最終回「リストア・コンプリート」(後編)
帰った。
家に帰った。お母さんが「おかえり」と言った。「ただいま」と言った。お風呂に入った。泥を落とした。制服を着替えた。朝ごはんを食べた。トーストと目玉焼き。いつもの味。
学校に行った。課題を出した。先生に「遅い」と言われた。「すみません」と言った。
昼休みに屋上でパンを食べた。フェーダーが隣でオルガンを弾いていた。まだ半分しか直っていないオルガン。しかし弾いている。あの旋律。歯車のモチーフ。
放課後。工房で歯車を組んだ。十三個目の歯車。新しい課題。
いつもの一日。
しかし——夕方。工房を出た後。
時計塔に向かった。一人で。
螺旋階段を登った。図書室を通り過ぎた。さらに上へ。誰も来ない階段。狭い。急。天井が低くなっていく。
屋上に出た。
時計塔の頂上。時計盤の裏側。八角形の石の手すり。風が強い。髪が靡いた。
クロックハイムが——足の下に広がっていた。
百万個の歯車の街。煙突の蒸気。路面電車。街灯。工場。パン屋。学校。鍛冶場。橋の下。お父さんの工場。お母さんがいる家。
全部が——動いている。歯車が回っている。四十五度で。唸りなく。正しい角度で。
風が吹いた。蒸気の匂いがした。鉄の匂い。油の匂い。パンの匂い。——この街の匂い。
ギアが肩の上にいた。四枚の翅が金色に光っている。
「……ギア」
「何」
「変身していい?」
「……敵はいないわよ。ジャミングはもう出ない」
「わかってる。——でも変身したい」
ギアが——翅を広げた。何も言わなかった。しかし金色の光の粉が、ベルの肩に降り注いだ。
メガネを外した。
世界がぼやけた。しかし——ステッキを握った瞬間、世界が変わることを知っている。
ステッキを握った。歯車エンブレムが回転を始めた。蒸気が噴き出した。
足元にギアシールが展開した。金色の巨大な歯車。時計塔の屋上の石の床に。精密な歯。軸。スポーク。全てが光の線で構成された魔法の歯車が——回転を始めた。
しかし——今日のギアシールは、今までと違った。
金色の光の中に——色が混じっていた。
赤い光。ルストの炉の火の色。鍛冶師が鋼を鍛えるときの赤。ギアシールの歯の一本一本に、赤い光が脈打っている。——ハンマーの頭を歯車にしたときの赤。あの鋼の赤が、今もここで光っている。 青い光。フェーダーの蒸気オルガンの音の色。楽師の声が空気を震わせるときの青。ギアシールの軸に、青い光が流れている。 緑の光。カリンの手帳のインクの色。記録者のペンが紙を走るときの緑。ギアシールのスポークに、緑の光が走っている。 白い光。グロックの管理者の光の色。五十年間大時計を守り続けた白。ギアシールの中心に、白い光が灯っている。
五色のギアシール。金色と赤と青と緑と白。五人の色が——一つの歯車に噛み合っている。
一人の変身ではなかった。五人の光を纏った変身だった。
光がベルの足元から立ち上った。
ブーツ。装甲スカート。歯車レース。胸部装甲。ガントレット。歯車翼——六枚の蝶のような翼が背中に展開した。歯車リボンが風に揺れた。髪の毛先が金色に輝いた。
ギアシールが収束してベルの胸のエンブレムに吸い込まれた。
「ロードアウト——アイアン・ブート」
ステッキを天に掲げた。蒸気が白い柱になって夕空に昇った。
「魔法少女アイアン・ベル——起動」
声は——静かだった。叫びではなかった。確認だった。
変身が完了した。
メガネのない目で——街を見下ろした。
鮮明だった。百万個の歯車が見えた。路面電車の歯車。街灯の歯車。工場の歯車。水道のポンプの歯車。全部が——回っている。四十五度で。千年ぶりに正しい角度で。
そして——歯車の向こうに、人が見えた。
街灯の歯車のそばに——パン屋がいる。夕方の仕込みをしている。路面電車の歯車の上に——帰宅する人々がいる。工場の歯車の横に——作業員がいる。水道のポンプの歯車の先に——台所で料理をしているお母さんがいる。
歯車は機械ではなかった。歯車の一つ一つに——人がいた。百万個の歯車は——百万人の暮らしだった。
千年前のアルト・マイスターが全員分の歯車を作った理由が——今、見えた。歯車を作ったのではない。暮らしを作ったのだ。
夕日が街を橙色に染めていた。煙突の蒸気が橙色に光っていた。歯車が夕日を反射して——街全体が、金色に見えた。
戦う敵はいない。倒すジャミングはいない。修理する歯車は——もうない。
しかし——ここに立っている。変身して。装甲を纏って。歯車翼を広げて。
守るために。
戦いが終わっても。敵がいなくても。——この街を見守るために。ここに立っている。
風が吹いた。歯車翼が蒸気を受けて——ベルの体が少しだけ浮いた。足が石の手すりから離れた。浮いている。歯車翼の蒸気推進で。時計塔の頂上で。夕日の中で。
街が足の下にある。百万人の街。百万個の歯車。千年前の設計者が全員のために作った街。百年前の少女が一人で守ろうとした街。五十年間グロックが見守った街。——ベルと四人の仲間が直した街。
「きれい……」
呟いた。
きれいだった。夕日に染まった歯車の街が。橙色の蒸気が。金色の屋根が。回り続ける百万個の歯車が。
ギアが肩の上で翅を全開にした。四枚の金色の翅が夕日に透けて——虹色に光った。
「……きれいね」
「うん」
二人で——街を見ていた。
魔法少女が——街を見下ろしている。
銀色と金色の装甲。蝶のような歯車翼。歯車リボン。装甲スカートの歯車レースが風に揺れている。夕日を背にして。時計塔の頂上で。
メガネのない目で。しかし——全てが見えている。
この街が動き続けるために。
明日も。明後日も。
——千年先も。
歯車は廻っている。
—— 完 ——




