第7話「雨と泥」(前編)
雨が降っていた。
朝から降っていた。クロックハイムの煙突が雨雲の中に消えている。路面電車のレールが濡れて光っている。歯車の回る音に、雨粒が石畳を叩く音が混じっている。
ベルは工房にいた。学校の地下の工房。放課後。窓の外は灰色。
課題の歯車機構を組んでいた。十二個の歯車。自律駆動。先週から取り組んでいる。八個目まで組み終わった。残り四個。
かちり。かちり。
九個目。十個目。順調だった。手が覚えている。歯車を組むのは——呼吸と同じだ。考えなくても指が動く。
雷が鳴った。
窓が白く光って、一拍遅れて空気が震えた。近い。工房の蛍光灯が一瞬ちらついた。
——嫌な予感がした。
ギアが翅を広げた。ベルの肩の上で。四枚の翅が橙色に光っている。警告色。
「来る」
ギアの声が硬かった。いつものはきはきした声ではない。
「大きいわ。今までで一番——大きい」
工房の床が——揺れた。
地鳴り。歯車の街が震えている。大時計の方角から。街の中心から。
ベルは歯車機構を置いた。八個目まで組んだ課題を、作業台の上に。
ステッキを取った。壁に立てかけてあった蒸気歯車のステッキ。握った。内部の歯車が回り始めた。
工房を出た。
走った。
◇
雨の中を走った。
石畳が滑る。水たまりを蹴る。制服が濡れる。メガネに雨粒がついて視界が歪む。
中央広場に出た。
見えた。
巨大だった。
今までのジャミングとは桁が違った。街の時計塔と同じ高さ。黒い歯車の形をした影が、広場の中央にそびえていた。歯が——十二本ではない。数えきれない。何十本もの歯が、不規則な角度で突き出ている。七十度。八十度。九十度。全ての角度が——間違っている。
歯車の怪物が——噛んだ。
広場の地面に埋め込まれた歯車機構に、黒い歯が食い込んだ。石畳が砕けた。地中の歯車が軋んで、悲鳴のような音を上げた。
「変身して! 早く!」
ギアの声。
メガネを外した。世界がぼやけた。雨と灰色の空が溶け合った。
「ロードアウト——アイアン・ブート!」
光が走った。装甲が現れた。歯車翼が展開した。蒸気が噴き出した。
「魔法少女アイアン・ベル——起動!」
視界が鮮明になった。変身が視力を補正した。雨粒の一つ一つが見えた。ジャミングの歯の一本一本が見えた。
巨大だった。
近くで見ると——もっと巨大だった。ベルの身長の二十倍はある。歯の一本がベルの体より大きい。
「弱点は?」
「わからない。こんな大きさのジャミング、初めてだから——」
ギアの声が——震えていた。ギアが震えるのを、ベルは初めて聞いた。
構えた。ステッキを前に突き出した。歯車エンブレムが回転している。蒸気が噴き出している。
走った。
ジャミングの足元に向かって。黒い歯車の根本に。収束光を——。
ステッキの先端から光が放たれた。白い光の柱。影の魔獣を散らした光。スライムを蒸発させた光。
光がジャミングの歯に当たった。
——弾かれた。
光が散乱した。白と金の収束光が四方に散って——虹色の破片になった。雨粒が虹色の光を反射して、一瞬だけ広場が宝石のように輝いた。美しかった。しかし——無力だった。美しいだけで、ジャミングの歯には傷一つついていない。
「硬い——!」
もう一度。出力を上げた。ステッキの内部歯車を全速回転させた。蒸気が白い柱になって噴き出した。
光が——当たった。
弾かれた。
三度目。四度目。五度目。
全て弾かれた。
ジャミングの歯が——動いた。
ベルに向かって。
黒い歯の一本がベルの真上に落ちてきた。影が——空を覆った。
「避けて!」
ギアの叫び。
横に飛んだ。右に。石畳の上を転がった。衝撃。黒い歯が石畳に激突した。地面が爆発するように砕けた。石の破片が飛んだ。破片がベルの腕を掠めた。
痛い。
左腕。装甲の隙間に石の破片が入った。血が出ている。
立ち上がった。ステッキを構え直した。
ジャミングの歯が——もう一本、動いた。
今度は横から。
ステッキで受けた。
受けられるはずがなかった。ベルの体重の何百倍もある黒い歯の打撃を、片手のステッキで受けられるはずがなかった。
ステッキが——折れた。
折れた。
真ん中から。金属の軸が曲がって、歯車エンブレムが弾け飛んで、蒸気パイプが千切れた。白い蒸気が傷口から噴き出した。悲鳴のような音を立てて。
ベルの体が吹き飛んだ。
石畳の上を跳ねた。二回。三回。水たまりの中に落ちた。泥水が跳ねた。
◇
背中が痛い。
全身が痛い。
水たまりの中に仰向けに倒れていた。雨が顔に当たっている。空が見える。灰色の空。雨粒が——ぼやけている。
ぼやけている。
変身が——解けていた。
装甲が金色の粒子になって散っていく。雨に溶けるように。一枚ずつ。肩アーマーが光の粒になった。胸部装甲が光の粒になった。歯車翼が——六枚の光の歯車になって、回転しながら空に昇って、消えた。
美しかった。変身が解ける瞬間は——いつも少しだけ美しい。しかし今は——悲しい美しさだった。雨の中で。泥の中で。敗北の後で。
制服に戻っている。濡れた制服。泥だらけの制服。
メガネが——ない。
変身が解けたとき、メガネが顔に戻るはずだった。いつもはそうだった。変身を解くとメガネが戻る。
しかし——戻らない。
顔に手をやった。メガネがない。
首を動かした。横を見た。ぼやけた視界の中に——銀色の何かが光っている。水たまりの端。メガネだ。
手を伸ばした。掴んだ。
割れていた。
右のレンズにひびが入っていた。放射状の亀裂。レンズの中心から端まで。フレームも歪んでいる。右のつるが曲がっている。
かけた。
世界がくっきりした——半分だけ。左目は鮮明。右目は亀裂で歪んでいる。一つの世界が、二つに割れて見える。
ジャミングが——まだいた。
広場の中央に。黒い歯車の影が、雨の中にそびえている。ベルを見ている——見ているかどうかはわからない。しかし歯が——ベルの方を向いていた。
ステッキが——目の前に落ちていた。折れたステッキ。真ん中から曲がった軸。弾け飛んだ歯車エンブレムは——どこにあるかわからない。蒸気パイプから白い蒸気がしゅうしゅうと漏れている。もう——使えない。
武器がない。
変身が解けた。メガネが割れた。ステッキが折れた。
全部——壊れた。
水たまりの中で、膝をついた。
手をついた。泥の中に。冷たい水と泥が、手のひらに広がった。
手を見た。
自分の手。歯車職人の父に似た、大きな手。お父さんに「歯車を組むのが上手い手だ」と言われた手。
泥だらけだった。
泥と水と血。左腕から流れた血が、手の甲を伝って、指先から泥水に落ちている。壊れた装甲の破片で切れた掌が——赤い線を引いている。
ステッキを握ろうとした。折れたステッキの柄を。
握れなかった。
指が——震えている。寒さではない。恐怖。巨大なジャミングがまだそこにいる。歯がベルの方を向いている。次の一撃が来たら——もう避けられない。変身が解けた状態で、人間の体で、直撃を受けたら——。
死ぬ。
死ぬかもしれない。
「……ギア」
声が掠れた。雨の音にかき消される。
「ギア——」
返事がなかった。
ギアが——いない。肩の上にいない。吹き飛ばされたとき、離れたのだ。どこかに——。
雨が降っている。
武器がない。仲間がいない。変身が解けている。メガネが割れている。
泥の中で——ベルは一人だった。
ジャミングの歯が——また動いた。ゆっくりと。ベルの方に向かって。食い終わった歯車から、次の獲物に——目を移すように。
逃げなければ。
足が動かない。膝が泥に沈んでいる。体が重い。恐怖が足を縫い止めている。
雨が——冷たかった。
泥だらけの手を見た。血が混じった泥水。この手で——何ができる。ステッキが折れた。光が出ない。歯車が組めても、敵は倒せない。
——お父さん。
お父さんなら、壊れたものを前にして座り込んだりしない。お父さんは言った。「壊れたら直せ。直せないなら、直せる奴を探せ」。
直せる奴。
しかしここには——誰もいない。




