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第29話「一人の夜」

 ルストがいない工房は——静かだった。


 炉の火を点けなかった。コークスはある。マッチもある。しかしルストがいない炉に火を入れることが——できなかった。鍛冶師の炉は鍛冶師のものだ。


 放課後。ベルは自分の工房——学校の地下の実習室で、課題の歯車機構を組んでいた。十二個の歯車。魔法少女になった日の放課後と同じ課題。あれから二ヶ月。提出期限がとっくに過ぎている。先生に「クロックワーク、いつ出すんだ」と三回言われた。


 歯車を組む手が——いつもと違った。


 九番目の歯車。噛み合わせた。かちり。——しかし音が違う。いつものかちりではない。ほんの少しだけ鈍い。噛み合いが浅い。


 指先で確認した。歯車の歯が——微かに歪んでいる。素材の問題ではない。組み方の問題。ベルの手が——ぶれている。


 集中できていない。


 ルストの言葉が頭から離れない。「お前のやり方で何人死ぬ」。三人の怪我人。天井の崩落。意識が戻らない作業員。


 ルストは正しいのかもしれない。壊して止めて直す。確実で速い。論理的で合理的。


 しかし——手が拒む。壊すことを。


 「なんで……」


 呟いた。工房に一人で。


 「なんで壊したくないんだろう。理由を言えない。ルストに言えなかった。『壊さない』としか言えなかった。でも——なぜ壊さないのかを——自分でもわからない」


 ギアが肩の上で翅を広げた。三枚。あの四体戦でベルに光を渡した代償で、四枚目がまだ戻りきっていない。


 「考えすぎよ。今日はもう帰りなさい」


 「帰っても——ジャミングが出たら出撃しなきゃ」


 「出撃は明日にしなさい。今のあんたの手じゃ——歯車がまともに回らない。課題の歯車すら噛み合わないのに、ジャミングの歯車を矯正できるわけがない」


 厳しい。しかし——正しかった。手がぶれている。感情がぶれているから。


 工房を出た。廊下。夕方の学校。他の生徒はとっくに帰っている。


 廊下を歩きながら——窓の外を見た。第四街区の方角。蒸気の色が——少し暗い。ジャミングが出ているかもしれない。


 ギアの翅が——変わらない。橙色にならない。出ていないのか。あるいは——ギアの感知能力も落ちているのか。翅が三枚しかないから。


 廊下の窓から——鍛冶場が見えた。学校の裏手。石造りの小屋。煙突から煙が——出ていない。ルストが来ていない。二日目。


 鍛冶場の扉が——閉まっている。いつもは半開きだった。ルストが作業しているとき、炉の排熱のために扉を少し開けていた。あの扉の隙間から漏れる赤い光と、かん、かん、かんというハンマーの音が、放課後の学校の風景だった。


 閉まっているということは——いない。赤い光もない。ハンマーの音もない。


 校門を出た。通学路。石畳。煙突の蒸気。いつもの帰り道。


 しかしいつもと違うことが一つ。


 ルストの家の前を通った。通学路から少しだけ外れた路地。鍛冶屋の看板。ルストの父親の店。閉まっている。夕方だから。


 二階の窓に——灯りが見えた。ルストの部屋。灯りが点いている。いる。


 手を上げかけた。窓に向かって。呼びかけようとした。


 ——やめた。


 何を言えばいい。「帰ってきて」と言えばいい。しかしルストの問いに——まだ答えられない。「壊さない理由」を言葉にできない。


 ルストは理由を聞いた。「でも何だ」と。ベルは「壊さない」としか言えなかった。理由を言えなかった。感覚でしかわからないことを——言葉にできなかった。


 答えを持たないまま「帰ってきて」と言うのは——ずるい。ルストに対して不誠実だ。ルストは論理で話している。論理には論理で応えなければいけない。——しかしベルの「壊さない」は論理ではなく、手の感覚だ。


 帰った。家に。お母さんの晩ご飯を食べた。お父さんと歯車の話をした。いつもの夜。しかし——いつもより静かな夜。


 ベッドに横になった。天井を見た。歯車模様の壁紙。


 「ギア」


 「何」


 「壊さない理由——手が知ってるって、前に言った。でもそれじゃ——ルストには伝わらない。手の感覚を——言葉にしなきゃいけない」


 「言葉にできる?」


 「……まだ。でも——考える。答えが出るまで」


 ギアが翅を畳んで、枕元のステッキの上に座った。小さな光が——ステッキの歯車エンブレムを照らしていた。


 一人の夜。


 しかし——完全に一人ではなかった。ギアがいる。フェーダーがいる。カリンがいる。ルストは去ったが——歯車は残っている。ルストが鍛えた歯車が。作業台の上に。


 目を閉じた。


 明日——答えを探す。手が知っていることを——言葉にするために。

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