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第6話 書き換えられた結末

 文化祭の出し物が『人魚姫』に決まってから、放課後の図書室は僕たちの作業場になった。


 クラスメイトたちは大道具や衣装の担当に分かれ、それぞれが騒がしく動き回っているが、脚本をまとめる文化委員の僕たちだけは、静まり返った書庫の隅で机を並べている。


 窓の外では、十月後半の太陽が急ぎ足で沈もうとしていた。

 西日に照らされた図書室の床に、僕と彼女の影が長く伸びている。その影は、重なり合うことも、離れすぎることもなく、一定の距離を保ったまま固定されていた。


 僕は既存の脚本のテンプレートをタブレットで眺めていたが、指先は少しも動かない。

 一方で、隣に座る彼女は、大学ノートに猛烈な勢いでペンを走らせていた。


 時折、彼女が髪を耳にかける。

 その何気ない仕草が、視界の端に入るたびに、僕の思考は停止する。あいつと同じ癖だ、と思ってしまう自分と、そんなことはどうでもいい、と否定する自分が、胸の中で絶えず殴り合っていた。


「……できた。読んでくれる?」


 彼女がノートをこちらへ差し出した。その指先が少しだけ震えている。

 僕は無言でノートを受け取った。そこには、彼女の繊細な筆跡で、書き直された『人魚姫』の終盤のシーンが綴られていた。




 ◇ ◇ ◇




 アンデルセンの童話なら、王子を殺せなかった人魚姫は泡になって消える。優水菜が望んだ結末なら、人魚姫は最期に声を添えて、王子と結ばれる奇跡を願うはずだった。


 しかし、彼女が書いた脚本は、そのどちらとも違っていた。


 ――人魚姫は、王子の心臓を刺すための短剣を手に、彼の寝室に立つ。


 だが、彼女は気づく。王子が愛しているのは、自分を救ってくれた別の誰かの幻影なのだと。隣にいても、見つめ合っていても、王子の瞳に映っているのは自分ではないのだと。


 そこで、脚本の中の人魚姫は独白する。


『私は、あなたを殺さない。けれど、あなたを許しもしない。私が消えた後、あなたの中に消えない傷を残したい。あなたが他の誰かを抱く時、ふとした瞬間に私の痛みを思い出してほしい。愛されることより、忘れられないことの方が、ずっと残酷で、ずっと幸せだから』


 読み進めるうちに、背筋が凍るような感覚に襲われた。


 これは、人魚姫の物語ではない。


 僕を、そして自分自身を追い詰めるための、天ヶ瀬菜々美の宣戦布告だ。


「……なんだよ、これ。優水菜は、こんな悲劇をやりたかったわけじゃない」


 僕はノートを机に叩きつけた。静かな図書室に、不快な音が響く。


「優水菜なら、もっと明るくて、救いのある話を考えたはずだ。お前は、あいつの願いを汚してる」

「彼女なら、そうしたかもしれないね」


 彼女は、静かに僕を見つめた。その瞳には、夕日の赤が深く染み込んでいた。


「でも、書いているのは私。この心臓を動かして、このペンを握っているのは、私なの。……耕助くん、あなたはいつまで、いない人の許可を取り続けるつもり?」

「⋯⋯お前に何が分かる!」


 僕は立ち上がり、彼女を見下ろした。


「お前はただ、心臓をもらっただけの他人だ。あいつがどんな思いで文化祭を楽しみにしてたか、あいつがどんなふうに俺の隣にいたか……お前に分かるはずがない!」

「分かるよ。……分かっちゃうんだよ」


 彼女も立ち上がり、僕に一歩近づいた。その距離は、水族館の時よりもずっと近い。彼女の吐息が届くほどの距離。


「この子がね、あなたを見るたびに、あふれてくるの。……あなたが笑った時の安心感とか、怒った時の悲しみとか。……でもね、耕助くん。それが彼女の記憶だとしても、それを受け取って『痛い』って思っているのは、私なの。彼女じゃない、私の心が、今、壊れそうだって言ってるの!」


 彼女は自分の左胸を強く掴んだ。服がしわになり、細い指が白く浮き出る。


「あなたが私を『器』として扱うたびに、私は彼女に嫉妬する。……死んだ人に嫉妬して、自分を殺したくなる。……そんな醜い感情、彼女は持ってなかったでしょう? これは、私だけのものなの。私だけの……汚い愛なの」


 僕は言葉を失った。

 彼女は、優水菜のふりをしているのではない。


 優水菜の記憶という巨大な重力に抗いながら、そこからこぼれ落ちた自分自身の感情を、必死に守ろうとしている。

 

 脚本に書かれた『忘れられないことの方が、幸せだ』という歪んだ願い。


 それは、優水菜を忘れられない僕への当てつけであり、同時に、自分を「天ヶ瀬菜々美」として刻みつけたいという、悲鳴に近い欲望だった。


「人魚姫はね、耕助くん。……王子を殺せなかったから泡になったんじゃない。王子を愛している自分を、殺せなかったから消えたの。……自分を消すことでしか、彼から自由になれなかったから」


 彼女の頬を、一筋の涙が伝った。

 夕日に透けるその涙は、あまりにも透明で、あまりにも残酷だった。




 ◇ ◇ ◇




 僕は、伸ばしかけた手を引っ込めた。

 彼女を抱きしめてはいけない。そんなことをすれば、僕は本当に、優水菜という過去を失ってしまう。


 けれど、目の前で泣いているこの少女を、どうしようもなく、一人の人間として認識し始めている自分を止められない。


「……脚本は、これでいい。書き直すな」


 僕は震える声で言った。


「お前の言う通りだ。文化祭は、今ここにいる奴らが作るもんだ。……あいつなら、きっと怒るだろうけどな」

「……ありがとう。耕助くん」


 彼女は、泣きながら微笑んだ。その笑顔は、優水菜のどの記憶にもない、彼女だけの不器用な表情だった。


 図書室の窓の外、銀杏の葉が風に舞い、黄金色の吹雪となって校庭を埋め尽くしていく。


 文化祭まで、あと少し。

 僕たちは、嘘と真実が混ざり合った舞台を、一歩ずつ作り上げていく。

 

 僕の心臓が、彼女の言葉に呼応するように、激しく脈打っていた。


 それが僕自身の感情なのか、それとも、彼女の中のあいつが喜んでいるのか。


 その答えは、まだ硝子越しの景色の向こう側に、隠されたままだった。

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