そのハーレムは入るに値せず
「有川さん、今時間は大丈夫かしら」
放課後の教室。帰り支度をしていた詩織は、掛けられた声に顔を上げた。そこにはクラスメイトの鳴海真由が立っていた。
鳴海の表情がどこか固いのを見て、詩織は内心で溜息を吐く。普段対して関わらない鳴海が、詩織に話したいこと。その話題が楽しいもので無いだろうことは、詩織にも簡単に想像できた。
詩織が断っても、きっと鳴海は諦めないだろう。そしてクラスメイトであるが故に、詩織は鳴海から逃げられない。ならば、今ここでちゃんと話を聞こう。
そう判断した詩織は、鳴海に向かって首肯する。
「大丈夫だよ。長い話でもするなら、ラウンジにでも行く?」
「……そうね、そうしましょうか」
詩織と鳴海は、無言で廊下を歩いていく。時折、すれ違った生徒たちが、珍しい組み合わせを見たとばかりに二人を振り返っていた。
この学校には、生徒たちがお弁当を買って直ぐに食べられるようにと、学生ラウンジが設けられている。学内では、お弁当などの食品は昼休み中にのみ販売される。そのため、現在のラウンジは閑散としたものだった。
そのラウンジの隅、窓側の席に、詩織と鳴海は腰を掛けた。差し込む西日が二人を柔らかく包み込む。
詩織は目の前の鳴海を見て、相変わらず絵になる人だな、と取り留めも無く思った。西日に照らされて、鳴海の髪の毛がきらきらと光って見える。まつげが落とす影すらも、肌とのコントラストが相まって目を引いた。
「それで、鳴海さん。お話って何かな」
その言葉に、鳴海は詩織を真っ直ぐに見つめる。
「有川さん、率直に聞くわ。貴方、智樹くんのことをどう思っているの?」
問われた詩織は、やはりその話か、と胸中で呟く。
智樹。近藤智樹。学内で、彼の名を知らない者などいないだろう。優秀で容姿の整った青年は、生徒会役員も務め上げている。そんな彼は、詩織の幼馴染だった。
「どう思っていると言われても。近藤は単なる幼馴染で、知り合いだよ」
「本当の本当に?」
「本当だよ。何で私に嘘を吐く必要があるの?」
「抜け駆けしているかもしれないじゃない」
抜け駆けと言われて、詩織はどういうことかと戸惑う。が、直ぐに答えを見つけた。
近藤は多くの女子生徒たちに好意を寄せられている。そして女子生徒たちの間でも一部の者だけが、近藤の好意を受けて彼の傍近くにいた。いわゆるハーレム状態が出来あがっているのだ。鳴海もそのメンバーでの一人である。
近藤のハーレムを形成する女子の間では、ある暗黙の了解があった。それは、見えないところで抜け駆けしないことであった。
自分達がいる前で近藤をデートに誘い、そのデート先で近藤に好意を向けて貰えるように行動するのは良い。だが、知らないところでやり取りするのは認めない。大まかに言えばそんなルールが、彼女たちの間には出来あがっていたのだった。
詩織は近藤のハーレムのメンバーではない。けれど彼女たちにとっては、自分たちのあずかり知らぬところで女子生徒が近藤の気を引こうとしているなど許せないことなのだろう。
「そんなことしないよ」
「本当に、そうかしら?」
詩織は素直に自分の気持ちを告げた。けれど鳴海の懐疑はそう簡単には解けないようだった。詩織としては、鳴海の疑いの深さが疑問であったが。
「何でそんなに疑うかなあ。そもそも私がその抜け駆けとやらをしたとして、近藤がこっちを向くわけがないと思うんだよね。だって、鳴海さんの方がずっと可愛いじゃない」
心の底から、詩織はそう思っている。自分の顔は嫌いではないし崩れているとも思わないが、容姿端麗とも言えない。客観的に見て、鳴海や他の近藤ハーレムの少女たちの方が詩織よりぐっと綺麗だった。
けれど、鳴海は小さく呟くのだった。
「でも、智樹くんは貴方を特別に思っている」
「はあ?」
面食らった詩織に、鳴海は言葉を重ねていく。
「多分、今はまだ恋じゃない。でも、智樹くんは私達と貴方では違う目で見ている。それがいつか本気の恋にならないって、誰が保障してくれるっていうの?」
「ちょ、鳴海さん、」
「だから貴方に尋ねにきたの。貴方は智樹くんのことをどう思っていて、どう関わっているのか。智樹くんが貴方を特別に思っているのは、貴方が何かしたからではないの?」
鳴海の真剣な問い掛けが、詩織を圧倒していた。詩織は、ここまで真剣に誰かを想ったことがない。だからかもしれない、彼女に自分の思いを誠実に伝えたくなったのは。
詩織は頭の中で自分の考えを言葉にする準備をしつつ、ゆっくりと口を開く。
「あのね。近藤が私を違う目で見ているとか、それは私には分からない。私は近藤ではないから。でも私本人は、近藤のことを恋愛対象として見ていないよ。例え近藤が私を好きだとしても、私はその気持ちに応えたくないって思っている」
詩織の言葉に、鳴海は息を呑む。きっと、あの近藤の好意に答えないという行動が、彼女にとっては有り得ない選択なのだろう。
驚きを噛み締めながら、鳴海は詩織に問い掛ける。
「どうして、って聞いてもいいかしら」
「変な理屈付けした話でも聞いてくれるなら」
詩織がそう言うと、鳴海はこくりと頷いた。それを確認してから、詩織は改めて口を開く。
「私、恋愛相手としては近藤のこと嫌いなんだ。ただの知り合いなら良いんだけど」
恋愛相手としては嫌い。それはどういうことなのだろうか。そう思って首を傾げた鳴海に、詩織は小さく笑った。
「あけすけな話題になるけどね、恋愛相手って究極的に言うと結婚相手でしょ?」
「そう、ね。突き詰めたらその通りね」
「私、結婚相手がハーレム築いているのって受け入れられない」
直球でその言葉を投げかけられたのは初めてだったのか、鳴海は目を丸くした。それを面白く思いながら、詩織は言葉を続ける。
「男の人にハーレム願望があるのは分かるよ。だから人として軽蔑なんてしないけど。でも自分の相手としてはごめんなんだ」
「待って。まず、その、ハーレム願望が分かるというのはどうしてなの?」
「正確に言うと、分かった気になっているだけなんだけどね。お勉強の結果かな」
「勉強?」
息をついてから、詩織は再び口を開く。
「生物の勉強。男性が精子をばらまいて、女性が卵子で受精する生き物だから」
その言葉に、鳴海の頬がかっと赤く染まった。これからもっとひどい言い方になるんだけど大丈夫かな、と思いつつも、詩織は歯に衣着せずに話を続ける。
「どんな生き物も、その目的は自分の遺伝子を残すことだって私は思ってる」
「科学的に見たら、そうかもね」
「その場合、女性の方が圧倒的に有利でしょう? だって、自分が妊娠すれば、絶対に自分の遺伝子を残せるんだから」
「…………」
無言の鳴海を置いて、詩織の口は止まらない。
「一方の男性は、自分の遺伝子を残すためには、なるべく多くの女性の卵子に対して精子をばらまいた方が得策なわけ。そして実際に色んな生き物がそれを行ってきている。それを知っているから、人として、生き物として、私は近藤を軽蔑したりしないの」
「その理論は、何となく分かるわ。でも、それは貴方が智樹くんを恋愛相手にしない理由にはならないわ」
鳴海の指摘は当然正しい。だが、詩織はそれに対する自分なりの解答もきちんと持ち合わせている。
「色んな生き物を見ると、女性は自分の遺伝子を残すために、より優秀な男性の遺伝子を得る為に行動してきたよね? じゃあ、『優秀』って何という話になる」
優秀。鳴海がその言葉を聞いて思い浮かべるのは、近藤智樹その人である。けれど、優秀に対する考えは個々の人間で違う。
「私は、それを子育てにおける利益だと思っている。例えば経済性、例えば育児における積極性、色んな物があるけれど。子育てがしっかりと出来なければ、自分の遺伝子は未来に残せないでしょう?」
「智樹くんには、将来性だってあるし、人間性も良いと思うのだけれど」
ハーレムを作るような男の人間性が良いと言えるのか? 詩織はそう思いながら、鳴海の質問に答える。
「でも、ハーレムを作っていたら意味ないよね。今だって近藤の周りには、鳴海さんを含めて5人の女の子がいる。
例えば、全員と関係を維持して、それぞれに子どもが一人生まれたとするよ。近藤の年収が1000万円だって、結局一組の親子当たり年収200万円じゃない。その上、近藤が子どもに関わる時間も五等分になるんだよ。それってどう?」
詩織の話を聞いて、鳴海は泣きそうな表情を浮かべている。けれど。鳴海にとってはそれでも。
「智樹くんは、そんなことしない。ちゃんと一人の女の子を選んでくれる。きっと、きっと」
「鳴海さんは近藤のことをそう思っているんだね。でも私はそう思ってないから」
「どうして」
「女の人が子どもを無事に産めるのって、ざっくりと考えて大体20歳から40歳までの20回くらいでしょう。男の人は毎日精子をばらまけるけど、女の人は回数制限があるんだよ」
「う、ん」
「回数制限があるのに、誰とも知らない女と寝て性病を持っているかもしれない男と、セックスしたくない」
「…………」
詩織は冷酷に過ぎるのではないかというほどの冷静な考えを告げる。
「その上、性病をうつされたら、卵管が癒着して妊娠できなくなるかも。そんなリスクを背負っていいと思えるほど、近藤が良い男には見えない」
勿論私にとってはだけど、と詩織は付け加えておく。
詩織の理屈に、鳴海はすっかり沈黙してしまった。そんな鳴海を眺めつつ、詩織は静かに口を開く。
「そろそろ、いいかな? 家に帰らないと親が心配するんだ」
「え、あ、もうそんな時間なの?」
時計の針はもう18時、いつの間にか二人を照らしているのは蛍光灯だけになっていた。
「鳴海さんも、お家の人が心配しているんじゃない? 帰ろう」
詩織が促すと、鳴海も慌てて椅子から立ち上がった。マフラーを巻いてコートを着て、スクールバックを肩に掛ける。
詩織は、お先に、と告げて歩を進める。と、背後から。
「ま、待って!」
「どうしたの?」
「もし、智樹くんが性病なんかじゃなくて、それで貴方一人を愛すると言ったら、有川さんは智樹くんを好きになるの?」
先程までの理屈の穴をつつかれて、詩織はそれでも笑ってみせる。
「近藤みたいなのって、出る杭は打たれるって感じじゃない? そういうピーキーなのより、安定している人の方が私のタイプ」
それが嘘か真か判断する術を、鳴海は持ち合わせていないが。
「じゃあね、鳴海さん。また明日」
言い切る詩織はとても力強かった。
「…………」
詩織の後姿を見つめながら、鳴海は考える。詩織は彼女なりに真剣に恋愛について考えていた。では、自分は、そして彼はどうだったであろう?
詩織ほど極端にならなくていいと思うが、それでも自分は少し考えが甘かったのではないだろうか。
詩織の話を聞いたくらいで、鳴海の近藤への想いは消えたりしない。けれど、その想いは根本から揺さぶられていた。