも伊奘冉尊はどこ行った? 結局一元論の無性生殖なの?)、きらきら明るい大日孁尊と月弓尊は天地を照らしたけれども、素戔鳴尊は残害を好む性格で(素戔鳴尊ぼっちゃん残忍説の出所はここか!?)、根の国を治めろと命令されたよ。おしまい。
「一書第二」では「本文」終了後も伊奘冉尊は生み続け、折角生んだはずの鳥磐櫲樟橡船(船の状態で生まれたの? 何でもアリだな)に蛭兒を乗せて一緒くたに流しちゃったよ、次に生んだ火の神=軻遇突智(でも呼び捨て)のせいで伊奘冉尊は焼け焦げて終わった(何が? 出産がってこと? それとも神としての生がってこと? 死ではないの?)けれど、終わる前に土の神=埴山媛と水の神=罔象女を生んで、軻遇突智(やっぱり呼び捨て)と埴山媛の間には稚産霊(ここも呼び捨て。この世代はもう神じゃないの?)が生まれ、稚産霊からも何か色々生まれたよ。おしまい。
「一書第十一」では伊弉諾尊が「天照大神(一書支持か)は高天の原(どこだよ?)、日の神(誰? 伊弉諾尊の子じゃないの?)の配偶者の月夜見尊(一書支持か)は天、素戔鳴尊は海(根の国は?)の仕事をしろ」と命じたよ、天上にいた天照大神に葦原中国の保食神の様子を見に行かされた月夜見尊(パシリ?)が保食神を撃ち殺しちゃって、しかもそれを得意気に報告までしちゃって(部下なの?)、天照大神と喧嘩別れになったけれども、確認に行かされた天熊人(って誰だよ)によると、保食神の死骸から何か色々生まれた(死と再生?)んだって。おしまい。
お次は第二グループ(仮)。
「一書第三」では追放四きょうだいの名はなく、ただ伊奘冉尊は火産靈(名前に火が入るから火の神? でも呼び捨てじゃない?)の出産で焼け焦げて「神退(神避ともいう。神としては引退したってこと? 死ではないの?)」した! 「神退」の最中にも神は生まれた。水の神=罔象女(でも呼び捨て)、土の神=埴山媛(媛は一応敬称なの? 性別が分かるだけ?)、天吉葛(でも呼び捨て……ていうか、思いっきり植物じゃない?)。
「一書第四」では伊弉冉尊は火神・軻遇突智(またも呼び捨て)を生んで苦しんだら神が生まれた(やっぱり死んでないね)。その時の吐しゃ物=金山彦(でも呼び捨て)、小便=罔象女(でも呼び捨て)、大便=埴山媛(媛は一応敬称なの? 性別が分かるだけ?)。
「一書第七」では伊弉諾尊が軻遇突智(何者? 他の一書と同設定? 相変わらず呼び捨てだし)を三つ切りにしたら(何でまた?)神が生まれた(要は死と再生ってこと?)。雷神、大山祇神、高龗(呼び捨て…?)。
かと思えば、「一書第7.5」程度の扱いで、斬られた軻遇突智(うん、呼び捨て)の血が天八十河(ってどこだよ)の磐石を染めて神が生まれた。磐裂神、根裂神、その子・磐筒男神、磐筒女神、その子・経津主神。
更にその後に、第六と第七の難読漢字の読み方の解説がしばし。
倉稻魂=宇介能美拕磨といった具合。
「一書第八」では伊弉諾尊が軻遇突智命(おお、珍しく尊称つき。それも初めての「命」。第一段本文で触れていた、「尊から漏れた方」ってヤツね。それにしてもやっぱり何者? 他の一書も読めってか)を五つ切りにしたら(いやだから何で?)、それぞれが山の神になった(やっぱり死と再生ってこと?)。首=大山祇、体=中山祇、手=麓山祇、腰=正勝山祇、足=○山祇。
ラストは第三グループ(仮)。
順番はいつものごとく意図的です。
「一書第五(非『古事記』系)」では火の神を生んで「神退去(あくまでも神からの引退? 「普通の女の子に戻ります」的な?)」した伊弉冉尊の埋葬先が紀伊国熊野の有馬村(随分と唐突に具体的な地名が出てくるなあ。花窟神社がある、三重県熊野市有馬町のことだよね?)だと明かされます(文中にはっきり「葬」だの「この神の魂」だのと書いちゃってるけれども……これは神の死云々以前に「神話誕生の後の世の人々が勝手に崇め奉って祀った」と読めないこともないレベル?)。
「一書第九(『古事記』系)」では伊弉諾尊は伊弉冉尊に会いたくて、遺体安置所である「殯斂の宮(じゃあ完全に死んでるんじゃないかな、伊弉冉尊。もしかしなくても初めての死者扱いじゃないですか?)」を訪ねます(それにしても宮はどこに作ったんだろう? ホームアイランド磤馭慮嶋かな)。しかも生前同様に語り合うというのだからびっくり。ただし伊弉冉尊の魂の叫び「請勿視吾矣(お願いだから私を見ないで!)」を無視して彼女の腫れ上がった骸を見た挙句、びびって逃げ出した伊弉諾尊は、彼女に憑いていた八種の雷神(自然現象云々以前に「雷様は怖いんだ」のルーツはこの辺か?)と追いかけっこをする羽目に陥ります。桃の実を投げ、その杖(どの杖? 桃の木製の杖?)を投げて、ようやく雷神を追い払うのでした。
桃を投げて戦う辺り(しかも追い払える辺り)、中国の『淮南子』辺りの影響を色濃く受けているようですが、死者の国を匂わせるような単語は出てきません。特に子どもも生みません。
「一書第十(『古事記』系)」では伊弉諾尊は悲しみのあまり(何で悲しいの?)伊弉冉尊を追いかけて追いつき(うん、で、今どこにいるの?)、伊弉冉尊の魂の叫び「勿看吾矣(私を看ないで!)」を無視して彼女を看てしまいます(ここで「看」を使う心は何だろう。看病しないで? 看取らないで?)。
結果、二柱は袂を分かち(その間また神を生みつつ)、遂には泉平坂(地名? 地形? 泉の平坂? 泉平の坂?)での争いに発展。
それにしても。
伊弉冉尊が言い放つ、「あなたは既に私の情(実情? 素顔?)を見てしまった。今度は私があなたの情(実情? 素顔?)を見てやるわ」って結構怖い台詞だな。
菊理媛神(うん、誰?)の仲裁で、何故かゴキゲンで泉国(ってどこ? まさか和泉国じゃないよね…? もしそうだったら図ったように紀伊国の隣国なんだけれども…。とりあえず泉平坂周辺?)を立ち去る伊奘諾尊。その後唐突に穢れを濯ごうと思い立つものの(しかも本文中では「それで」で受けており、当然といった風情)、粟門(要は鳴門海峡。しかし唐突に具体的な地名が来たね。執筆当時から見て「今で言うと」ってことかな)や速吸名門(要は豊後水道。ホント唐突だね)では潮が速くて禊ができない伊奘諾尊(ヘタレ?)。結局、橘之小門(…どこ? 「一書第六」の「筑紫の日向の小戸の橘」ってのと一緒…? 筑紫洲の日向っていわゆる「日向神話」に通じる流れ?)にたどり着き、禊ついでに大地や海原の神々を大量に生みまくる!
ここで気になるのは、伊弉冉尊が泉守道者とやらに言わせた「奈何更求生乎。吾則當留此國(なんでもっと生かそうとするの。私はこの国に留まるわよ)」という帰国拒否の言葉。もう生きなくて良い国…って要は死者の国のことですか? それが泉国? それに続く「泉国を出たら禊をして当然」という部分も説明不足。意味不明。「泉国=穢れた国=死者の国」ってこと? じゃあこの辺が「清めの塩」に繋がってるの?
最大の問題児「一書第六」にばかり目が行きがちだけれど(そして「第六」は確かに大トリに相応しいけれど)、「第十」も意外にパンチが重いな。「第六」のコンパクト版って感じ?
ちなみに「泉」の読み方は、「一書第六」の漢字解説「湌泉之竈=譽母都俳遇比」「泉津平坂=餘母都比羅佐可」を参考に、「よも」で統一しています。
上代の連体助詞「つ」の存在は勿論分かっていますが、こだわりです。
さて、わざわざ最後まで残しておいた突っ込みどころ万歳の「一書第六(『古事記』系)」では、伊奘諾尊と伊奘冉尊、共に大八洲国を生みます(これって前段、第四段の本文じゃない?)。
その後、伊奘諾尊は息を吐いたら風の神、飢えたら(いつだよ?)子(他は子じゃないの?)である倉稻魂命(ん? 京都伏見稲荷大社の本殿下社に祭祀されているご祭神っぽい名前じゃない?)、また海神・山神・水門神・木神・土神辺りを生みます。その後はとにかく万物を生んだらしい。
火の神・軻遇突智(呼び捨て)を生むに至って、その母である伊奘冉尊は焼け焦がされて化去した(化け去った? 姿を変えて去っていった? 死んではいないの?)。それを恨んだ伊奘諾尊は「たかだか子の一人を我が愛しき妻と引き換えにしたのか」と号泣につぐ号泣(子は放置?)。その涙も勿論神に。
遂に佩いていた十握剣を抜いて軻遇突智を三つ切りにした(要は八つ当たりか。最後の子を慈しむという選択肢はなかった訳ね?)。これがそれぞれ神と化成した(化け成った? 軻遇突智の遺骸から姿を変えて神に成ったってこと? 死と再生?)。
また、
剣の刃からの血からも一柱。
鍔からの血からはだいたい三柱。
剣先からの血からは三柱か二柱。
剣の柄からの血から三柱。
切って捨てた本体から生まれた神はさておき(実際文中ではスルーだしね)、零れた血の方からもどんどん神が生まれてきたと。相変わらず体液から子どもを生みまくってるなあ。
その後、伊奘諾尊は伊奘冉尊を追いかけて黄泉(ズバリの名がいきなり来ましたね! 由来なし? 『万葉集』には山吹咲き誇る泉=黄泉という歌があるけれど、ここは五行思想の「黄=土」だろうなあ)に入り、追いついて共に語りあう。
そこで伊奘冉尊の魂の叫びが炸裂。
「吾夫君尊、何來之晩也。吾已湌泉之竈矣」
「我が夫君の尊、どうして遅くいらしたの? 私はもう泉の竈(で作られた食事)を食べてしまったのよ!」
時既に遅く、共食の儀を済ませてしまった伊奘冉尊。
今日でも「同じ釜の飯を食う」「一つ釜(竈)の飯を食う」といった言葉にその名残をとどめている共食は、有名どころではギリシア神話(四季発生の発端となったアレです)にも見られるほどで、かなり古くからある風習です(何故か『古事記』にはこのシーンはありませんが)。
要は伊奘諾尊がもたもたしているうちに、伊奘冉尊は既に共食の儀により新コミュニティー・黄泉の一員となってしまっていたという訳です。
まさに因果応報。
追いかけるという選択肢があったなら(後々知ったというなら別ですけれども)、泣き喚いたりわが子に八つ当たりしたりなんかしている暇に、さっさと嫁を迎えに行っておけば、共食を阻止できたかもしれないのに。
その挙げ句。
「私はもう休もうと思うけれど、お願いだから寝姿を見ないで」。
伊奘冉尊の哀願を端から無視で、密かに湯津爪櫛を取り出し、その雄柱(櫛の両端の太くて大きい歯)を折り取って、手に持つ火(でかいな!)とした伊奘諾尊。
見てみれば、伊奘冉尊の寝姿には膿がわいて蛆がたかっていた。
今(っていつ? 執筆当時?)、世間の人々が夜に火を一つだけにするのを避けようとしたり、夜に櫛を投げる(するか? そんなこと)のを避けようとしたりするのは、この由縁である(何? 嫌な目に遭わないため? いやいやいや今回は完全に伊奘冉尊は被害者でしょ)。
この期に及んで伊奘諾尊が大いに驚いて言うことには「私は思いがけなくも不要な、嫌な目に遭う汚れ穢れた国に行き着いていたことだ!」(何の覚悟もなく、行き当たりばったりで乗り込んできたの!?)。
すぐさま速やかに逃げ帰る(変わり身早いな!)。
それに際して伊奘冉尊が恨んで言うことには「どうしてお願いを無視して、私に恥をかかせたの」(全く以てその通り)。
すぐさま泉津醜女(一説には泉津日狹女)を八人も遣わして追いかけ、伊奘諾尊を足留めしようとする(目的は何だ?)。それで伊奘諾尊は剣を抜いて、後ろ手に振りながら逃げる。黒鬘(要はヅラ? それとも黒い髪飾り?)を投げてみると、これはすぐさま葡萄に変身した(桃パワーは使わないんだ。『淮南子』の影響を受ける前の話なのかな)。醜女はこれを見て採って食う(任務より食い気?)。食い終わってから更に追いかける。
伊奘諾尊はまた湯津爪櫛(さっき雄柱を使ったヤツか)を投げれば、これはすぐさま筍に変身する(やっぱり桃パワーじゃないんだ。醜女は鬼じゃないから通じないって言いたいのかな)。醜女はまた抜いて食う(よく食うな)。食い終わってから更に追いかける。
その後ろから伊奘冉尊もまた自ら追いかけてやってきた。
この時既に伊奘諾尊は泉津平坂に到っていた(一書(って何の?)に言うことには、伊奘諾尊が大樹に向かって放尿した。これがすぐさま大河に化けた。泉津日狹女がまさにその河水を渡ろうとする間に、既に伊奘諾尊は泉津平坂に到っていた)。
それで、すぐに千人がかり(もし人が引くならってこと? でも伊奘諾尊も伊奘冉尊も神だよね? あ、伊奘冉尊は引退してた?)で引かないと動かないような大岩を使ってその坂道を塞ぎ、伊奘冉尊と互いに向かい立って、遂に「絶妻之誓」を言い渡した(勝手に遅れてきて勝手に姿見て失望して勝手に監禁した挙句、絶縁宣言か。ビッグはやることが違うなー!)。
この時に伊奘冉尊は言う。
「愛しいわが夫君(本心? 厭味?)がそのように言うならば、私はあなたの治める国の民を日に千頭(神にとっての人の単位って一頭・二頭ってこと?)、絞め殺そうとしてやらなければなりません」(「吾當縊殺汝所治國民日將千頭」。「矣」のない、実に理性的な発言です)。
伊奘諾尊はそこで言い返す。
「愛しきわが妻(これは厭味だな。本心ならもうちょっとやりようがあるだろう)がそのように言うならば、私はすぐにでも日に千五百頭の国民を産もうとしてやらなければならないな」。
そして言った。
「ここを超えて入ってきてはならん」。
すぐに杖を投げた(勿論神が生まれます)。
…これってどうなんだろう、伊奘諾尊と伊奘冉尊、どっちの言葉としても読めるような気がしないでもない(この後の展開を読めば、多分、伊奘諾尊なんだろうけれども)。
今回のことで懲りたでしょう、もう黄泉には来ないで(説得力ある!)、とも読めるし、
今回のことで懲りたから、こっちには来てくれるな(これは単なる伊奘諾尊の被害妄想。そもそも伊奘冉尊は伊奘諾尊の許に戻りたいなんて一ッ言も言ってないしね)、とも読めるし。
自分が着ていた帯を投げ、服を投げ、褌を投げ、履を投げ、次々に神を生む伊奘諾尊(マッパ?)。
その泉津平坂(あるいは泉津平坂というのはどこか別の場所のことではなく、ただ死に臨んで息の絶える今わの際、このことを言うのか)を塞ぐ大岩、これもまた神になった。
伊奘諾尊は既に逃げ帰ってきて(どこへ? ホームアイランド磤馭慮嶋?)、そこで(伊奘冉尊を)追いかけたこと、これを悔いて言うことには(調子良いな)、「私は先ほど不要な、嫌な目に遭う汚れ穢れた所に行ってきた。だから私の身の穢れを洗い流そう」。
それで出かけていって、筑紫(って筑紫洲?)の日向の小戸の橘の檍原(うん、どこだろう? 一書第十と同じところよね?)に到ったところで、禊ぎと祓いをする。
とうとう体の穢れたものを濯ごうとした。それで心に任せて言うことには、「上流は流れが速すぎる。下流は流れが弱すぎる。中流で体を濯ごう」。
それで中流で濯いだり、海底に沈んで濯いだり、潮の中に潜って濯いだり、潮の上に浮かんで濯いだり、かなり執拗に濯ぎをして、次々に神を生みまくる。
合わせて九神がいたのだ!
そのうちの三柱は住吉大神(そういえば宮崎にあるね、住吉神社)なのだ!
そのうちの三柱は阿曇連(って誰だよ? 唐突だな)等が祭る神なのだ!
…こんなタイミングで『日本書紀』、魂の叫び。
その後、左眼を洗ったことで生まれた神を天照大神(ああ、一書のね)、右眼を洗ったことで生まれた神を月読尊(良かったね、名前があって)、また鼻を洗ったことで生まれた神を素戔嗚尊と言う(えー、それって尊いの?)。
そもそも三神なのだ!(ここでも『日本書紀』、魂の叫び)
既に伊奘諾尊は三人の子ども達に勅任(ん? 律令用語が何故ここで? 伊奘諾尊は律令国家の長なの?)して言うことには、「天照大神は、高天原を統治するがいい。月讀尊は、青海原の潮の八百重(ってどこ? ただの海じゃ駄目な訳?)を統治するがいい。素戔嗚尊は天の下を統治するがいい」。
この時、素戔嗚尊は既に大人になっていた!(ぼっちゃんったらいつの間に? もう「ぼっちゃん」なんて呼んじゃいけないかも。…じゃあ「ぼっさん」?) また握りこぶし八つ分の鬚髯も生えていた。しかし天の下を治めずに、常に声を上げて泣き、怒り恨んでいた(仕事を放棄してるだけ? 人畜無害な「引きニート」ってヤツ?)。
それで理由を尋ねた伊奘諾尊パパに素戔嗚尊ぼっちゃんの爆弾発言がさらりと炸裂。
「私はただ根の国で母に従いたくて(ん? これってこの一書では黄泉に根の国がある設定? いやそもそも伊奘冉尊とは別居中の無性生殖状態じゃなかったか?)泣くばかりです」。
これには伊奘諾尊パパも理性を失った魂の叫び。
「可以任情行矣(心に任せて行ってしまえ!)」
たちまちこれを追放した。
いやいやいや、長すぎでしょ。
一目で本文の長さを超えてるって分かるし、「ちょっとご紹介」ってレベルじゃないでしょう、これは。
それでも「何をどう考えてみても正統なのは本文で、伊奘冉尊引退を取り扱うこの説話はどんなに長かろうが面白かろうが、あくまでも一書(異説)に過ぎない」というスタンスを崩さないつもりか!?
『日本書紀』は伊奘冉尊を引退させるつもりなんかさらさらないし、ましてや死なせるはずもないんだ! って?
そうなってくるとぼっちゃんの感覚としては、伊奘冉尊ママは生まれてからこの方ずーっと黄泉に単身赴任中ってことになるのかな。なんてね。
実際、一書まで見ても、「神の死」はあくまでも「その直後の再生とセット」のいわゆる不死鳥的なもので、死にっぱなしというのはない感じ。
……まあ、死がどうのとか死体がどうのとか突き詰めていくと、「そもそも神に肉体はあるのか?」という根本的な問題にまで発展してきちゃうというか、盛大に横滑っちゃうというか、そんな気がしないでもないんですがね。
そういう意味では「伊奘冉尊引退」で終わっちゃってる話はちょっと…?
ただそういう先入観を掲げて一書を読み直すと、少なくとも現段階では、やっぱりどれも本文には太刀打ちできないような印象を受けてしまいます。
それにしても。
こんなにも一書(異説)が列挙されている意図は何だろう。
並び順にだって、きっと作為はあるはずなんだけれども。
とりあえず最大の問題児「一書第六(≒『古事記』)」に向けて、「第一」から「第五」まではじわじわと「一見『神の死』と見紛う『神引退』」に耐える下地を作っていった、というのは間違いないかなと思うんですが。
そこから「第七」「第八」と『日本書紀』の主張したい意味に添う形の「神の死(と再生)」ネタに一度振って、そこから対比する感じで「第九」「第十」ともう一度「第六」の焼き直しネタに振り戻して、「神の死(とそれに伴う再生)とはこうあるべきだ」と声高に主張する「第十一」が大トリ。…ってとこかな、うん。
そういう目で読み直せば、「伊奘冉尊の死体」と、「軻遇突智の死体」や「保食神の死体」とでは、全く描写や印象が異なることにも目が行きやすいし、話の派手さに惑わされずに、「神と人とは違うんだ、神の死を人の死と同等に描こうとするのはおかしい」っていう結論を導き出せるような気がします。多分。
読み返したらぼっちゃんが好きになってきました。