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第32話「一人で抱え込まないで」(前編)

 大時計の内部は——暗かった。


 歯車が回っている。壁面を覆う大小さまざまな歯車が、蒸気の力で回り続けている。噛み合いの音が反響している。がちり。がちり。がちり。千年間止まったことのないリズム。


 しかしそのリズムに——ノイズが混じっている。


 軋み。引っかかり。歯車の歯が摩耗して噛み合いが浅くなった箇所から、不快な金属の悲鳴が漏れている。千年分の摩耗。大時計の心臓部に近づくほど——軋みが増している。


 ベルは螺旋階段を降りていた。四人で。ベルが先頭。ルストが二番目。フェーダーが三番目。カリンが最後尾で、手帳に歯車の配置を記録しながら歩いている。


 ギアが肩の上にいた。翅を畳んでいる。大時計の内部ではギアの光が歯車に干渉する。不用意に光ると——ヴェヒターが反応する。


 「近いわ」


 ギアが囁いた。


 「バイパスの設置ポイント。あと百歩くらい」


 壁面の歯車が大きくなっている。直径二メートルを超える歯車。歯の一本がベルの前腕と同じ長さ。千年前の鋳造技術。表面に油膜が光っている——しかし千年分の固着で、油膜は半ば結晶化している。


 「ここだ」


 ルストが立ち止まった。壁面の歯車の接合部を指で触れている。鍛冶師の指。金属の状態を触覚で読む指。


 「噛み合いが七十度。歯の摩耗が——ひどい。元の厚みの半分もない」


 七十度。千年前の設計者アルト・マイスターが選んだ角度。理論上の最短距離。しかし千年分の摩耗を計算に入れていなかった角度。


 ベルはバックパックからバイパス用の歯車キットを取り出した。先週の実験で使ったものと同じ設計。四十五度の噛み合い。小型だが——理論上は大型歯車のバイパスとして機能するはず。


 「フェーダー。ここの歯車の周波数、読める?」


 フェーダーが蒸気オルガンの鍵盤に指を置いた。不完全に修理されたオルガン。鍵盤の三分の一が動かない。しかし残りの三分の二で——歯車の振動を読むことはできる。


 「……四十七ヘルツ。本来の周波数は五十ヘルツ。三ヘルツ低い。摩耗で回転が遅くなってる」


 「カリン。設計図上のこのポイントの仕様は?」


 カリンが手帳をめくった。アルト・マイスターの設計図を書き写したページ。


 「本来の歯数三十六。噛み合い角度七十度。回転速度は毎秒〇・八回転。——でも実測で遅くなってるなら、バイパスの回転比を調整しないと」


 四人が——一つの歯車の前で、それぞれの役割を果たしている。ベルの手。ルストの目。フェーダーの耳。カリンの記録。四つの能力が、一点に集中している。


 ベルがバイパス歯車を設置し始めた。壁面の歯車の隣に。四十五度の角度で。ステッキの先端から弱い蒸気を噴射して、歯車の固着した油膜を軟化させながら——


 壁面が——揺れた。


 全員が凍った。


 歯車の回転が——変わった。リズムが乱れた。がちり。がちり——がちがちがちがち。加速している。


 「ヴェヒター——!」


 ギアが叫んだ。


 壁面の歯車の奥から——赤い光が滲み出てきた。大時計の守護機構。侵入者に対する保全プログラム。


 ベルがバイパスの設置を続けようとした。手を伸ばした。あと少し——バイパス歯車を本線に噛ませれば——。


 赤い光が——弾けた。


 衝撃波。壁面の歯車が一斉に逆転した。蒸気が噴き出した。熱い。配管の継ぎ目から過圧の蒸気が吹き出して、ベルの手を直撃した。


 「——っ!」


 手を引いた。右手。やけどの痛み。手袋の上から——しかし手袋が溶けている。蒸気の温度は百度を超えている。


 バイパス歯車が——吹き飛んだ。設置しかけていた歯車が蒸気の圧力で壁面から剥がれて、螺旋階段の闇に落ちていった。金属が石に当たる音が、遠くなりながら反響した。


 「バイパスが——」


 カリンの声が震えていた。


 ヴェヒターの赤い光が広がっている。壁面を覆うように。天井に。床に。螺旋階段の上下に。


 退路を——塞がれた。


 ルストがハンマーを構えた。「来る——!」


 赤い光が——凝縮した。歯車の形に。壁面から飛び出してきた赤い歯車が、回転しながらベルたちに向かって——。


 ベルがステッキで受けた。


 受けた——二度目。


 あの雨の日の記憶が走った。あのとき、ステッキで受けて——折れた。


 今回も——。


 がきん。


 ステッキの軸に亀裂が入った。歯車エンブレムが火花を散らした。あの雨の日にルストが直してくれた接合部——銅線で巻いた箇所が、応力に耐えきれずに——。


 ステッキが——折れた。


 二度目。


 同じ場所で。ルストが直してくれた場所で。銅線が千切れて、メガネから外したネジが弾け飛んで、軸が二つに分かれた。


 ベルの手に——柄だけが残った。先端の歯車エンブレムが、暗い螺旋階段に転がっていった。からからから、と金属の音を立てながら。


 「……また」


 声が——小さかった。


 また壊れた。また——同じ場所で。


 ルストが直してくれた場所で。ルストの鍛冶の腕と、ベルのメガネのネジで直した場所で。


 ヴェヒターの赤い光が引いた。バイパスの設置が中断されたから。侵入者が武器を失ったから。脅威度が下がった——とプログラムが判定した。


 赤い光が壁面に戻っていく。歯車の奥に。しかし——消えてはいない。監視している。次に触れたら——また来る。


 四人が——螺旋階段の踊り場に立っていた。暗い。壁面の歯車の隙間から漏れる微かな蒸気の光だけが照らしている。


 折れたステッキの柄を、ベルは握りしめていた。


 ルストが——壁を殴った。


 拳で。石の壁を。


 「くそ——」


 声が低かった。怒り。自分の修理が——持たなかった。


 「俺の修理が弱かったんだ。もっと——もっと太い軸で鍛え直せば——」


 「ルスト。あなたのせいじゃない」


 フェーダーの声。しかしフェーダーの手もオルガンの上で震えていた。蒸気の衝撃波でオルガンの鍵盤がまた一つ壊れた。動く鍵盤がさらに減った。


 カリンが手帳を抱きしめていた。目が赤い。泣きかけている。しかし記録者として——泣く前に書こうとしている。「第三次設置作戦、失敗。ヴェヒターの反応速度、想定の三倍——」


 ベルは——黙っていた。


 折れたステッキの柄を見ていた。あの雨の日に折れて、ルストが直してくれた。あれから何週間もの戦いを一緒に乗り越えた。不完全な修理のまま。三割の出力のまま。しかし——動いた。戦えた。


 それが——また折れた。


 もう直せるのか。二度目の破損。同じ箇所。応力が集中する弱点。銅線とネジでは——もう保たない。


 「……帰ろう」


 ルストが言った。


 「一度退く。材料を調達して、ステッキを根本から鍛え直す。時間はかかるが——」


 「時間がない」


 ベルが言った。


 「ジャミングの発生頻度が上がってる。先週は二日に一回だった。今週は毎日。大時計の摩耗が加速してる。バイパスを設置するまで——あと何日持つかわからない」


 沈黙。


 暗い踊り場。歯車の軋む音。蒸気の漏れる音。


 ルストが再び壁を殴ろうとした。拳を引いて——止めた。殴っても歯車は直らない。


 「……俺に何ができる。ハンマーの頭はまだある。鍛える材料がない。ここには炉がない」


 フェーダーがオルガンを抱え直した。「私のオルガンも——もう三分の一しか動かない。同調の精度がどんどん落ちてる」


 カリンが手帳を見つめた。「記録はある。設計図もある。でも——記録だけじゃ直せない」


 三人が——それぞれの限界を口にした。


 それぞれの「足りない」を。


 ベルは三人を見た。暗い踊り場で。蒸気の光に照らされた三つの顔を。


 ルストの顔。悔しさで歪んでいる。自分の修理が壊れたことへの怒り。


 フェーダーの顔。不安で蒼い。残り三分の一の鍵盤で何ができるのか。


 カリンの顔。涙をこらえている。記録するだけでは足りないことへの無力感。


 三人とも——自分の「足りなさ」を見ている。自分にできないことを数えている。


 ベルの口が——開いた。


 「一人で抱え込まないで」


 声が——静かだった。叫びではなかった。螺旋階段の暗い踊り場に、ちょうど四人に届く声。


 「ルスト。あなたのハンマーの頭——鋼だよね。歯車に鍛えられる形をしてる。炉がなくても——蒸気管の熱で軟化させれば、叩いて整形できるかもしれない」


 ルストの目が——動いた。


 「フェーダー。三分の一の鍵盤でも、ステッキの内部歯車を同調させるには——十分な音域がある。大きな歯車じゃない。小さな歯車。あなたの残った鍵盤の周波数帯で——収まる」


 フェーダーの指が——動いた。


 「カリン。アルト・マイスターの設計図に、ステッキの内部構造と同じ歯車機構がある。大時計の制御ユニット。同じ構造だから——設計図を読み替えれば、組み直しの手順がわかる」


 カリンの手帳が——開いた。


 「私のステッキが折れた。でも——歯車は壊れてない。軸が折れただけ。歯車を組み直して、新しい軸を通して、同調させれば——動く」


 ベルが三人を見た。


 「一人じゃできない。ルストの鍛造がないと軸が作れない。フェーダーの同調がないと歯車が噛み合わない。カリンの設計図がないと組み立て順がわからない。全部——必要なの」


 三人が——ベルを見ていた。


 「ここにいるよ。四人とも——ここにいる」


 暗い踊り場で。歯車の軋む音の中で。壊れたステッキの柄を握りしめたまま。


 ベルの目が——光っていた。涙ではない。蒸気の光を反射した目。メガネがない。変身中だから。しかし変身の力は消えかけている。装甲が透け始めている。もうすぐ解ける。


 それでも——目が光っていた。


 「直そう。みんなで」

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