第22話「グロックの涙」
管理室を訪ねた。一人で。
ベルは何も持っていなかった。ステッキも。設計図も。バイパスの提案も。ただ——訪ねた。
「……また来たか」
グロックは計器の前にいた。いつもと同じ。
しかし——目の下が暗かった。眠れていないのだ。
管理室の壁に——ベルは初めて気づいたものがあった。
名前。
壁面に——名前が刻まれている。石壁に。小さな文字で。何十もの名前。
「……これは」
「ジャミングで死んだ者の名前だ」
グロックが椅子から立ち上がった。壁の前に来た。
「百年前の大発生で——二十三人。その後も散発的に。蒸気管の破裂。歯車の暴走。建物の倒壊。ジャミングが直接殺すのではない。ジャミングが歯車を壊して——壊れた街が、人を殺す」
名前を一つずつ見た。古い名前。新しい名前。刻まれた深さが違う。古い名前は浅い。長い年月で石が風化して、文字が薄くなっている。新しい名前は深い。最近刻まれた。
「この名前——グロックさんが刻んだの?」
「先代から引き継いだ。先代が刻んだ名前もある。儂が刻んだ名前もある。——直近のものは、三年前だ」
三年前。
「第六街区の蒸気管破裂。歯車が止まって蒸気が逆流して——工場の作業員が一人。火傷で」
グロックの指が——壁の名前に触れた。最も新しい名前。三年前に刻まれた名前。
「エルンスト。四十二歳。妻と子供が二人。——儂はこの男の父親を知っておる。同じ工場で働いておった。父親も歯車に関わる仕事だった」
指が——名前の上を滑った。何度も触れてきた動き。三年間、何百回も触れてきた指の跡。
「グロックさん」
「何だ」
「設計図——読みましたか」
沈黙。
長い沈黙。計器の針が揺れる音だけが聞こえている。
「……読んだ」
声が——小さかった。五十年間大時計を守ってきた老人の声が——小さかった。
「アルト・マイスターが——応急と書いておった。四十五度が正しいと。千年の運用に耐えぬと」
「……はい」
「儂は——五十年間、応急の措置を守り続けておったことになる」
グロックの手が——膝の上で握りしめられた。
「先代の失敗を見て——触るなと決めた。大時計を守れと。壊すなと。——しかし守っていたのは欠陥だった。千年前の応急措置を——守り続けていた」
「グロックさんは——大時計を守ってきた。それは事実です」
「守った結果がこれだ」
グロックが壁を指した。名前の壁を。
「この名前の何人かは——儂が守り続けた七十度のせいで死んだ。七十度が摩耗してジャミングを生んで——街が壊れて——人が死んだ。儂が四十五度に直していれば——」
「直せなかった。四十年前の技術では。先代が証明した」
「しかし——試すことはできた。先代が失敗した原因を調べて。設計図を探して。仲間を集めて。——儂は何もしなかった。触るなと決めて。五十年間」
グロックの目から——涙が落ちた。
一滴。頬を伝って。白い髭に吸い込まれた。
五十年間。
毎日計器を読み。歯車に油を差し。摩耗を記録し。ジャミングの発生を見守り。——壁に名前を刻んできた。
守り続けた。しかし——守り方が間違っていたかもしれない。
ベルは——何も言わなかった。
言葉が出なかった。この老人の五十年を——十六歳の自分が何と言えばいいのか。
ただ——管理室に座っていた。グロックの隣に。計器の針が揺れるのを、二人で見ていた。
長い時間が過ぎた。
グロックが——口を開いた。
「……あの設計図は本物だ。儂は——アルト・マイスターの筆跡を知っておる。大時計の内部に——同じ筆跡の刻印がある。五十年間見てきた」
「……はい」
「お前たちの——バイパスとやら。先代の方法と同じか」
「同じです。しかし——違う点が三つある」
ベルが指を三本立てた。
「設計図がある。先代にはなかった。鍛冶師がいる。歯車の精度を出せる。楽師がいる。切り替えの同調ができる」
グロックが——ベルの顔を見た。
涙の跡が残った顔で。
「……三つか」
「三つです。先代に足りなかったもの。百年前の少女に足りなかったもの。全部——今は揃ってる」
グロックは——答えなかった。
答えなかったが——拒絶もしなかった。
「帰れ。今日は——帰れ」
ベルは立ち上がった。頭を下げた。
管理室を出た。螺旋階段を登った。
地上に出たとき——振り返って、地下への扉を見た。
グロックはまだ管理室にいる。壁の名前の前に。五十年分の名前の前に。
拒絶しなかった。
「帰れ」と言った。しかし「二度と来るな」とは言わなかった。
前回は「手を出すな」と言った。今回は——言わなかった。
待つ。もう少しだけ。




