第16話「お父さんの手」
日曜日。お父さんの工場。
ベルは工場に来ていた。久しぶりに。魔法少女になってから——放課後も休日も、ジャミングと地下の偵察に取られて、工場に顔を出す時間がなかった。
お父さんが歯車を組んでいた。大きな手。ベルの手に似ている——いや、ベルの手がお父さんに似ているのだ。
工場の作業台。お父さんの隣に座った。五歳の頃と同じ場所。
「珍しいな。最近忙しいんだろう」
「……うん。ちょっと」
「学校の課題か」
「まあ——そんなとこ」
嘘ではない。完全な嘘ではない。
お父さんが歯車を組んでいる。直径五センチの歯車。発注品。工場の換気扇用の交換部品。
手が——速い。ベルより速い。当然だ。三十年のキャリアがある。しかし速いだけではない。丁寧。一つずつ。噛み合いを確認しながら。角度を指で感じながら。
「お父さん」
「ん」
「歯車を組むとき——怖いって思ったこと、ある?」
手が止まった。
お父さんがベルを見た。メガネの奥の目で。
「怖い?」
「うん。失敗したらどうしようって。壊したらどうしようって。——大事な歯車を、自分の手で組まなきゃいけないとき」
お父さんが——歯車を作業台に置いた。手を膝の上に。ベルの方を向いた。
「毎回怖いぞ」
「……え?」
「三十年やっても怖い。発注品を組むたびに。この歯車が客の工場に入って、何百人の仕事を支えると思うと。噛み合いが〇・一ミリずれたら——機械が止まる。仕事が止まる。生活が止まる。毎回——怖い」
ベルは——知らなかった。お父さんが怖がっていることを。いつも平然と歯車を組んでいるように見えた。手が震えているのを、一度も見たことがなかった。
「でも——手は震えないよね。お父さんの手」
「手は震えない。怖いのは頭だ。手は——覚えている。何千回も組んできたから。頭が怖がっても、手が覚えている。だから——手を信じる」
手を信じる。
「失敗するかもしれない。〇・一ミリずれるかもしれない。しかし手は——正しい角度を知っている。頭で考えるより先に、手が動く。その手を——信じるんだ」
お父さんが歯車を取り上げた。組み始めた。手が動いている。正確に。迷いなく。
しかし——頭の中では、怖がっているのだ。三十年経っても。
◇
その夜。
帰り道。商店街を歩いていた。お父さんの工場からの帰り。日が暮れている。街灯のガス灯が点き始めている。
ギアの翅が——橙色に変わった。
「来る。大きい。——商店街の地下」
商店街の石畳が——膨らんだ。地下の歯車が歪んでいる。蒸気管が軋んでいる。
石畳が割れた。
地下から——ジャミングが這い出した。中型。しかし形が——いつもと違う。歯車型でも靄型でもない。蒸気管の形をしている。黒い蒸気管が蛇のようにうねっている。管の表面に歯車がびっしりと張りついている。
「新種——! 管型ジャミング!」
商店街に人がいる。夕方の買い物客。逃げている。叫んでいる。
変身する時間はある。しかし人前で。
——構うもんか。
メガネを外した。ステッキを握った。
「ロードアウト——アイアン・ブート!」
「魔法少女アイアン・ベル——起動!」
変身の光が商店街を照らした。金色の光。逃げていた人々が振り返った。銀色の装甲。歯車の翼。蒸気の白い尾。
「聖女様——!?」
「魔法少女——!」
「あの子——学校の制服——」
聞こえている。しかし今は——ジャミングが先。
管型ジャミング。蒸気管の形をした敵。中に歯車が詰まっている。核はどこだ。
収束光を撃った。金色の光の線が管の表面に当たった——弾かれた。管の表面が蒸気を噴き出して、光を散乱させた。蒸気のバリア。
ギアシフト・フォーティファイブを狙った。しかし管型の中心軸が——ない。歯車型のように一つの軸で回っているのではない。管全体が蠕動している。
「核が見えない——! 管の中に分散してる——!」
新種。今までの方法が通じない。収束光は弾かれる。矯正する中心軸がない。
管型ジャミングが商店街の石畳を割りながら進んでいる。地下の歯車を食っている。商店街の街灯が消えた。一つ。二つ。三つ。暗くなっていく。
怖い。
新種。対処法がわからない。人がいる。街が壊れていく。
——お父さん。
さっきの言葉が蘇った。
「手を信じる。頭が怖がっても、手が覚えている」
手。
ベルの右手。ステッキを握っている手。五歳から歯車を触ってきた手。
核が分散している。管の中に。何十もの小さな歯車が散在している。一つずつ倒すのは——間に合わない。
しかし——歯車は歯車だ。どんな形でも。歯車には固有の振動がある。フェーダーが教えてくれた。全ての歯車には固有の振動数がある。
ステッキの歯車にも——固有の振動がある。
ステッキを——管型ジャミングの表面に、直接当てた。
蒸気が噴き出した。熱い。ガントレットの上から——熱が伝わる。しかし離さない。
ステッキの歯車を——回した。内部歯車を全速回転。振動がステッキから管に伝わった。ステッキの振動が——管の中の歯車に共鳴した。
手が——感じた。管の中の歯車の位置を。振動のフィードバックで。ここにある。ここにも。ここにも。何十もの小さな核が——手の振動で、わかった。
目で見たのではない。計算で出したのではない。——手が感じた。
「——全部見えた。手で」
ステッキの出力を上げた。内部歯車の回転数を限界まで。蒸気が金色に変わった。感情が乗っている。怖い。でもやる。手を信じる。お父さんと同じように。
ステッキから——金色の振動波が放たれた。
管型ジャミングの全体に——振動が走った。ステッキの四十五度の振動が。管の中の全ての歯車に同時に。共鳴。全ての核が同時に——四十五度に矯正された。
管型ジャミングが——硬直した。蠕動が止まった。全ての歯車が正しい角度になった瞬間——管を維持する歪みのエネルギーが消えた。
砕けた。
黒い管が金色の粒子に変わって——商店街の上空に昇っていった。夕暮れの空に。街灯のガス灯が戻った。一つ。二つ。三つ。光が戻っていく。
商店街が——金色に染まった。空から降る金色の粒子と、ガス灯の暖かい光が混じり合って。
買い物客が——立ち止まっている。空を見上げている。金色の粒子を。
子供が叫んだ。「きれい——!」
きれい。そうだ。きれいだった。壊されかけた商店街が——魔法で金色になっている。
◇
変身を解いた。商店街の路地裏で。人に見られないように。
メガネをかけた。手を見た。右手。ステッキを当て続けた手。手袋の上から——熱の跡が残っている。
しかし——震えていない。手は。頭は怖がっている。心臓は速い。しかし手は——震えていない。
お父さんと同じ。
手が覚えている。手を信じる。
帰り道。工場の前を通った。お父さんがまだ作業している。窓から見えた。大きな手が歯車を組んでいる。
立ち止まった。少しだけ見ていた。
「……ありがとう、お父さん」
声には出さなかった。心の中で。
歩き出した。家に向かって。晩ご飯の匂いがする。お母さんが作っている。
手がまだ温かい。ステッキの余熱と——お父さんの言葉の余熱で。




