第5話「知らない街の歯車」
クロックハイムの外に出たのは——初めてだった。
路面電車の終点。そこから蒸気機関車に乗り換えて四十分。隣街ツァーンベルク。
日曜日。学校は休み。ギアが「隣街にジャミングの気配がある」と言い出したのは昨夜のことで、ベルは「隣街って行けるの?」と聞いた。ギアは「電車で行けるわよ」と答えた。魔法少女も電車に乗るらしい。
蒸気機関車の窓から景色を見た。クロックハイムの煙突の列が遠ざかっていく。畑が見えた。風車が見えた。——風車も歯車で動いている。この世界は全部歯車だ。
ツァーンベルクの駅に降りた。
——違う。
空気が違った。クロックハイムの蒸気の匂いではない。もっと乾いている。煙突が少ない。街並みが低い。石造りではなく木造の建物が多い。
そして——歯車が違った。
地面を見た。石畳の下に歯車機構が埋まっている。クロックハイムと同じ。しかし——。
「回転方向が逆だ」
呟いた。
クロックハイムの歯車は右回り。ツァーンベルクの歯車は——左回り。同じ蒸気動力の街なのに、歯車の基本回転方向が逆。
「ギア。なんで逆なの?」
「街ごとに大時計の設計が違うの。クロックハイムは右回り基準。ツァーンベルクは左回り基準。どちらも千年前の設計よ」
左回り。ベルの体が覚えている歯車の感覚は——全部右回り。四十五度の角度も、噛み合いのリズムも、右回りが前提。
左回りでは——感覚がズレる。
「……嫌な予感がする」
「勘がいいわね」
ギアの翅が橙色に変わった。
広場の中央——ジャミングが現れた。
◇
変身した。三行で終わる手順にも慣れた。メガネを外す。ステッキを握る。叫ぶ。
「ロードアウト——アイアン・ブート!」
「魔法少女アイアン・ベル——起動!」
装甲。翼。蒸気。視界が鮮明になった。
ジャミングを見た。中型。クロックハイムで倒してきたものと——同じサイズ。歯車の形をした黒い影。歯が十二本。
しかし——回転方向が逆だった。
クロックハイムのジャミングは右回りに歯車を噛む。このジャミングは左回りに噛んでいる。ツァーンベルクの歯車に合わせて。
「収束光で——」
ステッキの歯車エンブレムを回した。収束光を撃った。
当たった。靄が散った——しかし核がない。
「核がない——!?」
「歯車型のジャミングに靄はないでしょ! 靄型と歯車型は別よ! こっちは最初の戦いと同じ方法——歯車の矯正!」
そうだった。混乱していた。歯車型には歯車の矯正。靄型には収束光。間違えた。
ステッキの歯車エンブレムを直接ジャミングの歯に——噛み合わせる。四十五度で。
走った。ジャミングの足元に。
歯車エンブレムを当てた。四十五度——。
噛み合わない。
歯が滑った。ステッキの歯車がジャミングの歯の上を滑って、火花を散らした。
「——なんで」
「逆回転よ! あなたのステッキは右回り基準! このジャミングは左回り! 同じ角度で噛み合わせても——回転方向が合わない!」
右回りのステッキで左回りの歯車を矯正しようとしている。歯車が同じ方向に回らないと——噛み合わない。当然だ。基本中の基本。しかし体が右回りしか知らない。
ジャミングの歯が——動いた。ベルに向かって。
横に跳んだ。間一髪。黒い歯が石畳を砕いた。
「どうすれば——右回りのステッキで左回りの歯車を——」
考えろ。技術者として。
右回りと左回り。逆の回転。逆の噛み合い。しかし——歯車の基本原理は同じ。角度が合えば噛む。角度が合わなければ滑る。
四十五度は右回りの最適角度。左回りの最適角度は——。
「百三十五度」
声が出た。
四十五度の補角。百八十度から四十五度を引いた角度。右回りの四十五度と、左回りの百三十五度は——鏡像の関係。左右が反転しただけ。
ステッキを持ち替えた。右手から左手に。
その瞬間——背中の歯車翼が、止まった。
六枚の歯車が一斉に停止して——逆回転を始めた。がちり。がちり。がちり。右回りだった翼が、左回りに。ベルの体を包む蒸気の流れが反転した。髪が逆方向に靡いた。
利き手ではない。左手でステッキを握るのは初めてだった。内部歯車の振動が——ぎこちなく伝わってくる。しかし歯車翼が逆回転しているから——ステッキの力も反転している。右回りの世界の道具が、左回りの世界に適応した。
走った。ジャミングの足元に。左手で。不慣れな手で。
歯車エンブレムを当てた。百三十五度——ではない。左手で持った時点で角度が反転している。だから意識するのは四十五度のまま。体が覚えている角度のまま。ただ手が左なだけ。
がちん。
噛み合った。
左回りのジャミングの歯車が——ステッキの歯車で矯正された。
ステッキの先端から——二色の光が噴き出した。金色と銀色。右回りの光と左回りの光が、互いに絡み合いながら螺旋を描いて上昇した。二つの回転方向が融合する光。見たことのない色だった。
ジャミングが——震えた。崩れた。黒い破片が二色の粒子に変わって散った。金と銀が混じり合いながら、ツァーンベルクの空に溶けていった。
勝った。
しかし——左手が痺れていた。利き手ではない手で歯車を矯正した衝撃が、腕全体に残っている。
◇
変身を解いた。メガネをかけた。
ツァーンベルクの広場。日曜日の午前中。幸い人通りが少なかった。
左手を振った。痺れが取れない。
「……左手はきつい」
「でもできたでしょ。右回りの道具で左回りの世界に対応した。応用力があるわ」
「応用力っていうか——場当たり的っていうか」
「場当たり的でも勝てば百点よ」
百点ではなかった。噛み合わせるまでに二回失敗した。最初の収束光は完全な間違い。左手に持ち替えるまで時間がかかった。クロックハイムなら一分で終わる戦闘が——五分かかった。
しかし——勝った。知らない街で。知らない歯車で。知らない回転方向で。
「ベル」
「何」
「この世界には、クロックハイムとツァーンベルク以外にも街がある。右回りでも左回りでもない——もっと複雑な歯車体系の街もある」
「……つまり、毎回適応しなきゃいけないってこと」
「そういうこと。同じ方法が通用するとは限らない」
帰りの蒸気機関車。窓の外の景色が逆に流れていく。クロックハイムの煙突が近づいてくる。
右回りの街。帰ってきた。
右手でステッキを握り直した。利き手の感触。安心する。しかし——左手の痺れが、まだ残っている。
知らない場所では、知っている方法が通じないことがある。そのとき——自分の手の使い方を変えられるかどうか。
「……お父さんに聞こう。左手で歯車を組む練習の仕方」
「いい心がけね」
「ギア、褒めた? 今の褒めた?」
「気のせいよ」
夕方のクロックハイム。煙突から蒸気が上がっている。右回りの歯車が回っている。
帰ってきた。でも——少しだけ世界が広くなった。




