第14話「マイスターの沈黙」
翌日。日曜日。
四人で時計塔の地下に降りた。グロックの管理室へ。
設計図を持って。
管理室の扉は開いていた。グロックが計器の前に座っている。白い髪。白い髭。革のエプロン。いつもと同じ姿。五十年間変わらない姿。
「また来たか」
ベルを見た。四人を見た。
「今日は連れが多いな」
「グロックさん。見てほしいものがあります」
カリンが金属表紙の本を差し出した。
グロックの目が——止まった。
金属の表紙。歯車の紋章。グロックはこの紋章を知っている。大時計の歯車に刻まれた紋章と同じ。五十年間、毎日見てきた紋章。
「……どこで見つけた」
「図書室の最上段です。何百年も触られていませんでした」
グロックが本を受け取った。手が——震えていた。老人の手。五十年間計器を読み続けた手。その手が——金属の表紙に触れている。
開いた。
図面を見た。大時計の全体図。グロックは五十年間、大時計の実物を見てきた。しかし設計図は——見たことがなかった。図面が失われたと思っていた。
ページをめくった。断面図。側面図。詳細図。
そして——余白のメモ。
グロックの目が——止まった。長い間、止まっていた。
読んでいる。千年前の古語で書かれたメモ。グロックにも古語が読める。管理者の家系は古語を受け継いでいる。カリンの番人の家系と同じように。
「最適角度は四十五度なり」
グロックが——声に出して読んだ。掠れた声で。
「しかるに、材料の不足により——」
読み進めた。一字ずつ。
「七十度は応急の措置なり。千年の運用に耐えうるものにあらず」
沈黙。
管理室の計器の針が微かに揺れる音だけが聞こえている。歯車の回転音。蒸気管の低い唸り。
グロックが——本を閉じた。
「……知っておった」
ベルの心臓が跳ねた。
「知って——?」
「先代の管理者から聞いておった。七十度は応急だと。いつか修正が必要だと。しかし——」
グロックが椅子から立ち上がった。ゆっくりと。膝が鳴った。老いた体。
管理室の壁に——写真が並んでいた。古い写真。セピア色。歯車の前に立つ人々。管理者たち。グロックの先代。その先代。その先代。
「先代は修正を試みた。四十年前に。バイパスという方法で」
——バイパス。
ベルの考えた方法と——同じ。
「失敗した。バイパスの歯車が回転に耐えられず、砕けた。蒸気が噴き出して——管理室が半壊した。先代は火傷を負った。それがもとで引退した。儂が——十六歳で引き継いだ」
グロックの声が——低くなった。
「先代の失敗を見た。バイパスが砕けた瞬間を。蒸気が噴き出す音を。先代の悲鳴を。十六歳の儂は——決めた。もう大時計には手を加えない。壊れかけていても——回っている。回っている限り、触らない」
触らない。
五十年間。
歯車が摩耗しても。噛み合いが浅くなっても。ジャミングが増えても。——触らない。先代の失敗が——グロックの五十年を決めた。
「グロックさん。でもアルト・マイスター自身が——修正してほしいと——」
「知っておる!」
グロックの声が——爆発した。
管理室の壁に反響した。計器の針が揺れた。
「知っておるとも! 千年前の設計者が応急だと書いたことも! 四十五度が正しいことも! 全部知っておった!」
「でも——」
「では聞く! お前たちが失敗したらどうなる!」
グロックの目が——四人を射抜いた。
「バイパスが砕けたらどうなる! 蒸気が噴き出したらどうなる! 大時計が止まったらどうなる! 百万個の歯車が止まって、街が凍って、人が死んだらどうなる!」
「……」
「先代は失敗した。先代は——儂よりも腕のいい技師だった。それでも失敗した。四十年前の技術では——できなかった。お前たちに何ができる。学校の課題も終わっていない小娘に。鍛冶場の見習いに。退学した楽師に。図書室の番人に」
四人が——黙った。
グロックの言葉は——正しかった。
失敗のリスク。先代の失敗。四十年前にすでに試みられ、失敗した方法。同じことをやろうとしている。もっと若い。もっと経験がない。
「帰れ」
グロックが背を向けた。計器に向き直った。
「設計図は預かる。しかし——手を出すな。大時計に触るな。回っている限り——触るな」
回っている限り。
しかし——回り続けられるのか。摩耗は進んでいる。ジャミングは増えている。いつか——回らなくなる日が来る。
ベルは口を開きかけた。言い返そうとした。
しかし——グロックの背中を見て、止めた。
広い背中。しかし丸まっている。五十年分の重さで。先代の失敗の記憶で。大時計を守り続けてきた重さで。
この人は——怒っているのではない。
怖いのだ。
また失敗することが。また誰かが傷つくことが。先代と同じことが繰り返されることが。
「……失礼しました」
ベルが頭を下げた。四人が頭を下げた。
管理室を出た。螺旋階段を登った。
◇
地上に出た。
日曜日の午前。晴れ。時計塔の鐘が十時を告げた。
四人が——時計塔の前に立っていた。
ルストが壁を殴ろうとして——止めた。拳を開いた。
「……じいさんの言うことも、わかる」
「わかるわね」
フェーダーが静かに言った。
「先代が失敗してる。同じ方法で。それを目の前で見た人に——もう一度やらせてくれとは——」
「言えない」
カリンが手帳を抱えた。
ベルは——空を見上げた。青い空。煙突の蒸気。時計塔の時計盤。
「グロックさんは設計図を預かると言った。預かるって——捨てるとは言ってない」
「……それが何か」
「読むかもしれない。一人で。管理室で。千年前の設計者のメモを。『後世の技師、修正されたし』を」
沈黙。
「読んだら——五十年間信じてきたことが揺れる。大時計に欠陥はない、と思ってきたことが。アルト・マイスター自身が『応急だ』と書いたのを読んだら——」
「……揺れるわね」
「待とう。グロックさんが——自分で読んで、自分で考えて、自分で決めるまで。私たちにできることは——待つことと、準備すること」
「準備?」
「グロックさんが『やれ』と言ったとき——すぐに始められるように。材料を集めて、設計を詰めて、同調の練習をして。全部——準備しておく」
ルストが——少し笑った。
「お前、気が長いな」
「気が長いんじゃない。グロックさんを信じてるの。あの人は五十年間——大時計を守ってきた人だから。守り方を知ってる人だから。——守り方を変える決断も、あの人にしかできない」
四人が歩き出した。時計塔の前から。日曜日の街を。
設計図はグロックの手にある。千年前の設計者のメモが。「後世の技師、修正されたし」が。
待つ。
準備しながら。
歯車は——まだ回っている。七十度で。軋みながら。しかし——回っている。
止まる前に。止まる前に——準備を終える。




