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第21話「百年前の少女」

 カリンが——泣いていた。


 図書室。夜。蝋燭の光が揺れている。手帳が開いてある。ペンが止まっている。


 ベルが螺旋階段を登ってきたとき——カリンの背中が震えているのが見えた。


 「カリン——?」


 「……読んじゃった」


 カリンが振り返った。メガネの奥の目が赤い。手に——古い紙を持っている。紙というより——布。麻の布に墨で書かれた文字。


 「グロックさんの管理室の隣の部屋——百年前の工具が保管されてる場所。あそこに——これがあった。グロックさんが寝てる間に——見つけた」


 「……何」


 「百年前の少女の——日記」


          ◇


 カリンが読み上げた。百年前の古語で書かれた日記を。現代語に訳しながら。


 「——一日目。大時計の地下に入った。歯車が回っている。七十度の噛み合い。ここが原因だとわかった。設計図はない。手で触って——角度を確認した。四十五度にすれば直ると思う」


 ベルと同じ結論。百年前に。設計図なしで——手の感覚だけで。


 「二日目。バイパスの歯車を作った。鍛冶屋に頼もうとした。しかし——鍛冶屋は協力してくれなかった。『大時計に触るな』と言われた。管理者にも止められた。一人で——歯車を鋳造した」


 一人で。


 鍛冶師がいなかった。記録者がいなかった。楽師がいなかった。


 「三日目。歯車ができた。しかし精度が足りない。鋳造の経験がないから。歯の厚みが不均一。噛み合わせると——振動する」


 ルストがいれば——素材の精度を出せた。


 「四日目。バイパスを設置しようとした。しかし切り替えのタイミングがわからない。旧回路と新回路の回転を合わせる方法がない。耳で聞いても——回転の差が微小すぎて判別できない」


 フェーダーがいれば——音で同調させられた。


 「五日目。失敗した。切り替えの瞬間に——歯車が砕けた。蒸気が噴き出した。火傷した。左手が——動かない」


 ベルの背筋が冷えた。グロックが語った「先代の失敗」——四十年前ではなく、百年前にも同じことが起きていた。


 「六日目。左手が動かないまま、もう一度やった。右手だけで。歯車を組み直した。精度が足りない。わかっている。でも——やらないと。ジャミングが増えている。人が死んでいる」


 右手だけで。左手が火傷で動かないまま。


 「七日目。最後の——」


 カリンの声が——止まった。


 「……読んで」


 ベルが言った。


 カリンが——息を吸った。


 「七日目。もう一度やる。今度は——自分の体を歯車の一部にする。精度が足りない歯車の代わりに——自分が噛み合いの調整をする。手で。体で。蒸気が体を通っても——歯車を正しい角度に保てば——直る。直るはず」


 自分の体を——歯車にした。


 精度が足りない材料の代わりに。鍛冶師がいないから。楽師がいないから。記録者がいないから。一人で全部やるために——自分の体を道具にした。


 「結果は——」


 カリンが日記の最後の行を読んだ。


 「『光が見える。体が熱い。歯車が——回り始めた。正しい角度で。四十五度で。直った——かもしれない。しかし手が——離せない。手を離したら——歯車が元に戻る。精度が足りないから。私が触っている間だけ——四十五度が保てる。離したら——七十度に戻る』」


 手が離せない。


 自分の体が歯車の一部になって——離したら元に戻る。直ったのは自分が触っている間だけ。


 日記はここで終わっていた。


 「光に包まれて消ゆ」——時計塔の記録に残った一行。日記には書かれていない。日記が終わった後に——光に包まれた。歯車に触れ続けて、蒸気のエネルギーが体を通り続けて、最後には——。


 「……一人だったから」


 ベルの声が掠れた。


 「一人で全部やろうとした。鍛冶師がいれば精度の高い歯車が作れた。楽師がいれば同調のタイミングが読めた。記録者がいれば設計図から正しい手順がわかった。全部——足りなかった。足りないから——自分の体で補った」


 カリンが日記を胸に抱えた。


 「名前は——最後まで書いてなかった。日記の中にも。自分の名前を一度も書いていない」


 名も知れぬ歯車職人の娘。


 「……名前を——つけたい」


 フェーダーの声だった。いつの間にか——フェーダーとルストも図書室に来ていた。カリンが二人にも声をかけていたのだ。


 「名前がないまま——消えるのは——」


 「つけられない」カリンが首を振った。「彼女の本当の名前はわからない。勝手に名前をつけるのは——違う」


 「なら——覚えよう」


 ベルが言った。


 「名前はつけない。でも——覚える。百年前に、一人で、大時計を直そうとして、直しきれなくて、光になった少女がいたこと。私たちと同じことを考えて、同じ場所に立って、同じ歯車に手を伸ばした少女がいたこと」


 四人が——図書室の窓から、夜の街を見た。


 百万個の歯車が回っている。百年前の少女が一瞬だけ四十五度にした歯車は——もう七十度に戻っている。彼女の犠牲は——一時的にしか効かなかった。


 しかし——彼女がいなければ、百年前にクロックハイムは止まっていた。一時的でも四十五度にしたから——百年分の時間が稼げた。


 「彼女がくれた百年を——無駄にしない」


 ベルが拳を握った。


 「今度は一人じゃない。四人いる。精度の高い歯車を作れる。同調のタイミングが読める。設計図がある。——今度こそ、完成させる。手を離しても四十五度が保てるバイパスを」


 カリンが手帳を開いた。新しいページ。


 「プロジェクト記録。百年前の少女の意志を引き継ぐ。——着手」

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