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第8話 嘘の舞台、開幕

 十月の最終土曜日。空は、抜けるような青を湛えていた。


 校庭の銀杏並木は、いよいよその死期を悟ったかのように、狂おしいほどの金色を振り撒いている。


 風が吹くたびに、扇形の葉がアスファルトを叩く乾いた音が響く。それは僕にとって、断頭台へ続く階段の足音のように聞こえた。


 文化祭当日。校内は浮き足立った騒乱に包まれている。


 廊下を行き交う生徒たちの笑い声、模擬店から漂う油の匂い、ブラスバンドが奏でる不揃いな旋律。

 それらすべての日常が、僕には薄っぺらな舞台装置に見えて仕方がなかった。


 僕は体育館の舞台袖で、最後の大道具のチェックを行っていた。


 あの日、保健室で彼女の手帳を見て以来、僕の世界からは再び色が消えた。


 彼女が僕に向ける微笑みも、時折見せる優水菜らしい仕草も、すべてが緻密に計算されたスクリプトに見える。


 彼女の喉から漏れる吐息さえも、僕を欺くための人工的な風のように感じていた。


「久連くん、背景のパネル、もう少しだけ左に寄せられるかな」


 背後から、澄んだ声が響く。

 振り向くと、そこには人魚姫がいた。


 彼女は、衣装係が心血を注いで作り上げた、深海の青を映したようなドレスを纏っていた。


 鎖骨のあたりには、本物の真珠を模したビーズが散りばめられ、彼女の陶器のような肌をより白く際立たせている。


 美しい。

 誰もがそう思うだろう。だが、僕は知っている。


 そのドレスの下で動いているのは、彼女が踏みにじった優水菜の真心であり、その瞳の奥にあるのは、僕を支配しようとする醜い執着だ。


「……了解した。これくらいか」

「ええ、完璧。ありがとう」


 彼女は、少しだけ首を傾げて僕を見た。

 手帳に書いてあった通りだ。相手の瞳を覗き込むことで、親密さを偽装する癖。


 僕は彼女の視線を、冷徹な鏡のように跳ね返した。


「いよいよだね、耕助くん」

「そうだな。……お前の『最高傑作』、期待してるよ」


 僕の言葉に含まれた棘に、彼女は気づいただろうか。


 彼女は一瞬、眉を微かに動かしたが、すぐに優水菜らしい天真爛漫な笑みを張り付かせた。


「うん。私、泡になって消えるまで、全力で演じるから」


 嘘をつけ。

 お前は、消えるつもりなんてさらさらないくせに。


 泡になって消えるふりをして、俺の心に一生消えない染みを残すつもりなんだろう。




 体育館の照明が落とされた。


 重い緞帳(どんちょう)がゆっくりと上がり、客席のざわめきが波が引くように静まり返る。


 舞台中央、青いスポットライトの中に、一人の少女が横たわっていた。


 劇は、人魚姫が嵐の夜に王子を救い出すシーンから始まった。

 背景には、僕が青いペンキを何度も塗り重ねて作った絶望の海。


 彼女の声が、静まり返った体育館に響き渡る。


「――おねがい、目を覚まして。あなたを、こんな場所で終わらせたくないの」


 客席の誰かが、小さく鼻をすする音が聞こえた。


 彼女の演技は、完璧だった。

 声を失う前の、無邪気で、けれど命を懸けた愛を知ってしまった人魚姫の脆さ。


 それはかつて、優水菜が文化祭でやりたいと語っていた、あの理想の物語を完璧にトレースしていた。


 だが、舞台袖で脚本を握る僕の手は、怒りで震えていた。


 彼女は、優水菜の手紙に書かれていた「あなたは、あなたの人生を生きて」という願いを、最も無惨な形で利用している。


 優水菜が「忘れていい」と言ったからこそ、彼女はその言葉を逆手に取り、優水菜を完璧に演じることで、僕を永遠の喪失感に閉じ込めようとしているのだ。


 舞台が進むにつれ、彼女の呼吸が乱れ始めた。


 激しいダンスや、声を張り上げるシーンは、彼女の身体――病み上がりの心臓にとって、猛毒に等しい。


 スポットライトを浴びる彼女の額には、大粒の汗が浮かんでいた。

 衣装の胸元が、激しい鼓動を隠しきれずに上下している。


 僕は舞台袖の影から、その予兆を、冷めた目で見つめていた。


 「自業自得だ」と、心の中で吐き捨てる。

 死者の皮を被って踊るから、その報いを受けているんだ。




 劇はいよいよ、クライマックスへと向かう。


 人魚姫は、魔女から与えられた短剣を手に、王子の寝室に忍び込む。


 この短剣で王子を殺せば、彼女は人魚に戻り、命を繋ぎ止めることができる。

 だが、殺さなければ、彼女は泡になって消えてしまう。


 舞台上の彼女は、蒼白な顔で短剣を構えていた。

 照明は、彼女の影を壁に長く、歪に投影している。


「……王子様。あなたは、私の声を知らない。私があなたを救ったことも、私がどれほどあなたを愛しているかも……何も、知らないのね」


 そのセリフは、脚本通りだった。

 だが、彼女の声には、これまでの完璧な優水菜の演技とは明らかに違う、何かが混ざり始めていた。


 掠れ、震え、絞り出すような、天ヶ瀬菜々美自身の悲鳴。


「私は……あなたを殺せない。でも、あなたに他の誰かを愛してほしくもない! 私がいなくなった後、あなたが幸せになるなんて、耐えられない!」


 客席が、凍りついた。


 それは、アンデルセンの『人魚姫』にはない、優水菜が望んだ美しい犠牲でもない、醜い独占欲の吐露だった。


 脚本を書いていた時、彼女が漏らした私自身の愛が、舞台上で暴走を始めている。


 彼女は、震える瞳で舞台袖の僕を見た。


 暗がりにいる僕を、彼女は見つけ出した。

 その瞳は、助けを求めているのではない。

 「見ていて」と、呪いのように僕を射抜いていた。


『耕助を、よろしくね』


 優水菜の手紙の言葉が、脳内でリフレインする。


 優水菜、お前は本当に、こんな結末を望んでいたのか?


 この嘘つきの少女が、お前の心臓を使って、俺の心を八つ裂きにすることを。


「……私は、泡になる。でも、ただの泡じゃない。あなたの瞳を濁らせ、あなたの呼吸を奪う、消えない毒になるわ!」


 彼女は狂気じみた美しさを湛えながら、最後の一線を越えようとしていた。


 舞台の照明が、真っ赤に反転する。




 ◇ ◇ ◇




 舞台の照明が、網膜を焼くような真っ赤な色に染まる。


 それは海面を照らす朝日の光であり、同時に、自分を殺してまで、存在を刻もうとする天ヶ瀬菜々美の、激情の象徴のようでもあった。


 短剣を投げ捨てた人魚姫は、ゆっくりとその身を波に預けるように床へと沈んでいく。

 彼女を支えるはずの王子の腕はそこにはなく、彼女はただ独り、冷たい板張りの舞台の上で、泡となって消える運命をなぞっていた。

 

「君を、ハッピーエンドにしたくない」


 彼女の声は、最後の一音まで震えていなかった。


 心臓が悲鳴を上げ、視界が白濁していくような極限状態の中で、彼女は自らの意志で、自らの筋繊維に動けと命令し続けていた。その異常なまでの自己制御。


 優水菜は、こんなふうに自分を痛めつけてまで誰かを縛るような真似はしなかった。

 優水菜なら、もっと優しく笑って、もっと綺麗に消えていったはずだ。


 だが、今、目の前で命を削っているこの少女は、美しさよりも醜い執着を選び取っていた。


 静寂。

 照明がゆっくりと落ち、体育館が深い闇に包まれる。


 一秒、二秒。


 その沈黙を破ったのは、客席の後方から始まった、地鳴りのような拍手だった。


 暗転の中で、僕は舞台へと駆け寄った。

 幕が下りるまでの数秒間、僕は床に倒れ伏した彼女の身体を強引に抱き起こす。


 彼女の肌は、触れた場所が火傷しそうなくらいに熱く、それでいて驚くほど小刻みに震えていた。

 その震えは、身体が物理的な限界を超えたことを告げる警告音のようだった。


「……やりきったよ。耕助くん」


 闇の中で、彼女の瞳が爛々と輝いていた。

 それは勝利を確信した捕食者の瞳であり、同時に、すべてを使い果たした瞳でもあった。


 僕は何も答えず、ただ彼女を支えて、下りてきた緞帳の裏側へと連れて行った。拍手の音は幕の向こう側でさらに大きくなり、体育館の床を揺らしている。


 クラスメイトたちの歓声が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえた。


「最高だったよ、天ヶ瀬さん!」

「マジで泣いた……。久連も、これまでお疲れ」


 クラスメイトにねぎらいの言葉をもらい、舞台裏の狭い通路から彼女を連れ出す。


 体育館を出て、ある程度歩いたところで彼女を壁に寄りかからせ、その琥珀色の瞳を真正面から見つめた。


 彼女の肩は激しく上下し、衣装の隙間から見える鎖骨が、呼吸のたびに鋭く浮き沈みしている。


「お前の嘘は全部知っている」


 その言葉が喉元まで出かかり、そして、飲み込んだ。


 今、ここでその事実を突きつければ、彼女はどうなるだろうか。

 積み上げてきた偽りの自分が崩壊し、彼女は生きる拠り所を失うに違いない。


 そしてそれは、僕にとっても優水菜の影を完全に喪失することを意味していた。


 僕は、彼女の嘘を暴くのではなく、その嘘を抱えたままの彼女を共犯者として受け入れる道を選んだ。


「……ひどい顔だぞ」


 低い声で僕は言った。彼女は力なく壁に頭を預け、天井を仰いだ。


 衣装の真珠が、彼女の乱れた呼吸に合わせて虚しく揺れる。その姿は、先ほどまでの神々しさが嘘のように、ひどく惨めで、救いようのない一人の少女に見えた。


「……うん、そうだね。でも、これでいいの。私は、私の物語を完結させたんだから」


 彼女は自分の左胸を、衣装ごと強く掴んだ。その指先が、布地を白くなるまで締め上げる。


「ねえ、耕助くん。今の私は、彼女に見える? あなたが愛した、あの真宮寺優水菜として、私は死ねたかな?」


 その問いは、僕の胸を鋭く切り裂いた。


 彼女は、自分が空っぽであることを知っている。だからこそ、死者の影を借りなければ、僕の隣に立つことさえできなかったのだ。


 彼女は僕を騙すことでしか、僕との繋がりを持てなかった。その歪んだ情熱のすべてが、彼女の孤独の裏返しだった。


 僕は、彼女の震える肩をそっと掴んだ。

 目の前にいるのは、優水菜の心臓を持った怪物ではない。


 愛されたいという渇望に焼かれ、自分自身を削って薪にしている、愚かなほどに一途な少女だ。


 彼女がどれほど優水菜を研究し、僕の心を掌握しようとしてきたか。その裏側に、どれほどの血の滲むような努力があったのか。


 あいつが愛した俺という人間に近づくために、彼女は自分の命の時間を削り続けてきたのだ。


 あの日見た手紙の中で、優水菜は「自由になって」と願っていた。


 だが、彼女はその願いを捨ててまで、僕という呪縛を選んだ。その不器用で狂った献身を、僕はどうしても、ただの悪意だと切り捨てることができなかった。


「……優水菜なら、今のお前を見たら、きっと呆れてるだろうな。こんな無茶苦茶な劇、あいつならもっと楽しくやりたかったはずだ」

「……でしょうね。私、あの子の理想を全部めちゃくちゃにしたんだから」

「でも……俺も、お前のことを言えた義理じゃない。……お前の中に優水菜を求めて、お前の本心なんて見ようともしなかった。俺が見ていたのは、お前じゃなくて、お前に映した自分勝手な幻想だったんだ」


 僕はふっと、自嘲気味に笑った。

 鏡合わせだったんだ。

 偽物の優水菜を作り出そうとした彼女と、偽物の優水菜を求め続けた僕。


 僕たちは二人とも、死者の影にすがりついて、今を生きることから逃げていただけだった。


 僕は、彼女の嘘を知っていることを隠したまま、彼女の隣に立つことを決めた。その嘘は、もはや彼女と僕を繋ぐ、唯一の細い糸だった。


「……菜々美」


 初めて、その名を呼んだ。

 優水菜を演じるための器としての名ではなく、目の前でボロボロになって立っている、一人の少女の名前を。


 彼女は、弾かれたように顔を上げた。

 琥珀色の瞳が、驚愕で見開かれる。その瞳に溜まっていた涙が、一筋、頬を伝って流れ落ちた。


「……え?」

「もう、いいよ。……お前が書いたあの脚本のラスト、優水菜なら絶対書かない内容だったけど……正直、俺は嫌いじゃなかった。最悪で、自分勝手で、執念深くて……でも、それがお前の本心だったんだろ」


 僕は、彼女の肩からずり落ちかけていた衣装のショールを、無造作に、けれど少しだけ丁寧に掛け直した。


 その肩はまだ震えていたが、先ほどのような絶望の色は薄れていた。


「今まで、その⋯⋯悪かった。こんな俺と話し続けてくれて感謝してる」


 菜々美の瞳から、次々と涙がこぼれ落ちていく。


 それは今度こそ、誰の模倣でもない、彼女自身の感情だった。人魚姫が声を失う代わりに手に入れた、本当の言葉のようでもあった。


 僕は背を向けて、出口へと歩き出した。


 一人で立ち尽くしている彼女を、あえて置いていく。

 彼女が自分自身の足で、この嘘の舞台を降りてくるのを待つために。


「……何、ぼさっとしてるんだよ。文化委員だろ。片付けが終わらなきゃ、俺たちの文化祭は終わらないんだぞ」


 歩きながら、僕は少しだけ声を張った。

 渡り廊下から外に出ると、秋晴れの太陽が柔らかく照りつけ、肌寒い風が吹いている。


 金色の銀杏が舞い散る、秋の終わりの匂い。


 空は深く澄んだ青色に染まっていて、雲が様々な表情を作っている。


「屋台行くんだろ? 早くしろよ、菜々美。たこ焼きも焼きそばも、すぐ売り切れるぞ」


 後ろで、小さく、けれど確かな足音が聞こえた。


 床を蹴る音が響く。


 それはかつての優水菜の軽やかなステップとは違う、どこか頼りなくて、一生懸命で、一歩一歩の重みを感じさせる、天ヶ瀬菜々美の足音だった。


「……待ってよ、耕助くん!」


 彼女が僕の隣を歩く。


「名前、初めて呼んでくれた!」

「そうだったか? 覚えてねぇ」


 僕は気づかない(フリ)をして、お茶を濁す。


 僕は、彼女が抱えている嘘を、彼女が打ち明けるその日まで、墓場まで持っていく覚悟を決めた。その嘘があるからこそ、僕たちは今、こうして繋がっていられる。

 

 ハッピーエンドになんて、させない。

 お前が俺を繋ぎ止めるために吐いたすべての嘘を、俺は承知の上で飲んでやる。


 でも、君がその嘘を突き通すと言うなら、俺はその嘘を信じているふりをしながら、君の隣を歩いていたい。


 僕たちの新しく、そしてどこまでも歪な物語が、ここから本格的に始まろうとしていた。


「……たこ焼き、かつお節多めがいい」

「わがまま言うな。売り切れてなかったらな」


 僕たちは、冬の足音が聞こえる校庭へと、二人で歩き出した。

この話を読み終わった方の中には「耕助はなぜ、あんなにもあっさりと菜々美を受け入れたのか?」と疑問を抱かれた方もいると思います。

名前を呼び、あまつさえ屋台へ誘う姿は、一見すると心変わりが早すぎるように見えるかもしれません。

しかし私として、耕助の心境は、純粋な好意というより「共犯者になる決意」です。

優しくなったのではなく、「二人で泥沼に浸かろう」という、歪んだ覚悟の表れとして描きました。

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