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第19話「信じて」

 ツァーンベルクの地下水路で——フェーダーが、消えかけていた。


 ジャミングの群れが地下から湧いた。大時計の影響範囲が拡大している。クロックハイムだけでなく、隣街にもジャミングが発生し始めた。ベルたちは応援に来ていた。


 地下水路。石のアーチ。天井が低い。水が足首まである。冷たい。蒸気管が壁を這っている。


 ジャミングの群れは小型だった。一体ずつなら対処できる。しかし——数が多い。二十体以上。黒い歯車の影が、水路の奥から次々と現れて、壁の歯車を食い荒らしていく。


 フェーダーが蒸気オルガンで同調を試みた。


 ジャミングの振動を読んで、逆位相の音をぶつける。相殺。フェーダーの得意技。小型のジャミングなら一発で——。


 しかし——おかしかった。


 フェーダーの指が——止まらない。


 鍵盤を弾き続けている。目を見開いて。唇が引き結ばれている。指が——勝手に動いている。


 「フェーダー?」


 ベルが呼んだ。返事がない。


 フェーダーの蒸気オルガンから出ている音が——変わっていた。逆位相ではない。同位相。ジャミングと同じ振動数。ジャミングの音に——合わせている。


 同調。


 しかし相殺ではなく——共鳴。


 フェーダーの共鳴能力が、ジャミングの振動に引き込まれていた。歯車を同調させる力が——敵の歯車に同調してしまった。


 フェーダーの体が——黒くなり始めた。


 指先から。オルガンの鍵盤に触れている指の先端から、黒い靄がじわりと這い上がっている。ジャミングの色。歯車を食い荒らす闇の色。


 「フェーダー!」


 ベルが叫んだ。


 フェーダーの目が——焦点を失っていた。瞳が揺れている。意識がジャミングに引きずられている。共鳴能力が——フェーダー自身を食い始めている。


 ルストが水路を走った。フェーダーに向かって。手を伸ばした——。


 「触るな!」


 ギアが叫んだ。


 「今触ったら共鳴が伝染する! ジャミングの振動が体を通してルストにも——」


 ルストの手が——止まった。フェーダーの肩の五センチ手前で。


 触れない。


 助けたいのに——触れない。触れたら自分もジャミングに取り込まれる。


 「どうすれば——」


 「共鳴を断ち切る。フェーダーの意識をジャミングから引き離す。外部から別の振動を——別の音を——」


 別の音。


 ベルはステッキを握った。修理されたステッキ。三割の出力。蒸気は弱い。光も弱い。


 しかし——音は出る。


 ステッキの内部歯車の音。かちかちかちかち。小さな音。しかし確かな音。規則的な音。


 フェーダーが作った曲と同じリズム。フェーダーが工房の裏で弾いていた、歯車の音をモチーフにした旋律。あの曲。


 ベルは——歌った。


 音痴だった。半音ズレている。リズムも遅い。しかし——歌った。ステッキの歯車のリズムに合わせて。フェーダーが作った旋律を。


 「信じて」


 歌の合間に——叫んだ。


 「私を信じて」


 フェーダーの指が——一瞬、止まった。


 ジャミングの振動とベルの音痴な歌が、フェーダーの耳の中で混じり合っている。二つの音。一方は闇の共鳴。もう一方は——半音ズレた、不完全な、しかし確かな旋律。


 「まだ——間に合う。フェーダー。私の声、聞こえてるでしょ」


 フェーダーの目が——揺れた。焦点が戻りかけている。しかしまた——ジャミングに引かれる。黒い靄が手首まで来ている。


 「信じて。私を信じて。まだ——」


 声が——震えていた。


 ベルの声が震えていた。信じて、と言いながら——ベル自身が信じられていなかった。三割の出力のステッキで。音痴な歌で。この声が——フェーダーに届くのか。ジャミングの共鳴を断ち切れるのか。


 わからない。


 でも——歌う。


          ◇


 歌い続けた。


 音痴だった。声が裏返った。喉が痛い。水路の湿った空気が肺に刺さる。しかし——歌った。


 フェーダーが作った曲。歯車のリズム。かちかちかち。半音ズレた旋律。ギアが「あんたの歌は音痴」と言った旋律。音痴でも歌わないよりマシだと叫んだ、あの旋律。


 フェーダーの指が——鍵盤の上で震え始めた。


 ジャミングの振動に同調していた指が——迷い始めている。二つの音の間で。闇の共鳴と、ベルの歌と。


 黒い靄が——フェーダーの手首で止まっていた。それ以上は進んでいない。しかし後退もしていない。拮抗している。


 「フェーダー——」


 ベルが一歩近づいた。水を蹴った。冷たい水が跳ねた。


 ギアが叫んだ。「近づくな! 共鳴の範囲に——」


 「聞こえてるよね」


 ベルはギアの警告を無視した。もう一歩。フェーダーの目の前。手を伸ばせば届く距離。


 「フェーダー。私の歌、音痴でしょ」


 フェーダーの唇が——動いた。声にならない声。しかし唇の形が——読めた。


 「……おん、ち」


 音痴。


 フェーダーが——ベルの歌を聴いている。ジャミングの振動の中で。闇に引きずり込まれかけながら。それでも——音痴な歌を聴いている。


 「そう。音痴。でもね——あんたが作った曲だよ。工房の裏で。あの夕日の中で。夕日の中で弾いてた曲。覚えてるでしょ」


 フェーダーの指が——鍵盤の上で、微かに動いた。ジャミングの振動ではない動き。別の動き。旋律を探す動き。


 「あの曲を弾いて。私の歌じゃなくて。あんたのオルガンで。あんたの音で」


 フェーダーの目に——光が戻った。


 焦点が合った。ベルの顔を見ている。水路の暗がりの中で。黒い靄が手首を覆っている中で。


 指が——鍵盤を押した。


 音が出た。


 フェーダーの音。ベルの音痴な歌ではない。正しい音程。正しいリズム。歯車のモチーフ。かちかちかち。あの旋律。


 その音が——ジャミングの共鳴を、切り裂いた。


 オルガンの旋律がフェーダー自身の共鳴能力を取り戻した。ジャミングの振動に同調していた力が——自分の音楽に、引き戻された。


 黒い靄が——引いた。手首から。指先から。剥がれるように。フェーダーの指が鍵盤を叩くたびに、闇が後退していく。


 ジャミングの群れが——怯んだ。フェーダーの逆位相の音が戻った。相殺が始まった。黒い歯車の影が一体ずつ、音にぶつけられて砕けていく。


 しかし——。


 オルガンが——鳴った。


 嫌な音。金属の弦が切れる音。鍵盤の内部で何かが折れる音。


 フェーダーの指が止まった。


 鍵盤を押しても——音が出ない。中央の鍵盤が。さっきまで動いていた鍵盤が。


 ジャミングの共鳴の残響が、オルガンの内部機構を壊したのだ。共鳴のエネルギーが弦と歯車に過負荷をかけて——折れた。


 動く鍵盤が——三分の一になった。


 フェーダーの手が——オルガンの上で止まっていた。


 動く鍵盤を探している。一つずつ押している。音が出ない。出ない。出ない。ここは出る。ここも出る。ここは——出ない。


 三分の一。高音域の一部と低音域の一部。中央がごっそり抜けている。


 フェーダーの目から——涙がこぼれた。


 「……壊れた」


 声が小さかった。


 「私のオルガン——壊れた」


 蒸気楽師のオルガン。フェーダーの武器であり、楽器であり、声。それが——壊れた。


 ジャミングは散った。フェーダーの最後の逆位相で。しかし代償が——大きすぎた。


 ベルがフェーダーの前に膝をついた。水の中に。冷たい水が膝を濡らした。


 フェーダーの手を——取った。


 黒い靄は消えていた。フェーダーの手は元に戻っていた。しかし——震えている。


 「直せる」


 ベルが言った。


 フェーダーが顔を上げた。涙で濡れた目。


 「直せるよ。オルガンは——歯車機構だから。歯車なら——私とルストで直せる」


 「でも——三分の一しか——」


 「三分の一あれば十分。三分の一でも弾ける。三分の一でも歌える。音痴の私が歌えるんだから、三分の一の鍵盤のフェーダーは——百倍すごい」


 フェーダーが——笑った。泣きながら。


 「百倍って——計算おかしいでしょ」


 「計算は苦手」


 ルストが後ろから歩いてきた。水を蹴りながら。ハンマーを肩に担いで。


 「おい。歯車の噛み合いなら俺に見せろ。半日で直してやる」


 「半日もかかるの?」


 「文句言うな。壊れ方がひどい」


 三人が——水路の中に立っていた。膝まで水に浸かって。壊れたオルガンを抱えたフェーダーと、ハンマーを担いだルストと、修理したステッキを握ったベルと。


 ギアが天井近くを飛んでいた。翅が水路の石壁に光を投げかけている。


 「帰るわよ。寒い」


 「ギア、寒さ感じるの?」


 「精霊だって寒いの。特にこの水——冷たすぎるわ」


 ベルはフェーダーの手を引いた。水路を歩き始めた。出口に向かって。


 フェーダーが——ベルの手を握り返した。


 強く。


 何も言わなかった。


 しかし手の力が——「信じた」と言っていた。

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