第32話「一人で抱え込まないで」(後編)
踊り場が——工房になった。
螺旋階段の暗い踊り場。幅三メートル。天井が低い。壁面の歯車が回り続けている。蒸気管が石壁を這っている。
その蒸気管の一本に——ルストがハンマーの頭を押し当てていた。
蒸気管の表面温度は約百五十度。鍛冶の炉には遠く及ばない。しかし——鋼を軟化させるには十分だった。ハンマーの頭が赤くなっていく。鋼が柔らかくなっていく。
「……いけるか?」
ベルが聞いた。変身が解けていた。制服に戻っている。メガネをかけている。割れたメガネ——あの雨の日に割れて、まだ直していないメガネ。右目の視界が亀裂で歪んでいる。
「いける。炉の半分も出ないが——叩けば形になる。軸の太さは」
「直径六ミリ。長さ十二センチ」
カリンが設計図から読み上げた。アルト・マイスターの大時計の制御ユニットの図面。ステッキの内部機構と同じ構造——千年前の技術者が作った歯車機構が、ベルのステッキの中にも使われていた。同じ設計思想。
ルストがハンマーの頭を蒸気管から離した。赤い鋼。石の床に置いた。ハンマーの柄で——叩いた。
かん。かん。かん。
規則的な音。鍛冶師のリズム。踊り場に反響する金属音。
丸い鋼の塊が——叩かれるたびに細長くなっていく。六ミリの軸に。ルストの手が——正確だった。炉がなくても、金床がなくても、ハンマーの柄と石の床だけで——鋼を鍛えている。
「……すごい」
カリンが手帳から顔を上げて呟いた。
「あんたの『すごい』はいいから、次の手順を読め」
ルストの声。しかし口の端が——上がっていた。
軸ができた。直径六ミリ。長さ十二センチ。完璧ではない。微かに歪んでいる。表面が粗い。炉で鍛えた軸とは精度が違う。
しかし——通る。歯車の中心穴に通る太さ。
「次」
ベルが折れたステッキを膝の上に載せた。内部を開けた。
歯車が見えた。小さな歯車。五つ。初めてステッキを握ったときに回り始めた歯車。千年前の設計と同じ配列。
五つとも——無事だった。軸が折れただけ。歯車自体は生きている。
古い軸の残骸を抜いた。折れた軸。銅線で巻かれた跡。メガネのネジの穴。あの雨の日の修理の痕跡。
新しい軸を——通した。ルストが鍛えた軸。ハンマーの頭だった鋼。
きつい。穴より微かに太い。
「ルスト。〇・二ミリ太い」
「削れ。お前の指で」
ベルは軸を石の壁に押し当てた。表面を擦った。鋼が石に擦れる音。火花が散った。〇・一ミリ。もう一度。〇・二ミリ。
通した。
軸が歯車の中心穴を貫いた。五つの歯車が一本の軸に串刺しになった。
しかしこのままでは噛み合わない。歯車同士の間隔が——ズレている。古い軸と新しい軸では微妙に長さが違う。歯車の位置が〇・五ミリずつズレる。
「フェーダー」
「わかってる」
フェーダーがオルガンの鍵盤に指を置いた。残り三分の一。高音域の鍵盤だけが生きている。
音を出した。
高い音。歯車の振動数に合わせた音。フェーダーの耳が歯車の回転を聞き、指が鍵盤を押さえ、オルガンが歯車に共鳴する音を出す。
歯車が——振動した。軸の上で。微かに。フェーダーの音に引かれて、正しい位置に——寄っていく。
「C#。もう少し高く——」
フェーダーが半音上げた。
歯車が——噛み合った。
かちり。
一つ目と二つ目。
かちり。
二つ目と三つ目。
フェーダーの音が一つずつ歯車を導いていく。四つ目。五つ目。
かちり。かちり。かちり。
五つの歯車が——噛み合った。
「カリン。次の手順」
「蒸気パイプの接続。軸の両端にパイプを嵌めて、蒸気の圧力で回転を——」
蒸気パイプ。千切れたパイプの残骸がある。あの雨の日に銅線で繋いだ箇所が——また千切れている。
銅線がない。メガネのネジも弾け飛んだ。繋ぐ材料がない。
ベルの手が止まった。
「……繋ぐ材料が——」
カリンが——手帳から何かを抜いた。
栞の革紐。手帳の背表紙に挟んであった、薄い革紐。
「これ。巻けない?」
「革紐じゃ蒸気が——」
「蒸気管に押し当てれば硬化するわ」
フェーダーが言った。「革は熱で収縮して硬くなる。金属ほどの耐久性はないけど——応急なら」
カリンの革紐を受け取った。手帳の一部。記録者の道具の一部。
千切れたパイプの接続部に巻いた。きつく。三重に。蒸気管に押し当てた。じゅう、と音がした。革が収縮した。硬くなった。パイプの接合部を——締めつけた。
手を離した。
蒸気が——漏れなかった。わずかに滲んでいるが——先端まで届く量は確保できている。
ステッキの外殻を閉じた。
ルストの軸。フェーダーの同調。カリンの設計図と革紐。ベルの手。
四人の部品で——組み直されたステッキ。
握った。
内部で歯車が回り始めた。握力に反応して。かちかちかちかち。小さな歯車が噛み合う音。軸が回転する音。蒸気が——しゅっと、先端から漏れた。
弱い。
元の——三割もない。二割。いや、一割五分くらい。パイプの接合が革紐だから、蒸気の圧力が逃げている。軸が微かに歪んでいるから回転にムラがある。
しかし——動く。
歯車が回っている。蒸気が出ている。ステッキが——生きている。
ベルは手元を見下ろした。
握りの部分。新しい軸が通った場所。革紐が巻かれた接合部。歯車のわずかな振動が掌に伝わっている。
不完全だった。
元の出力の一割五分。軸が歪んでいる。パイプが革紐。歯車エンブレムは——ない。暗い螺旋階段のどこかに転がったまま。先端はただの金属の棒。光らない。回らない。
しかし蒸気は出る。歯車は回る。握れば——応えてくれる。
元通りにはならない。
しかし——使える。戦える。
「……ありがとう」
ベルが顔を上げた。
三人を見た。
ルスト。ハンマーの柄だけを握っている。頭を歯車の軸にした男。自分の道具を差し出した男。
フェーダー。三分の一の鍵盤を抱えている。残った音域で歯車を導いた女。
カリン。栞のない手帳を抱えている。革紐をパイプの接合に差し出した女。記録者の道具の一部を。
三人とも——何かを差し出していた。自分の道具の一部を。自分の能力の全部を。
「一人じゃなかった」
ベルの声が——震えていた。泣きそうだった。しかし泣かなかった。泣く代わりにステッキを握りしめた。四人分の修理が詰まったステッキを。
「行こう」
立ち上がった。
螺旋階段を見下ろした。大時計の心臓部は——まだ下にある。ヴェヒターがまだ守っている。バイパスの設置は失敗した。歯車キットは落ちて失った。
しかしステッキは——ある。不完全な。一割五分の。しかし四人で直したステッキが。
「まず歯車エンブレムを拾いに行く。螺旋階段のどこかに落ちてるはず。あれがないとステッキの収束光が出ない」
「俺が探す。目は利く方だ」
「私は歯車の共鳴音で位置を——音を出してみる。金属なら反響するから」
「私が記録する。階段のどの段で反響が返ってきたか」
四人が——動き出した。
それぞれの役割で。それぞれの「できること」で。
誰一人、全部はできない。しかし四人が揃えば——一本のステッキが直る。一つのバイパスが作れる。千年の大時計が——直せるかもしれない。
ベルは螺旋階段を降り始めた。不完全なステッキを握って。割れたメガネで。泥だらけの制服で。
しかし——一人ではなかった。
後ろに三つの足音が続いている。ルストの重い足音。フェーダーの軽い足音。カリンのペンが紙を走る音。
ここにいる。四人とも——ここにいる。




