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第10話「カリンの記録」

 時計塔に——図書室があった。


 知らなかった。十六年間クロックハイムに住んでいて、時計塔に図書室があることを知らなかった。


 時計塔の三階。螺旋階段を登った先。石壁に囲まれた円形の部屋。窓が四つ。東西南北。窓の間を——本棚が埋めている。床から天井まで。革表紙の本。紙の束。羊皮紙の巻物。


 千年分の記録。


 クロックハイムの歴史。大時計の建造記録。歯車の鋳造記録。蒸気管の配管図。街区ごとの人口統計。火災記録。洪水記録。ジャミングの出現記録。


 全部——ここにあった。


 「すごい……」


 ベルは本棚の前に立っていた。見上げている。天井近くの棚にも本が詰まっている。梯子がないと届かない。


 「触らないで」


 声が飛んできた。


 背後から。


 振り返った。


 少女がいた。螺旋階段の上に。ベルと同い年くらい。しかし——小さい。ベルより小さい。百五十センチあるかないか。


 メガネをかけていた。


 丸い銀色のフレーム。ベルと——同じ形のメガネ。


 「その棚の三段目は湿度に弱い紙を使ってる。素手で触ると油分で劣化する」


 少女が階段を降りてきた。手に手袋をはめている。白い綿の手袋。古い記録を扱うための。


 「あなた——誰? ここは一般公開してないんだけど」


 「えっと——ギアに連れてこられて——」


 ギアが肩から飛んだ。少女の前で旋回した。金色の翅。


 少女には——見えていない。精霊は契約者にしか見えない。しかし——。


 「……風? 窓は閉まってるのに」


 少女がギアの翅の風を感じている。見えないが——気配は感じる。


 「私はベル。クロックハイム技術学校の——」


 「電子科二年のベル・クロックワーク。知ってる。最近ジャミングの出現頻度が変わった。あなたが関係してるんでしょう」


 「……なんで知ってるの」


 「記録してるから」


 少女が壁際の机に歩いた。机の上に手帳がある。何冊も。小さな手帳。革表紙。紐で綴じてある。


 一冊を開いた。


 「ジャミング出現記録。第七街区、火曜日午後三時、小型一体、消滅確認。第三街区、水曜日午後八時、中型一体、消滅確認。裏門付近、木曜日正午、小型一体——」


 全部書いてある。ベルが倒したジャミングの記録。日時。場所。規模。消滅の確認。


 「あなたが倒してるんでしょう。場所と時間がいつも技術学校の近く。放課後か昼休みに集中してる。電子科二年で放課後に一人で工房を使ってる生徒は——一人しかいない」


 推理ではない。記録と照合。データから結論を導いている。


 「カリン。時計塔の番人の娘。——といっても、お父さんはもう引退してる。今の番人は私」


 カリンが本棚を見上げた。


 「千年分の記録を管理するのが、番人の仕事。お父さんから引き継いだ。お父さんはおじいちゃんから。おじいちゃんはひいおじいちゃんから。——何代続いてるかはわからない。記録が途切れてる期間がある」


 「一人で——これ全部?」


 「一人で。読んで、整理して、劣化した紙を修復して、索引を作って。まだ半分も終わってない。千年分は——多い」


 カリンが手袋をはめた手で、棚から一冊の本を取り出した。薄い。表紙が傷んでいる。


 「これ。見てほしいものがある」


 机の上に置いた。開いた。


 古い文字。ベルには読めない——いや、読める。クロックハイムの古語。現代語と少し違うが、歯車関連の用語は千年間ほとんど変わっていない。


 「百年前の記録。ジャミングが大発生した年」


 ページをめくった。


 「この年、ジャミングの出現頻度が急増した。毎日十体以上。街区が三つ停止した。死者が——二十三人」


 二十三人。ジャミングに歯車を食われた街区で、蒸気管が破裂して、暖房が止まって、冬に——。


 「そのとき——一人の少女が歯車を直した。記録にはこう書いてある」


 カリンの指が——一行を指した。


 「『名も知れぬ歯車職人の娘、大時計の地下にて歯車の修繕を試みる。七日間にわたり作業するも、完成に至らず。少女は光に包まれて消ゆ』」


 ベルの背筋が——冷えた。


 「光に包まれて——消えた?」


 「意味はわからない。比喩なのか、事実なのか。しかしこの後、ジャミングの出現頻度が一時的に下がっている。少女が何かをしたのは確かだと思う」


 名前がない。「名も知れぬ歯車職人の娘」。百年前に——ベルと同じことをしようとした少女がいた。大時計を直そうとした。しかし「完成に至らず」。一人では——完成できなかった。


 そして「光に包まれて消えた」。


 「カリン。この少女が——何をしようとしていたか、わかる?」


 「記録にはない。しかし大時計の地下に——道具の痕跡がある。グロックさんが管理室の隣の部屋に保管してる。古い工具。百年前の。——私はまだ見せてもらえていない」


 カリンが手帳を閉じた。


 「ベル。あなたは何を知ってるの」


 「……たぶん、この少女と同じことをしようとしてる」


 「大時計を——直す?」


 「直す。設計に欠陥がある。七十度の噛み合いが——」


 「七十度?」


 カリンの目が——変わった。記録者の目。データを受け取る目。


 「説明して。全部。私が記録する」


 手帳を新しいページに開いた。ペンを取った。


 ベルは話した。ジャミングの構造。七十度の噛み合い。四十五度の矯正。大時計の摩耗。グロックの拒絶。


 カリンは書いた。一言も聞き漏らさず。手帳のページが埋まっていく。正確な文字。整った記録。


 「……すごい量ね。まとめるのに時間がかかる」


 「ごめん」


 「謝らないで。これは——記録すべきことだから」


 カリンがペンを置いた。手帳を閉じた。


 「ベル。私にはジャミングを倒す力はない。歯車を組む手もない。音で歯車を調律する耳もない」


 「……うん」


 「でも記録はできる。千年分の記録を読める。設計図を読める。過去に何があったかを知っている。——それは役に立つ?」


 ベルは——カリンのメガネを見た。


 自分と同じメガネ。丸い銀色のフレーム。レンズの奥の目が——真剣だった。


 「立つ。絶対に。設計図が読めるなら——千年前の設計者が何を考えていたか、わかるかもしれない。百年前の少女が何をしようとしていたかも。記録が——全ての始まりだから」


 カリンが——微笑んだ。小さな笑み。メガネの奥で。


 「なら——私も手伝う。記録者として」


 四人目。


 ベルの手。ルストの目。フェーダーの耳。そして——カリンの記録。


 四つの歯車が——揃い始めている。


          ◇


 図書室を出た。時計塔の螺旋階段を降りた。


 夕方。時計塔の鐘が六時を告げた。


 カリンが時計塔の入口で立ち止まった。


 「ベル」


 「うん」


 「百年前の少女——名前がないの。記録には『名も知れぬ』としか書いてない。でも彼女は七日間、一人で大時計を直そうとした。名前を残さずに」


 「……うん」


 「今度は——名前を残す。あなたの名前も。ルストの名前も。フェーダーの名前も。全部記録する。何があっても——忘れないように」


 カリンが手帳を胸に抱えた。


 記録者。千年分の歴史を背負った少女。名前のない少女の記録を守ってきた家系の、最新の番人。


 ベルは手を振った。「また来るね」


 カリンが小さく頷いた。時計塔の扉の前で。夕日が時計盤を照らしていた。


 歯車が回っている。時計塔の歯車が。千年分の記録を刻みながら。


 そしてカリンの手帳に——新しい記録が始まっている。

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