第6話「フェーダーの旋律」
蒸気オルガンの音が聞こえた。
放課後の帰り道。第五街区の運河沿い。橋の下から——旋律が漏れている。
ベルは立ち止まった。
軽い音。跳ねるような旋律。蒸気の噴射音がリズムを刻み、金属の弦がメロディーを紡ぐ。蒸気オルガン——クロックハイムの伝統楽器。蒸気の圧力で弦を震わせ、歯車でテンポを制御する。機械仕掛けの楽器。
上手い。
ベルは音楽に詳しくない。歯車の話ならいくらでもできるが、音楽は——聞くだけ。しかし「上手い」くらいはわかる。音が澄んでいる。リズムが正確。しかも正確なだけではなく——揺れがある。機械のように正確なのに、どこか人間の呼吸がある。
橋の下を覗いた。
少女が一人。
ベルと同い年くらい。長い黒髪が腰まで伸びている。細い体。白い指が鍵盤の上を走っている。蒸気オルガンを首から下げて——座り込んでいる。橋の下の石畳に。
目を閉じて弾いていた。
ベルは——聞いていた。立ったまま。橋の欄干に寄りかかって。旋律が終わるまで。
旋律が止まった。
少女が目を開けた。ベルと目が合った。
「……聞いてた?」
「聞いてた。上手いね」
「ありがとう。でも——上手いだけじゃ意味がないの」
少女がオルガンの鍵盤を撫でた。
「蒸気楽師は音楽家じゃない。技術者なの。音で歯車を調律する。工場の歯車が軋んだとき、音を当てて回転を整える。それが蒸気楽師の仕事」
「音で歯車を……?」
「共鳴よ。全てのものには固有の振動数がある。歯車にもある。正しい振動数の音をぶつければ——歯車は正しい回転に戻る。逆の振動数をぶつければ——回転が止まる」
ベルの頭の中で——何かが繋がった。
歯車の矯正。ベルはステッキで物理的に歯車の角度を変えていた。しかし音で振動を与えて回転を制御するなら——触れなくても矯正できる。
「すごい。それって——遠くの歯車にも効くの?」
「音が届けばね。ただし精度が必要。歯車の素材と大きさと回転速度に合わせて、正確な周波数を出さないと——逆効果になる。歯車を壊すこともある」
少女が立ち上がった。オルガンを首から下げ直した。ベルより少し背が低い。百五十二センチくらい。
「フェーダー。蒸気楽師科二年——だったんだけど、先月退学した」
「退学?」
「蒸気楽師科の先生と合わなかった。『音楽は正確さが全てだ』って。でも私は——正確なだけの音は、歯車に届かないと思ってる。揺れがないと。人間の呼吸がないと」
フェーダーの目が——一瞬だけ、暗くなった。
「退学したら——家にいられなくなった。うちは楽師の家系だから。楽師科を辞めた娘は——いないのと同じ」
橋の下にいる理由が——わかった。家に帰れないのだ。帰る場所がないから——ここで弾いている。
フェーダーの指がオルガンの鍵盤を一つ、ぽんと押した。高い音が橋の下に響いた。
「揺れのない音は機械と同じ。機械の音で歯車を調律しても——表面しか直らない。深いところまで届くのは、人の揺れがある音だけ」
ベルは——この少女が好きだと思った。会って三分で。歯車の話を初対面でここまでできる人間は——ベルの人生で、ルスト以外にいなかった。
「私はベル。クロックハイム技術学校の電子科二年」
「電子科? 歯車屋さん?」
「歯車屋さん」
フェーダーが微笑んだ。小さな笑み。控えめだが——目が笑っている。
「歯車屋さんと蒸気楽師。面白い組み合わせね」
ギアが肩の上で翅を広げた。ベルにだけ聞こえる声で。
「この子、使えるわよ。音で歯車を制御できるなんて——戦闘で相当役に立つ」
——使えるって言い方はどうなの、ギア。
◇
翌日。
その翌日には——フェーダーの「使える」が証明された。
第五街区の運河沿い。夕方。フェーダーとベルが橋の下で話していたとき——地面が揺れた。
ジャミング。小型。しかし——数が多い。八体。運河の護岸壁に沿って、歯車機構を食い荒らしている。護岸壁の中には水門を制御する歯車が埋まっている。これが食われたら——運河が氾濫する。
「フェーダー、離れて——!」
ベルはバックパックからステッキを取り出した。
メガネを外した。変身した。
「ロードアウト——アイアン・ブート!」
「魔法少女アイアン・ベル——起動!」
八体。多い。一体ずつ倒すしかない。収束光で——いや、歯車型だ。歯車の矯正で。一体三十秒として——四分。
四分で運河の歯車がどれだけ食われるか。
走った。一体目に向かって。ステッキの歯車エンブレムを当てた。矯正。がちん。砕けた。金色の粒子。
二体目。走る。当てる。矯正。砕ける。
三体目——。
背後で歯車が砕ける音がした。振り返った。五体目と六体目が護岸壁の歯車を食っている。水門の制御歯車。すでに半分食われている。
間に合わない。三体目を倒している間に——残りが食い進む。
「——ベル!」
声が飛んできた。
フェーダーだった。
橋の上に立っている。逃げていなかった。蒸気オルガンを構えている。
「八体の回転速度——全部同じ?」
「え——わからない——たぶん同じ! 小型は規格が同じだから!」
「なら——いける」
フェーダーの指が鍵盤を叩いた。
低い音が運河に響いた。
そして——音が、見えた。
フェーダーのオルガンから放たれた音が、空気中に金色の波紋として広がっていく。水面に石を投げたときの波紋のように。音が光になっている。蒸気楽師の音が——蒸気歯車の精霊の力と共鳴して、目に見える波動になっている。
金色の波紋がジャミングに触れるたびに——動きが鈍った。八体同時に。波紋が歯車の回転に逆位相でぶつかって、回転を——遅くしている。
「今のうちに——!」
ベルが走った。三体目。矯正。砕ける。四体目。砕ける。五体目。砕ける。
フェーダーの音が続いている。指が鍵盤を走っている。目を閉じて。額に汗。集中している。八体分の逆位相を同時に出すのは——相当な負荷のはずだ。
六体目。七体目。
八体目——最後の一体が、護岸壁の歯車に食いついている。水門の制御歯車の最後の一枚。ここが食われたら——水門が開く。
ステッキを突き出した。歯車エンブレムを当てた。矯正——。
がちん。
砕けた。
最後のジャミングが散る瞬間——ベルのステッキの金色の光と、フェーダーのオルガンの金色の波紋が、空中で交差した。光と音がぶつかった場所に——虹色の波紋が広がった。運河の水面を虹が走った。護岸壁の歯車が虹色に光った。
金色の粒子が夕日に溶けた。虹色の波紋が薄れていく。しかし消えるまでの数秒間——運河が、魔法のように美しかった。
八体。全滅。
護岸壁の歯車は——ギリギリ残った。水門は閉じたまま。運河は氾濫しなかった。
◇
変身を解いた。メガネをかけた。
フェーダーが橋から降りてきた。オルガンを首から下げたまま。指が——震えていた。
「……すごかった」
ベルが言った。
「八体同時に遅くするなんて——」
「遅くしただけ。止められなかった。もっと精度を上げれば——完全に止められるかも」
「十分だよ。フェーダーが遅くしてくれなかったら、水門の歯車が食われてた」
フェーダーの目が——揺れた。
「……役に立てた?」
「立った。すごく」
「……そう」
フェーダーが微笑んだ。さっきより少しだけ大きな笑み。
「ねえベル。さっきの——あなたが変身したやつ。魔法少女って——本当にいるの?」
「いるみたい。先週から」
「先週から魔法少女なの?」
「先週から」
フェーダーが笑った。声を出して。
「先週から魔法少女。なのに八体倒すの。すごいわね」
「一人じゃ間に合わなかった。フェーダーがいなかったら——水門壊れてた」
「……じゃあ、私も役に立てるのかな。蒸気楽師として」
「立てる。絶対に」
フェーダーがオルガンの鍵盤を撫でた。
「蒸気楽師科を退学して——やることなくて、毎日橋の下で弾いてた。誰に頼まれたわけでもなく。ただ弾きたいから弾いてた」
「それでいいと思う。弾きたいから弾く。歯車が好きだから組む。理由なんて——それだけでいい」
夕日が運河を橙色に染めていた。水面に歯車のシルエットが映っている。護岸壁の歯車。食われかけて、しかし残った歯車。
「ベル」
「うん」
「また出る? あれ」
「出る。毎日」
「……私も来ていい?」
ベルは——笑った。
「来て」
一人だった。最初は。
ルストが来た。ステッキを直してくれた。
フェーダーが来た。歯車を遅くしてくれた。
一人では間に合わないことが——二人いれば間に合った。二人では足りないことが——三人いれば届くかもしれない。
歯車は一つでは回らない。噛み合う相手がいて、初めて動力が伝わる。
橋の下で、フェーダーがオルガンを弾き始めた。軽い旋律。さっき初めて聞いた曲。しかしもう——耳に残っている。
ベルはメガネの奥で目を細めた。夕日が眩しかった。
歯車が回っている。
一つじゃなく——二つ。三つ。噛み合って。




