第8話 迷宮の壁は登るためにあります
【00:10:50】
地底湖からの長く険しい階段を駆け上がると、空気の質が一変した。
硫黄の混じった熱気は消え、代わりに肌にまとわりつくような湿気と、死臭にも似たカビの臭いが鼻を突く。
俺たちの目の前に広がっていたのは、絶望的なまでに広大で、謎めいた空間だった。
「……なっ、ここは……?」
隣で、アリアが息を呑む気配がした。
薄暗い松明の光に照らし出されているのは、無数に入り組んだ石造りの回廊。
天井は見えないほど高く、遥か上空には、網の目のように交差する渡り廊下や、行き先不明の螺旋階段が浮島のように点在している。
壁には不気味な悪魔の彫刻が並び、その瞳は怪しく赤く明滅していた。
「魔王城下層、『嘆きのラビリンス』か」
俺は冷静に現在地を特定し、脳内の全体マップと照合する。
本来の攻略ルート(正規シナリオ)であれば、城を突破し、中庭のガーゴイル部隊を殲滅した後に到達するエリアだ。
この迷宮は、魔王城の中でも屈指の難所として知られている。
内部には、「踏むと矢が飛んでくる床」、「一定時間で閉まる鉄格子」、「無限ループする回廊」といった悪意あるトラップが満載だ。
さらに、徘徊する敵も強力になる。物理攻撃を無効化するゴーストや、即死魔法を放つダークメイジなどがうようよしている。
「くっ、なんて禍々しい気配だ……。勇者よ、警戒しろ」
アリアが、先ほどのブレスで少し溶けて歪んだ鉄の剣を構え、油断なく周囲を見回す。
彼女の騎士としての勘は正しい。まともに挑めば、レベル1の俺は瞬殺される。騎士団長のアリアも勝てる可能性は限りなく低いだろう。
「この迷宮は、かつて調査隊が全滅した場所と聞く。慎重に進まねば……。まずはあの扉か?」
彼女が視線を向けたのは、正面にある巨大な鉄扉だった。
順路としては正解だ。あの扉を開け、第一層の鍵を探し、第二層へ進み、中ボスのミノタウロスを倒して……。
「……ダメだ。そんなことをしていたら日が暮れる。それにそもそも死にに行くようなものだ」
俺は首を振り、即座に計算した。
迷宮の正規攻略にかかる想定時間は、熟練プレイヤーでも早くて40分。もちろんゲームプレイ時間で考えて。
今の俺の装備とレベルなら、クリアなんて到底できずにあの世行きだろう。
「アリア、そっちじゃない」
「え? だが、道はあちらしか……」
「道がないなら作ればいい。こっちだ」
俺は彼女が進もうとした大扉を無視し、迷宮の隅――廊下の行き止まりにある、何の変哲もない窪みへと歩み寄った。
そこには、ただ埃っぽい木箱が一つ、乱雑に放置されているだけだ。
背景オブジェクトの一つであり、アイテムが入っているわけでもない。
「勇者?そっちは行き止まりだぞ?まさかその木箱に宝でも?」
「いや、用があるのはこの『角』だ」
俺は木箱を持ち上げると、それを部屋の隅、壁と壁が直角に交わるポイントに丁寧に置いた。
そして、アリアを手招きする。
「ここを登るぞ」
「は?」
アリアが素っ頓狂な声を出し、天井を見上げた。
遥か20メートル上空に、上の階層の床が見えている。
壁は垂直の石積み。登るための足場など一切ない。
「正気か!?こんなツルツルの壁、登れるわけがないだろう!それに天井があるじゃないか!」
「壁を登るんじゃない。『抜ける』んだよ」
俺は木箱の上に飛び乗った。
そして、壁の角に向かって体を密着させる。
「いいかアリア、よく見ておけ。この世界の物理法則の『穴』を」
俺は木箱の上で、壁に向かって歩き続けた。
当然、進めない。俺の体は壁にぶつかり、その場で足踏みを繰り返す。
傍から見れば、壁に向かってひたすらジョギングしている奇行種だ。
「……勇者よ、疲れているのか?やはりマグマの熱で頭が……」
「静かに。今、座標を調整している」
俺は視界のタイマーと、キャラクターの座標ズレに全神経を集中させる。
この世界において、「キャラクター」と「可動オブジェクト(木箱)」と「不動オブジェクト(壁)」の三つが重なり合った時、判定の優先順位にエラーが生じることがある。
俺の体は「前に進みたい」。
壁は「通さない」。
そして足元の木箱は「乗ると不安定でグラグラする」。
この矛盾した力が一点に集中した時、行き場を失った俺の座標は、最も抵抗の少ない方向――つまり「上」へと弾き出される。
通称、「エレベーター・グリッチ」。
グググッ……!
足元の木箱がカタカタと震え出した。
きた。ゲームをしていた時はコントローラが振動したが、この世界では木箱が震えるのか。
「お、おい!箱が……壁にめり込んでないか!?」
「今だッ!」
俺はタイミングを合わせ、一度しゃがんだ後にジャンプをした。
バシュゥゥゥン!!
ジャンプをした瞬間、空気が弾ける音と共に俺の体はロケットのように真上へと射出された。
重力を無視した超高速の上昇。
「現実だとこええぇ…」
目前に迫ってくる天井を見て、流石に怖くなってきた。本当に大丈夫だろうかと一抹の不安がよぎる。ただ今までもゲームと同じような裏技は使えた。つまりこの天井もすり抜けられるはず。
そのまま天井の石材が迫るが、ありえない速度の加速がついた俺の体は判定をすり抜け、怖がっていたのが嘘のようにあっけなく天井を「透過」した。
――視界が一瞬暗転し、次の瞬間には、俺は上の階層の廊下に立っていた。
「……ふぅ。成功だな」
俺は服についた埃を払い、下の階層を覗き込んだ。
今起きたグリッチにより一時的に床が透けて見え、遥か下に、ポカンと口を開けて空を見上げているアリアの姿が見える。
「おーい!アリア!早く上がって来い!」
俺が大声で呼ぶと、アリアがビクリと肩を震わせた。
彼女には、俺が天井に吸い込まれて消えたように見えたはずだ。それなのに、声が天井の裏側から聞こえてくるのだから、幽霊でも見た気分だろう。
「ど、どうなってるんだ!?貴様、天井を突き破ったのか!?」
「突き破ったんじゃない、すり抜けたんだ。そこにある木箱の上に乗って、壁に向かって走れ。そうすれば世界がお前を上に吐き出してくれる」
「意味が分からん!そんな理屈が通ってたまるか!」
アリアが涙目で叫ぶ。
ごもっともだ。だが、現実は非情である。
俺が降りて迎えに行くわけにはいかない。一度降りれば、また登る手間がかかる。
「早くしろ!時間が経つと敵に見つかる可能性もある」
敵もそうだが、ゲームだとその木箱は一定時間で元の位置に自動的に戻っていた。この世界は現実だとしても、どこまでゲームと同じかわからないからな。木箱が戻ってしまったらまた一からやり直しだ。
「くっ、もうどうにでもなれ!」
覚悟を決めたのか、アリアはおそるおそる木箱の上に乗った。
そして、俺がやったように壁の角に向かって、やけくそ気味に走り始めた。
「こ、こうか!?こうすればいいのか!うおおおおっ!」
騎士団長が壁に向かって全力で足踏みをするシュールな光景。
だが、彼女の装備重量と木箱の相性が良かったのか、現象はすぐに起きた。
バシュッ!
「ひゃあああああああっ!?」
悲鳴と共に、アリアの体がカッ飛んでくる。
彼女は天井をすり抜け、俺の目の前にドサリと尻餅をついた。
「い、痛ったぁ……。な、なんなんだ今の浮遊感は……。内臓がひっくり返るかと……」
「ナイスジャンプだ。これで地下1階から5階まで一気にショートカットできたぞ」
俺はアリアに手を差し伸べ、立たせた。
これで面倒な迷路探索も、中ボス戦もすべてスキップ完了だ。
【00:11:45】
俺たちが今いるのは、魔王城の中枢部へと続く「静寂の回廊」。
ここを抜ければ、いよいよ魔王の待つ「玉座の間」だ。
「……なぁ勇者よ」
アリアがふらつく足で立ち上がり、憔悴しきった顔で俺を見た。
「私はもう、何が起きても驚かないつもりだった。だが、一つだけ聞かせてくれ」
「なんだ?」
「私たちは、本当に『冒険』をしているのか? 私の知っている冒険は、もっとこう……汗と涙と、仲間との絆で困難を乗り越えるものなのだが」
彼女の瞳には、崩れ去った常識への哀愁が漂っている。
俺は少し考え、そして真顔で答えた。
「これは冒険じゃない。『作業』だ」
「夢も希望もない!」
アリアのツッコミが回廊に響く。
だが、その声には以前ほどの敵意はない。
彼女も薄々気づき始めているのだろう。俺のこのデタラメな行動こそが、世界を救う唯一の手段(最短ルート)なのだと。
「行くぞ。次はいよいよ本丸だ」
俺は回廊の奥、巨大な両開きの扉を見据えた。
その向こうから、肌を刺すような強烈な魔力が漏れ出している。
魔王がいる。
そして、エンディングへのカウントダウンが待っている。
次話もよろしくお願いします!




