表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/38

第32話「一人で抱え込まないで」(後編)

 踊り場が——工房になった。


 螺旋階段の暗い踊り場。幅三メートル。天井が低い。壁面の歯車が回り続けている。蒸気管が石壁を這っている。


 その蒸気管の一本に——ルストがハンマーの頭を押し当てていた。


 蒸気管の表面温度は約百五十度。鍛冶の炉には遠く及ばない。しかし——鋼を軟化させるには十分だった。ハンマーの頭が赤くなっていく。鋼が柔らかくなっていく。


 「……いけるか?」


 ベルが聞いた。変身が解けていた。制服に戻っている。メガネをかけている。割れたメガネ——あの雨の日に割れて、まだ直していないメガネ。右目の視界が亀裂で歪んでいる。


 「いける。炉の半分も出ないが——叩けば形になる。軸の太さは」


 「直径六ミリ。長さ十二センチ」


 カリンが設計図から読み上げた。アルト・マイスターの大時計の制御ユニットの図面。ステッキの内部機構と同じ構造——千年前の技術者が作った歯車機構が、ベルのステッキの中にも使われていた。同じ設計思想。


 ルストがハンマーの頭を蒸気管から離した。赤い鋼。石の床に置いた。ハンマーの柄で——叩いた。


 かん。かん。かん。


 規則的な音。鍛冶師のリズム。踊り場に反響する金属音。


 丸い鋼の塊が——叩かれるたびに細長くなっていく。六ミリの軸に。ルストの手が——正確だった。炉がなくても、金床がなくても、ハンマーの柄と石の床だけで——鋼を鍛えている。


 「……すごい」


 カリンが手帳から顔を上げて呟いた。


 「あんたの『すごい』はいいから、次の手順を読め」


 ルストの声。しかし口の端が——上がっていた。


 軸ができた。直径六ミリ。長さ十二センチ。完璧ではない。微かに歪んでいる。表面が粗い。炉で鍛えた軸とは精度が違う。


 しかし——通る。歯車の中心穴に通る太さ。


 「次」


 ベルが折れたステッキを膝の上に載せた。内部を開けた。


 歯車が見えた。小さな歯車。五つ。初めてステッキを握ったときに回り始めた歯車。千年前の設計と同じ配列。


 五つとも——無事だった。軸が折れただけ。歯車自体は生きている。


 古い軸の残骸を抜いた。折れた軸。銅線で巻かれた跡。メガネのネジの穴。あの雨の日の修理の痕跡。


 新しい軸を——通した。ルストが鍛えた軸。ハンマーの頭だった鋼。


 きつい。穴より微かに太い。


 「ルスト。〇・二ミリ太い」


 「削れ。お前の指で」


 ベルは軸を石の壁に押し当てた。表面を擦った。鋼が石に擦れる音。火花が散った。〇・一ミリ。もう一度。〇・二ミリ。


 通した。


 軸が歯車の中心穴を貫いた。五つの歯車が一本の軸に串刺しになった。


 しかしこのままでは噛み合わない。歯車同士の間隔が——ズレている。古い軸と新しい軸では微妙に長さが違う。歯車の位置が〇・五ミリずつズレる。


 「フェーダー」


 「わかってる」


 フェーダーがオルガンの鍵盤に指を置いた。残り三分の一。高音域の鍵盤だけが生きている。


 音を出した。


 高い音。歯車の振動数に合わせた音。フェーダーの耳が歯車の回転を聞き、指が鍵盤を押さえ、オルガンが歯車に共鳴する音を出す。


 歯車が——振動した。軸の上で。微かに。フェーダーの音に引かれて、正しい位置に——寄っていく。


 「C#。もう少し高く——」


 フェーダーが半音上げた。


 歯車が——噛み合った。


 かちり。


 一つ目と二つ目。


 かちり。


 二つ目と三つ目。


 フェーダーの音が一つずつ歯車を導いていく。四つ目。五つ目。


 かちり。かちり。かちり。


 五つの歯車が——噛み合った。


 「カリン。次の手順」


 「蒸気パイプの接続。軸の両端にパイプを嵌めて、蒸気の圧力で回転を——」


 蒸気パイプ。千切れたパイプの残骸がある。あの雨の日に銅線で繋いだ箇所が——また千切れている。


 銅線がない。メガネのネジも弾け飛んだ。繋ぐ材料がない。


 ベルの手が止まった。


 「……繋ぐ材料が——」


 カリンが——手帳から何かを抜いた。


 栞の革紐。手帳の背表紙に挟んであった、薄い革紐。


 「これ。巻けない?」


 「革紐じゃ蒸気が——」


 「蒸気管に押し当てれば硬化するわ」


 フェーダーが言った。「革は熱で収縮して硬くなる。金属ほどの耐久性はないけど——応急なら」


 カリンの革紐を受け取った。手帳の一部。記録者の道具の一部。


 千切れたパイプの接続部に巻いた。きつく。三重に。蒸気管に押し当てた。じゅう、と音がした。革が収縮した。硬くなった。パイプの接合部を——締めつけた。


 手を離した。


 蒸気が——漏れなかった。わずかに滲んでいるが——先端まで届く量は確保できている。


 ステッキの外殻を閉じた。


 ルストの軸。フェーダーの同調。カリンの設計図と革紐。ベルの手。


 四人の部品で——組み直されたステッキ。


 握った。


 内部で歯車が回り始めた。握力に反応して。かちかちかちかち。小さな歯車が噛み合う音。軸が回転する音。蒸気が——しゅっと、先端から漏れた。


 弱い。


 元の——三割もない。二割。いや、一割五分くらい。パイプの接合が革紐だから、蒸気の圧力が逃げている。軸が微かに歪んでいるから回転にムラがある。


 しかし——動く。


 歯車が回っている。蒸気が出ている。ステッキが——生きている。


 ベルは手元を見下ろした。


 握りの部分。新しい軸が通った場所。革紐が巻かれた接合部。歯車のわずかな振動が掌に伝わっている。


 不完全だった。


 元の出力の一割五分。軸が歪んでいる。パイプが革紐。歯車エンブレムは——ない。暗い螺旋階段のどこかに転がったまま。先端はただの金属の棒。光らない。回らない。


 しかし蒸気は出る。歯車は回る。握れば——応えてくれる。


 元通りにはならない。


 しかし——使える。戦える。


 「……ありがとう」


 ベルが顔を上げた。


 三人を見た。


 ルスト。ハンマーの柄だけを握っている。頭を歯車の軸にした男。自分の道具を差し出した男。


 フェーダー。三分の一の鍵盤を抱えている。残った音域で歯車を導いた女。


 カリン。栞のない手帳を抱えている。革紐をパイプの接合に差し出した女。記録者の道具の一部を。


 三人とも——何かを差し出していた。自分の道具の一部を。自分の能力の全部を。


 「一人じゃなかった」


 ベルの声が——震えていた。泣きそうだった。しかし泣かなかった。泣く代わりにステッキを握りしめた。四人分の修理が詰まったステッキを。


 「行こう」


 立ち上がった。


 螺旋階段を見下ろした。大時計の心臓部は——まだ下にある。ヴェヒターがまだ守っている。バイパスの設置は失敗した。歯車キットは落ちて失った。


 しかしステッキは——ある。不完全な。一割五分の。しかし四人で直したステッキが。


 「まず歯車エンブレムを拾いに行く。螺旋階段のどこかに落ちてるはず。あれがないとステッキの収束光が出ない」


 「俺が探す。目は利く方だ」


 「私は歯車の共鳴音で位置を——音を出してみる。金属なら反響するから」


 「私が記録する。階段のどの段で反響が返ってきたか」


 四人が——動き出した。


 それぞれの役割で。それぞれの「できること」で。


 誰一人、全部はできない。しかし四人が揃えば——一本のステッキが直る。一つのバイパスが作れる。千年の大時計が——直せるかもしれない。


 ベルは螺旋階段を降り始めた。不完全なステッキを握って。割れたメガネで。泥だらけの制服で。


 しかし——一人ではなかった。


 後ろに三つの足音が続いている。ルストの重い足音。フェーダーの軽い足音。カリンのペンが紙を走る音。


 ここにいる。四人とも——ここにいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ