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第7話「雨と泥」(後編)

 雨が降り続けている。


 泥の中で膝をついたまま、ベルは動けなかった。ステッキが折れている。ギアがいない。変身が解けている。割れたメガネで、半分だけ鮮明な世界を見ている。


 ジャミングの歯が——動きかけたとき。


 「ベル!」


 声が聞こえた。遠くから。


 ルストの声。広場の端。走ってきている。鍛冶師の少年が、ハンマーを握って、雨の中を走ってきている。


 「立て! 逃げろ!」


 逃げる。


 そうだ。逃げるべきだ。勝てない。武器がない。変身が解けている。ここにいたら死ぬ。


 しかし——。


 ジャミングが——広場の歯車を食い続けている。ベルが倒れている間も。黒い歯が地中の歯車機構を砕き続けている。この歯車が全部食われたら——この街区の全ての機械が止まる。蒸気管が止まる。暖房が止まる。雨の中で。


 逃げたら——街が壊れる。


 逃げなかったら——自分が壊れる。


 手が——泥を掴んだ。


 泥を握りしめた。冷たい泥が指の間からはみ出した。


 「……勝てない」


 声が出た。泥水の中で。膝をついたまま。割れたメガネで。


 「私じゃ——勝てない」


 雨が降っている。


 泥だらけの女の子が、泥の中で膝をついている。壊れたステッキが横に転がっている。割れたメガネで、半分だけ鮮明な世界を見ている。


 ルストが駆け寄ってきた。ベルの腕を掴んだ。「立て。今は退け。ステッキは俺が——直せるかもしれない。退くんだ」


 「……直せるの?」


 「わからない。でもここにいたら死ぬ。退いてから考える。退いてから——直す」


 退いてから、直す。


 壊れたものは——直せるかもしれない。


 ルストに引っ張られて立ち上がった。膝が泥に沈んでいた。立ち上がるとき、水たまりに自分の顔が映った。


 泥だらけだった。


 髪が額に張りついている。頬に泥が飛んでいる。メガネが割れている。制服がぐしょ濡れで、膝が破れている。


 かっこよくない。


 魔法少女じゃない。ただの——泥だらけの女の子。


 ルストの手に引かれて、走った。広場から。裏路地に。雨の中を。泥をはねながら。壊れたステッキの残骸を、もう片方の手で握りしめながら。


          ◇


 裏路地の軒下。


 二人で座り込んだ。息を切らしながら。


 ジャミングは追ってこなかった。広場の歯車を食うことに集中している。しかし時間の問題だ。広場の歯車を食い尽くしたら——次の街区に移動する。


 ベルは膝を抱えていた。濡れた膝。破れたスカート。泥だらけの手で、自分の膝を抱えていた。


 折れたステッキを見下ろした。


 軸が真ん中から曲がっている。歯車エンブレムがない。蒸気パイプが千切れている。内部の歯車機構が——露出している。小さな歯車が見えている。曲がった軸に押されて、噛み合いがズレている。


 手を伸ばした。


 折れたステッキの内部に。指を入れた。小さな歯車に触れた。


 噛み合いがズレている。しかし——歯車自体は壊れていない。軸が曲がったから噛み合いが外れただけ。軸を直せば——歯車は回る。


 「……直せるかも」


 呟いた。


 ルストが顔を上げた。


 「今のか。見せろ」


 ベルがステッキを差し出した。ルストが受け取った。鍛冶師の目で見ている。曲がった軸を。千切れたパイプを。


 「軸は叩けば戻る。パイプは——繋ぐ材料がいる。何かないか」


 ベルはポケットを探った。ユーティリティベルトは変身が解けたときに消えた。しかし制服のポケットに——銅線が一本、入っていた。工房で使っていた残り。課題の歯車機構を組むときに余った切れ端。


 「これ」


 「足りない。もっと——」


 「待って」


 ベルは自分のメガネに手をやった。割れたメガネ。右のレンズは亀裂だらけで、フレームが歪んでいる。


 フレームの鼻あてに——小さなネジがある。精密ネジ。ステッキの内部歯車の固定に使えるサイズ。


 メガネからネジを外した。片方の鼻あてが外れて、メガネがさらに歪んだ。かけ直した。右目の視界がさらにズレた。しかし——見える。なんとか。


 「これ。ネジ」


 ルストがネジを受け取った。


 「……お前、メガネからネジ外したのか」


 「見えなくなるよりマシ。左目は生きてるから」


 ルストが鼻で笑った。「……馬鹿だな」


 「馬鹿で結構」


 二人で——軒下で、雨の音を聞きながら、折れたステッキを修理し始めた。


 ルストがハンマーで軸を叩いた。真っ直ぐに。ベルが銅線でパイプを繋いだ。ルストが鍛えた軸に、ベルが歯車を噛み合わせ直した。メガネのネジで歯車を固定した。


 完全な修理ではなかった。軸は微かに歪んだまま。パイプの接続は銅線で巻いただけ。歯車の噛み合いは元の精度に戻っていない。


 しかし——回る。


 歯車を手で回してみた。くるり。回った。軋む音がする。スムーズではない。しかし——回る。


 蒸気が——しゅっと漏れた。パイプの接続部から。しかし先端にも蒸気が届いている。弱い。元の三割くらい。しかし——出る。


 「……動く」


 「動くけど、出力は三割だ。さっきの化け物に通じるかどうか——」


 「通じなくてもいい」


 ベルが立ち上がった。


 膝が震えている。体が痛い。左腕が血で濡れている。メガネが割れている。制服が泥だらけ。


 しかし——手にステッキがある。修理されたステッキ。不完全な。三割の出力の。しかし——動く。


 「……行くの?」


 ルストの声が——低かった。止めようとしている声。しかし止められないと知っている声。


 「行く」


 「勝てないかもしれないぞ」


 「勝てなくてもいい。あの歯車を——全部食われる前に、少しでも時間を稼ぐ。その間に街の人を逃がす」


 「お前が——壊れるかもしれない」


 「壊れたら直して」


 ルストの手が——ハンマーを握りしめた。


 「……ああ。直す」


 ベルは走った。


 裏路地から。広場に向かって。雨の中を。


 泥だらけの制服で。割れたメガネで。修理されたステッキで。三割の出力で。


 変身はしなかった。


 メガネを外す余裕がなかった。変身のエネルギーが残っているかもわからなかった。だから——制服のまま走った。メガネのまま。


 広場が見えた。ジャミングが見えた。まだいた。歯車を食っている。


 ステッキを構えた。


 三割の出力。巨大なジャミングには通じないかもしれない。傷一つつけられないかもしれない。


 しかし——。


 走った。雨と泥の中を。叫んだ。


 何を叫んだか、自分でもわからなかった。言葉ではなかった。声だった。恐怖と怒りと、壊れた街への——何か。名前のない感情。


 ステッキの先端から——光が出た。弱い光。以前の三割。しかし——出た。


 光がジャミングの歯に当たった。


 ——弾かれなかった。


 弱い光が歯の表面に張りついた。食い込んだ。溶かした——わけではない。しかし歯の回転が——一瞬、止まった。


 一瞬だけ。


 しかし一瞬、ジャミングの食事が止まった。歯車が——砕かれずに済んだ。一枚だけ。


 もう一発。


 弱い光。歯に当たる。一瞬止まる。歯車が一枚救われる。


 もう一発。もう一発。


 勝てない。倒せない。しかし——遅らせている。一発ごとに一瞬ずつ、ジャミングの破壊を遅らせている。


 その間に——広場の向こうで、人々が逃げている。ルストが声を張っている。「こっちだ! 早く!」。子供を抱えた男。老人の手を引く女。走っている。広場から。


 ベルは撃ち続けた。


 三割の出力で。泥だらけの制服で。割れたメガネで。雨に打たれながら。


 膝が折れた。


 力が尽きた。ステッキの先端から蒸気が漏れて、光が消えた。出力ゼロ。


 泥の中に膝をついた。


 二度目の膝。


 手をついた。泥の中に。さっきと同じ。泥と水と血。


 しかし今度は——広場に人がいなかった。全員逃げた。ルストが逃がした。


 ジャミングは——まだいる。歯車を食っている。しかし——もう食う歯車が少ない。ベルが遅らせた時間で、最も大事な主軸の歯車は食われずに済んだ。街区の完全停止は——免れた。


 泥の中で。膝をついたまま。雨に打たれながら。


 ギアが——戻ってきた。


 どこにいたのかわからない。吹き飛ばされて、雨の中を飛んで、やっと戻ってきた。翅が片方折れている。光が弱い。しかし——ベルの肩に降りた。


 「……馬鹿」


 ギアの声が——震えていた。


 「変身もしないで突っ込んで。三割の出力で。勝てるわけないでしょ」


 「……勝ててないよ」


 「知ってるわよ」


 「でも——逃げた。みんな」


 ギアが黙った。


 雨が降っている。泥だらけのベルの肩の上で、翅の折れた妖精が——黙っている。


 「……逃げたわね。みんな」


 「うん」


 「ステッキは」


 「壊れた。また」


 「直す?」


 「……直す。ルストに——直してもらう」


 泥の中で。雨の中で。割れたメガネで。壊れたステッキで。


 勝てなかった。倒せなかった。ジャミングはまだいる。


 しかし——人は逃がした。歯車は守った。全部ではない。しかし——主軸は残った。


 百点ではない。


 でも——ゼロでもない。


 ベルは泥の中から立ち上がった。三度目の膝。立ち上がるたびに——泥が増えている。一度目はきれいだった。二度目は濡れていた。三度目は——全身泥だらけ。


 しかし立った。


 立って——ルストの方を見た。広場の端。ルストが手を振っている。


 歩き始めた。ルストの方に。泥を踏みながら。雨に打たれながら。壊れたステッキを抱えて。


 かっこよくない。


 魔法少女じゃない。


 ただの——泥だらけの、メガネが割れた、十六歳の女の子。


 しかし——歩いている。


 壊れたものを抱えて。直すために。

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